一着目 誰もが心に変身願望を持っている……はず。

 俺の名前は数馬かずま九十九つくも

 都内の高校に通う健全男子、もう少しで十七歳になる高校二年生だ。

 趣味はアニメや漫画やゲーム、一般的にオタクと言われる部類の人間であるけれど、外見はそれなりに普通ではあると自分では思っている。少なくとも体重は全国の男子高校生の平均値。

 そんな俺が最近嵌り始めたのがカメラ。

 常日頃からカメラを持ち歩いて、スナップ写真なんかを撮るお洒落な趣味だと勘違いされがちだが、俺の嵌っているのは所謂コスプレ写真。

 なぜそんな趣味を持ったのかって?

 それは、アニメなどのキャラクターに扮するコスプレイヤー達を、初めて見た時に俺は衝撃を受けたんだ。

 楽しそうだな。

 素直にそう思ったんだ。

 その日、朝早くからビッグサイトに来て冬の凍えるような寒空の下、待機列で心身ともに疲弊していた俺はとんでもないミスを犯した。

 家を出る前に飲んだコーヒー牛乳がまずかったのか、10時開場目前の9時50分頃、俺はついにトイレの大の方の我慢の限界が来てしまった。

 本当に迂闊だった。夏ならまだしも、冷え切ったアスファルトの上で潮風に晒されながらの耐久レース、冬のこれは本当に辛い、鍛えられている猛者でもやはり辛いものは辛い、とは言っても動き出す前だったら全然問題ない。

 知らない人もいるかもしれないけど、コミケの待機列は、列が動き出す前であればトイレなどで抜けても構わないのだ。

 もちろん前後の人に声を掛けてからと言うのが礼儀である。

 途中で列を抜けてしまったからと言って最後尾へと言うようなことはない。

 皆それを知っているので抜けて戻ってきても文句を言う人はまずいない。

 あそこにいる連中は獲物を狙うライバル達でもあるが、暑さ寒さを耐え忍び苦楽を共にしてきた仲間でもあるのだ。

 だがしかし、いつでも抜けてOKなのかと言うとそうでもない。待機列が動き出してからは御法度、移動中に催してしまったら即脱落のデスゲームへと化すのである。

 俺はその『脱落するかしないかの境界線』で催してしまったのだ。


 やばいやばいやばい! 漏れる漏れる漏れる! どうする? スタンディングクロス(足をクロスさせて肛門を塞ぐ、対便意闘法のことらしい)を駆使しても凌ぎきれるかわからない。

 というかこれは絶対に液体だ! それくらいの腹の痛さだ。あの技は固形にはある程度の効果を発揮するが液体には無力にも等しい。

 くっそおっ! あ、うんこだけに? ちがわいっ! どうする? どうなる俺? この場所なら列が動き出せば最短15分くらいで入場できるはず。そこから脇目もふらず目的のサークルブースまで行けば間に合うんじゃないのか? 耐えられるか俺? いや、耐えろ俺っ!


 無理でした。


 健闘虚しく俺は列が動き出す直前に待機列を離れトイレに、戻って来た時には東駐車場の真ん中に、俺の折りたたみ椅子がポツンと佇んでいた……。


 その日の収穫は散々であった。

 列の最後尾へ並び直して、入場できたのは開場から1時間半余りが経過した頃。

 人気サークルの目ぼしいグッズは軒並み完売、新刊は後に委託でゲットできるにしても、布物はほぼ絶望的と言っていいだろう。


 終わった。


 俺の冬コミはこれでお終いだ……。大晦日になにやってんだろうな俺……ハハハ。

 そう思うと涙が溢れた。

 そうして這う這うの体で会場内を彷徨っている時、ふらっと立ち寄った西棟コスプレエリア。今までは二次元ラブ、三次元なんかには興味なんてないやい、大体コスプレイヤーなんて皆目立ちたいだけの自己顕示欲の強いビッチばかりなんだろう、と近づきもしなかった場所だ。

 だけど、俺はその場所で立ち尽くし動くことができなかった。


 皆、なんて楽しそうな笑顔をしているのだろう……。


 寒さに震え、薄い本を手に入れるために獣のような目をしながら、或いは死んだ魚のような目をしながら人の波に飲まれていく、そんな東棟の雰囲気とはまるで違った。

 皆が皆、大好きな作品の大好きなキャラクターに扮し、そのキャラクターになりきっている。決して競うような、争うような、そんな雰囲気を出している者は一人もいない。

 カメラマン達が列を作っているのは人気作品の人気キャラクターだけではない。俺の知らない、恐らくは何十年も昔のアニメのキャラクターであっても、それを懐かしむ人達、或いは知らなくてもその完成度の高さに感心して写真を撮らせて貰っている人もいた。

 きっと皆、心からコスプレを楽しんでいるのだろう。

 勿論中には、純粋にそれを楽しむ為だけではない、そんな目的の奴もいるのかもしれない。

 けれども俺はその日、その時、その場所で思ってしまったんだ。

 フラッシュと陽の光を浴びてキラキラと輝くコスプレイヤー達に憧れてしまったんだ。

 俺もこの世界を知りたい、飛び込んでみたいと思ったんだ。


「それが、俺がカメコを始めた切っ掛けだ土留」

「なんですかそれ? 気持ち悪いです先輩」

「人の美しい思い出を気持ち悪いとか言うんじゃないよ、失礼な奴だな」

「大体その話と、わたしがコスプレイヤーをやると言うのと、どういう関係があるんですか?」


 今は夏、コミケ会場で土留彩羽を見つけた俺は彼女を誘い、秋葉原の喫茶店でコスプレをやらないか? と説得中だ。


「わたしは二次元の男子が好きなんです。三次元には興味なんてないんです。大体、委員会でちょろっと話したことしかない後輩に、よくそんな破廉恥なことを頼めますね。キモイです」

「ちょろっとしか話したことのない相手に、二次元にしか興味がないとか言い放つのもどうかと思うぞ?」

「うっ……。うぅ、ますますキモイです」


 なんでだよ。


「とにかくだ! 俺はおまえに一目惚れしたんだ! 頼む土留、この夏コミの最終日までに俺がなんとかしてみせるから、レイヤーをやってくれないか?」

「ひっ? 一目惚れってなんですか? キモイですっ! そんなの絶対にいやでえええす!」


 喫茶店の中に木霊する土留の悲鳴に、他のお客さんの視線が痛いのであった。

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