第23話 どこにでもいるパワハラ上司の滅多に無い終わり方

 今入は、けだるい朝の目覚めを迎えていた。

 枕元の時計を見ると、時間は午前10時を示している。

 

 くそ・・こんな時間まで寝ちまうなんて・・起こしてくれればいいのに・・全くあいつは・・

 

 ベッドから起き上がり、寝室を出て、居間に向かって声を荒げる。


 「おい!何で・・・」


 誰もいない居間の様子を見て、ようやく寝ぼけていた頭が覚醒する。


 ・・ち・・そうか・・いないのか・・・


 何か朝飯にちょうどよい気の利いたものでもないかと、冷蔵庫を覗くが、出来合いのものは何もない。

 卵、チーズ、調味料など、材料になるものは各種あるが、作る気には慣れない。


 というより、作り方がわからない。

 朝飯を作るのは、35年間女房の役割だったのだから、当然だ。

 苦々しく、冷蔵庫のドアを占めると、ダイニングテーブルの上に無造作に置かれたタバコを取り、火を点ける。

 

 紫煙を吐いてようやく気が落ち着いてきたが、灰皿がないことに気付き、またイライラが襲ってきた。

 流しの方にあるかと思い、目をやる。


 数日分の食器が無造作に積み重なっている中に、目的のものがあった。

 ったく!いつまであのままにしているつもりだ!

 汚らしい使用済みの皿の山を見て、俄然イラつきが全身を駆け巡る。


 あの女、いつまで家を空ける気なんだ!

 今入の脳裏に、数日前~いや数十日前だったか~の不快な記憶が蘇る。

 どうにも仕事を辞めてしまうと、日の感覚が薄くなってしまう。


 長年連れ添った女房が、いきなり居なくなった。

 「出ていきます。」というメールを一方的によこして。

 そこには、冷たく淡々と様々な理由が書かれていたが、要は今入とは一緒に暮らせない、うんざりだという内容だった。


 よくある女のヒステリーだろうと今入は特に相手にしなかった。

 どうせすぐに戻ってくるだろうと。

 しかし、何日待っても女房は戻ってこない。


 流石に不安になった。

 女房のことが心配になったのではない。

 これまでと同じような自分の生活を送ることが出来るのだろうかが不安だった。

 

 女房の携帯に電話をしても梨の礫だ。

 メールを送っても返ってこない。

 仕方がなしに、離れて暮らす息子と娘に電話をする。

 

 が、こちらもまるで出ない。

 親が連絡してるんだ!電話くらい出ろ!

 とメールを送ったら、しばらく経ってから娘からメールの返信があった。


(私達は、完全に母さんの味方だから)


 ふざけるな!

 それを見て、今入は今やかなりの広さになった家で一人大声を出して、激昂した。

 昨日のことを思い返し、苦々しく短くなったタバコの火を灰皿に押し潰す。


 どいつもこいつもこれまでの恩を仇で返しやがって!

 二人の子供の学費、それにこの家のローンを払ったのは誰だと思っているんだ!

 退職するまで懸命に仕事をしてきた。


 残業だって最高で月200百時間やっていたこともある。

 今入は、いつも誰よりも会社に残っていたはずだ。

 そこまでして、働いて稼いだ金を使ってやったのに、そのお返しがこれか。

 

 久々に会社のことを考えて、今入は、ますます苦虫を噛み潰した渋い顔になる。

 会社の奴らも、家族と同じだ。

 あんなに貢献したのに、あっさりと切り捨てやがって。

 

 今入は同期の中で一番の出世頭という訳ではなかったが、そこそこ順当に出世していた。

 だが、50代前半にして大きくつまずいた。

 

 その原因は、部下にあった。

 今入は当時、管理職として数人の部下を統率していた。

 自分がやられたように、そしてこれまでやってきたように、部下を指導してきた。

 

 それで、問題がないはずだった。

 特段厳しくしたつもりはない。

 だが、運が悪いことに、今入の部下の一人が自殺してしまった。

 

 自殺したという一報を聞いて、今入は、当然驚いた。

 だが、線の細いやつだったし、そういうこともあるかと冷めて見ていた。

 それよりも・・自分の処遇が気になった。

 

 今までの部下の中でも何人かこういう弱っちい奴らは一定程度はいて、会社を辞めたり、ノイローゼになったのだの泣き言をほざいて、休みを取ったりしていた。

 だが、自殺というのは初めてだった。


 とはいえ、それは、今入の部下だった中では・・・というだけで、会社全体では、自殺した奴らの話は何人か聞いたことがある。

 今入は、すぐに直属の上司にこの問題~部下の自殺~をホウレンソウした。

 

 上司の態度は、曖昧だった。

 数十分話し合ったが、つまるところ「なんか面倒なことになったが、まあうまく処理をしてくれよ」ということだった。

 

 しかし、これもまあいつものことだった。

 実際、すぐに終わるだろうと思った。

 通りいっぺんとうの調査が入り、今後は部下指導を丁寧にやってくれと人事部から小言をいわれて終わり。

 

 それが、今まで自殺した社員が出た店舗や部で行われてきたことだった。

 後はかん口令がひかれて、その社員は後にも先にもいなかったことになり、せいぜいが時折酒の席で面白半分の噂が出るくらいなものだ。

 

 今入の部下の自殺もそうなるはずだった。

 だが、そうはならなかった。

 クソ!あの時は本当についてなかった!


