第26話 失恋とたった一つの目標

 恵梨香は未だに呆然としていた。

 不動産業者と男は何やら会話をしているようだが、まるで耳に入ってこない。

 まるで白昼夢を見ているようだ。

 

 なんで・・あの医者がここにいるの・・・

 

 さっきから、その疑問が頭の中をかけ巡っている。

 むろん、答えはでない。

 銀行員・・医者じゃないの・・・いやそもそもなんで・・・

 

 驚愕で思考が思うように進まない。

 そんな中、ほとんど聞き流していた恵梨香の耳に一つのワードが飛び込んできた。


「・・・・すから・・・城田さんに・・・あらかじめ・・・本音で・・風俗・・」


 この業者の男何を言い出すのだ。

 よりにもよって、何故その話をここでするんだ。

 いや、確かに恵梨香は事前に聞いてはいた。


 今日は銀行の人と会うから、本音で今の仕事のことも全て話してください。

 そうしないとローンが通らない。

 家も買えないですよ・・と言われていた。

 

 だが、自分の知っている男とは聞いていない。

 こんな恥辱があるか。

 恵梨香の心は、無理やりに「驚愕」からより強い感情、「恥」に切り替えられた。

 

 ずっと、顔を下に向けているから、男の顔はわからない。

 数十秒ずっとうつむいているのは、明らかに変だが、それでも顔を上にあげられない。


 顔を上げて、男と目があったら、どういう顔をすればいいのだ。

 まともに目をあわせることなど到底できない。


 「安井さん・・どうされたのですか?」

 

 うつむき戸惑う恵梨香に対して、男が話しかけてきた。

 これでは顔を上げざるを得ない。

 男の顔には、怒りも驚きも、何の表情も浮かんでいなかった。


 その顔を最初に見た時は戸惑いを感じた。

 しかし、すぐに恵梨香の心にふつふつと怒りがこみ上げてくる。 

 

 別にどうでもいいっていうの・・・

 

 男の表情はそう言っている。

 つまり、恵梨香は男にとってどうでもよい存在だったのだ。

 自分が身バレしたことよりもそのことの方がショックだった。


 恵梨香は、テーブル席の横に突っ立って、男を睨む。

 不動産業者もさすがに二人の間に漂うただならぬ雰囲気を察したのだろうが、どうすればよいのかわからず、「ええ・・」「あの・・」など言いオロオロと戸惑うばかりだ。


 次の数秒後、テーブルに置いてあったコーヒーを取り上げて、男にかけていた。 

 ほとんど反射的な行動だった。

 胸に溜まった行き場のない怒りを無意識に発散したのだ。

 

 男はいきなり恵梨香にコーヒーをぶっかけられて、目を白黒させて驚愕の表情を浮かべていた。

 その仏頂面が、ようやく変わったことに恵梨香は、喜びを感じていた。

 

 ざまあみろ・・

 

 恵梨香はそのまま踵を返して、店を出る。

 歩きながら、恵梨香は自分の心を改めて整理していた。

 つまり、自分は、あの男のことを思っていた以上に、好きだったという訳だ。


 だから、あんなに怒り、あんな行動をしたのだ。

 そして、そう想った時、自分の頬に涙が伝っているのに気付いた。


 「だ、大丈夫ですか。城田さん・・・」

 不動産業者の男は慌てふためいている。

 それも当然だろう。

 自分が連れてきた客がいきなり銀行員にコーヒーをぶっかけたら、誰だって混乱する。

 

 城田も混乱していた。

 あの女が風俗嬢だったことにも驚いたが、それよりも何故いきなりあんな行動を取ったのか意味がわからない。


 「大丈夫ですよ」と業者をなだめすかせると、その後業者は、

 「いや本当にすみません。」

 「あの客と知り合いなんですか」


 などと、驚愕の顔からいつもの相手を探るような疑い深い顔を浮かべて、城田と女の関係を探ってくる。

 最初は、自らの非だと思っていたが、城田と客の女が知り合いでなんらかのトラブルが前々からあったのだという考えに至ったのだろう。


 「いやわかりません」

 「・・じゃなんであんなことしたんですかね」と応答が続いた後、

 「それより・・いいんですか・・お客さん追わなくて・・」と暗に業者をこの場から追い出そうと促す。

「まあ・・・そうですね・・ちょっと探してきます・・また仕切り直しということで・・」 


 業者は「はあ・・」とため息をつき、いかにもしかたがないといった様子でその場を後にした。故意なのか、忘れていたのかわからないが、支払いを済ませずに。


 適当な業者らしいな・・


 伝票を見ながら、一人残された城田は苦笑いを浮かべる。

 オシボリと紙ナプキンでかけられたコーヒーをふきながら、女のことを考えていた。


 あの女・・・風俗嬢だったのか・・・


 よくよく考えて見れば、それっぽいところがあったようにも思える。

 しかし、今の今までまるで気づかなかった。

 城田は先ほどの苦笑いからさらに口を大きく開けて、声を上げて、笑っていた。


 つまり、俺はこの生涯で素人の女から一度も相手にされなかったということか。

 そして、今や俺は殺人者でもある。

 きっとこのまま捕まれば、3日くらいはワイドショーのネタにはなるだろう。


 無差別殺人を犯しても、この期間がせいぜい一ヶ月になるくらいだ。

 だが、一人だけ、たった一人だけ殺すことができれば、俺は歴史に名を残せる。

 ただの一般人が、一気に歴史上の偉人になれるのだ。



 「あら・・今日もいらっしゃったのですか。いつもありがとうございます。」


 また来たのか。

 この人。

 この三ヶ月ほど週一、二回ほどは使っている。


 それまでは、誰かの同伴でもまるで来なかった客だ。

 少なくとも記憶の限りでは。

 岸本妙子が働く店は、都内にある老舗の割烹料理屋だ。


 当然、歴史に比例して、値段設定も高い。

 だから、それなりの属性の客でなければ来れない。も

 もちろん、たまにやってくる一見さんも中にはいる。


 何かの記念日を祝うため、一生に一回の出来事として使うために、身の丈を超えた値段にもかかわらず、思い出にしようと店を使うような客たち。

 そういう客たちは、大半は大企業の高齢のサラリーマンたちで、子供の祝い事のために、惜しげもなくお金を使う。


 世間一般的には、彼らはそれなりの良い客なのだろうが、この店では違う。

 以前なら、こういう客は断っていた。

 彼らは所詮は雇われの身なのだ。


 いくら大企業に勤めているだのなんだのと言っても、その収入の天井は限られている。

 だから、金払いにも限界がある。

 いくら今節丁寧に接客しても、彼らが来るのは記念日の一回きり。


 それなのに、大企業のそれなりの役職の、ましてや頭が硬い高齢者だちだから、無駄にプライドだけは高い。

 一方で、品がない者が多く、理性を失うほど酔っ払って、暴れる者までいる始末だ。


 要は店としては割に合わない客ということなのだ。

 だが、このご時世そうも言ってはいられない。

 交際費を派手に使える企業など今や天然記念物並になり、常連として来る客はめっきり減った。


 老舗と言っても、それだけで通用する時代ではとうにない。

 だから、最近では大衆にも門戸を広げているのだ。

 そういう大衆の相手をするのは正直嫌だった。


 妙子は品があり選ばれた層のお客様にサービスをこなすことに誇りを持っている。 

 だが、妙子は経営者でもなく、経験が長いとはいえ、あくまで一従業員だ。


 店の方針に口を出せる身分ではない。

 内心憤りを感じつつもプロとして、大衆相手にも全力で接客をする。

 そういう長い接客経験から妙子は、客の身なりからだいたいのバックグランドを嗅ぎ分けることができる。


 その嗅覚からすると、最近常連となったこの客はどう考えても富裕層という雰囲気ではない。

 時々来る一見さん、つまり普通のサラリーマンといったところだ。


 だが、何の変哲もないサラリーマンなら、この店にこんなに何度も来られるはずがない。

 妙子がこの常連客に興味をひかれた理由はもう一つある。


 それは、この客があまりにも奇妙な店の使い方をしている点だ。

 この客は、いつも一人なのだ。

 仕事上の会食に使うわけでもなく、女との食事に使う訳でもない。


 必ず一人でしか利用しない。

 使い方が妙だからといって、しっかり金を落としている以上、店側としては文句はない。

 だが、妙子のこの不可思議な客に対する疑問はますます深まるばかりだ。


 だから、接客をする時に何度か、それとなく男の素性を調べようと、会話をふってみた。

 だが、男は生返事をするだけで、自分のことはとんと話さない。


 話しを振らなくとも、自分の方から仕事の話しをしたりして、素性をひけらかす者が多いというのに、この男はそういう話しは一切しない。

 だから、この奇妙な男から突然話しかけられて、妙子は数秒間反応できなかった。


「えっ・・・・あ・・・はあ・・・あの申し訳ありません・・ぼおとしてしまいまして・・今なんと・・」


「ああ・・すいません。お仕事中・・・いや・・このお店はこれだけの格式があるから、やっぱりそれなりのお客様が贔屓にされているんでしょうね。」


 いつも無言の男は今日は人が変わったように、妙子に話しかけてくる。

 相変わらず表情は硬いままではあるが。

 その変化に戸惑いながらも、自分が誇りを持って長年働いてきた店を褒められるとつい嬉しくなり、そんな違和感はどこかへと消えてしまう。


 妙子は、懇切丁寧に、この奇妙な常連客にこの店を懇意にしてくれている有名人、政治家の話をした。

 男は何度もうなずき興味深げに聞いていた。


 特に政治家の話になると、細かく聞いてきた。

 普通は政治家なんて興味がない人が大半だが、男は具体的にあれこれと聞いてきた。


 妙子も男の返しに口の滑りがずいぶんとよくなってしまい、つい調子になって色々と話してしまった。

 そして、つい店の主人から口止めされているある有名な政治家の話しまでしてしまった。


 これまでずっと表情を変えてこなかった男も日本の首相がこの店の常連だと知ってさぞかし驚いたのだろう。

 これまで以上に、妙子への質問に拍車がかかった。


「一度近くで見てみたいもんです。でもさすがにそんなに頻繁には来ないですよね・・」


「あら・・お客さん運が良いですよ。今度来るんですよ。もう予約が入ってて。もしかしたら鉢合わせするかもしれないですよ。」


「へえ・・それは・・・確かに運がいいですね」


 客はこの時、今まで見たことがないほどの笑顔を浮かべていた。

 その意味が妙子にわかったのは後日のことだった。


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