 早くも新しいタバコに火をつけ、乱暴に口元に運ぶ。

 死んだ部下の両親が面倒な奴らだったのだ。

 高学歴の頭でっかちのいい子ちゃんの親らしく、穏便に済まそうとする会社の意向に頑として歯向かいやがったのだ。


 両親との交渉がこじれているから説得に行ってくれと人事部から言われて、今入は渋々、地方郊外にある部下の実家へと足を運んだ。

 流石に一人でいう訳にはいかないから、今入の直属の上司も同伴した。


 上司は、今入以上に腰が重かった。

 最低でも二人でと言われているので・・と伝えて、ようやく上司は同行を承諾した。


 死んだ部下の実家は、皮肉にも今入の出身県と同じであったが、住んでいる家の外観もそこの主人もまるで違っていた。

 閑静な住宅街にある重厚な佇まいの家、そして中にいる両親は今入が嫌いな理屈っぽいインテリ然としたやつらだった。


 父親も母親も、いかにも育ちが良さそうな佇まいで、こんな時でも決して口汚く、今入たちを罵ったりしない。

 そんな感情を表に出さない対応が反って不気味だった。


 感情をあらわにされた方がはるかに与しやすい。

 今入は、内心を隠し、ひたすら平身低頭で頭を下げ続けた。

 心の底では、自分が育ってきた環境とあまりにも異なる立派な家庭環境に劣等感が湧き上がり、謝罪の気持ちなど毛頭なかった。


 むしろ、こんな恵まれた家庭の甘ちゃんな子供が生き残れず、学のないブルーカラーの両親を持つ、高卒の自分が生きていることに、満足感を覚えていた。

 こんなぬるい環境で生きてきたから、すぐに死んじまうんだ。


 俺は生き抜いてきたんだぞ!

 上司もひたすら謝罪の弁を述べるが、いざ責任の核心に迫られると、曖昧な説明に終始し、ノラリクラリとかわしていた。


 時間さえ引き伸ばせば、その内、両親の気持ちも落ち着くだろう。

 人事部も今入も上司もみなそう思っていた。

 いやそう思いたかったのだ。


 解決が難しい問題は、先送りにするに限る。

 会社の仕事はなんであれそうやってやり過ごすものだ。

 しかし、昨今は、人一人の命の価値は、今入たちが思っていた以上に、値上がりしていたようだ。


 部下の両親にとっては、自分の子供の命の価値は何にも代えがたいようだった。

 両親は和解を拒絶し、会社と公の場で争うことを選んだ。

 法律に訴えれば、どちらが正しいのかは火を見るより明らかになってしまう。


 今入たちが当然として受け入れている道理は所詮隔絶した会社という狭い組織の中でしか通らないものだ。

 

 そんなおかしな不文律が、ひと度しがらみのない世間の目にさらされれば、外部の人間からは、当然おかしなものとして認識されてしまう。

 結果、会社側は全面的に敗訴した。

 

 そうなれば、誰かが責任を取らなければならない。

 その責を負わされたのは、部下の直属の上司だった今入だった。

 こんなことで会社を訴える両親が悪い、奴らはおかしいなどと今入と一緒になって賛同してくれた上司は、手のひらを返したように今入を批判した。

 

 彼はやりすぎた、自分も止めようと思ったが、暴走した。

 それが、上司が人事部のヒアリングで語った弁だ。

 今入は役職を外されて、閑職に飛ばされた。


 そこで、部下も実質的な仕事もないまま定年までの数年を過ごした。

 仕事がうまくいかなければ、他に楽しみを見出すということなど今更できるはずもない。


 家族との面倒な対話を拒み続け、さりとて他に何かをやる訳でもなく、ただ会社の仕事を処理してきただけの数十年を過ごしてきたのだから。

 その人生を外部に言う時は、虚飾し、仕事一筋の人生ということができるだろう。


 だが、実態は、変化を恐れて、何かを自分で選択せずに、流されるままに現状維持に終始してきた人生だ。

 家族にも逃げられ、何かに夢中になることも出来ずに、ただ時間を持て余す日々。


 時折、鏡に映るのは、皺だらけの顔に、ガタガタになり、黄ばんだ歯を噛みしめる老人。

 嫌でも認めさせられてしまう。

 今の自分の惨めさを。


 そんな惨めさを否定しようとすればするほど、心は乱され、たまに優しく接してくれる人々を遠ざけ、より一層孤独を招いてしまう。

 

 突然、部屋にチャイムが鳴り響く。

 平日の午前中に誰だと訝しむ。

 何か宅配を頼んだ記憶はない。


 勧誘か何かか・・それとも女房が戻ってきたのかもしれない。

 ああは言っていたが、娘か息子が説得してくれたのかもしれない。

 久々に沸き立つ期待を胸に、今入は顔をほころばせながら、玄関の扉を開け放つ。


 若い男がいた。

 30代前半くらいの男だ。

 知らない顔ではない。


 だが、思い出せない。

 五秒ほど、あっけにとられ、無言のまま突っ立っていた。

 先に反応したのは、相手の男だった。


 だが、男は言葉ではなく、変わりに両手を勢い良く、差し出してきた。

 その予想外の行為に、今入は「あっ・・」と短く言葉を発する。

 次の瞬間、今まで感じたことのない感覚が胸部を中心に全身に駆け巡った。


 目を見やると、男の両手は今入の体奥深くに侵入していた。

 自分でも驚くほどの速さで反射的に、男の両手を押し返そうとするが、だが相手は既に次の動作に写っていた。


 引き戻された両手を、ぼんやりとした眼で魅入ると、一面赤褐色に染まっていた。

 

 あ・・何だ・・これ・・・


 男はもう一度、素早い動きで、両手を突き出した。

 その両手は先ほどよりも深く、今入の胸部をエグッた。

 今入はその衝撃で、地面に膝を着く。


 逆光に照らされた男の顔を見上げる。


 あ・・こいつ・・


 今入の記憶が蘇る。

 かつての自分の部下の一人・・・だが・・・

 自分に何が起きたのかを理解する前に、今入の意識はそこで永遠に途絶えた。

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