第2話 待っていた男

 闇のなか浮かび上がるコート姿の男のシルエット。手にしたランタンがLED特有の青白い光を放っている。

 近づいてくる男。ランタンの光が揺れる。この男が今回の警備の発注者。北山銀行の警備窓口担当者であろう。

 私は羽織っていた薄手のジャケットを脱ぐ。その下は警備員の制服だ。

「お疲れ様です」

 制帽を手に持ったまま私は軽い会釈でコート姿の男に挨拶した。顔はよく見えない。

「ひさしぶりですね、先輩」

 男が言った。かつて聞いた時より老いてはいるが、聞き覚えのある声だ。そして、私を先輩と呼ぶ者は限られている。

 すぐに相手の名を思い出して、どうしてやろうかと迷う。殴ろうか、それとも皮肉のひとつでも言ってやろうかと。しかし、やめることにした。今夜は仕事で来ているのだ。そして、コート姿の男は発注者の窓口担当者である。危害を加えていいはずがなかった。

「照井…部長さん、お久しぶりです」

 と私は短く答えておいた。特に感情は込めない、鸚鵡返し的な返答である。

 LEDの光が照井の顔を浮かび上がらせた。私の顔もそう見えるのかもしれないが、青白い光のせいで照井は死体のように見えた。影によって皺が強調されているからなおさらだ。すっかり老け込んでおり、どこからみても銀行のお偉いさんという姿をしていた――きっちり着込みすぎてるくらいの三つ揃いの濃紺スーツに臙脂のネクタイ。靴はピカピカに磨かれており、しゃがみこんだ時にできる革の皺の名残なんてひとつもなかった。いまや、彼は落ちたボールペンひとつ自分では拾わないに違いない――そんな細部まで見えることにこの時の私は何の疑問も抱かなかった。ただ、昔とは変わったものだと思った。だから、挨拶のあと質問してみたのだ。

「照井さん、覚えてらっしゃいますか、警備員が歩く速度」

「時速六キロメートル」

 照井は即座に答えた。警備員の巡回時の歩みは一分間に一二〇歩と決められている。歩幅八〇センチ強の男性なら速さは一分間に一〇〇メートル。つまりは、時速六キロメートルになる。

「さすが、照井部長、素晴らしい記憶力ですね」

 反射的に言葉が口をついた。照井が警備と関わりを持っていたのはもう三〇年近く前のことなのだ。

「ものごとに数字がからむと忘れない。そして世の中はだいたい数字で動いている。だから僕はいろいろ忘れることができないんですよ。中居さんも忘れないほうですよね、映像記憶だかで」

 照井は両手の親指と人差し指を使ってフレームを作ってみせた。彼の言うとおり、今でも記憶術は私のちょっとした特技である。写真のシャッターを押すように記憶のスイッチを押して、画像や映像のように物事を記憶できる。ただし、その記憶はおおよそ短期や中期のものばかりで、長らくそのまま記憶し続けることはできない。さっきまでの机の上と今の机の上の違いは頭のなかの写真と見比べればわかる。しかし、数十年も前のことなんていっこうに覚えてはいない。例外は心がひどく傷つけられたときぐらいだ。

 照井の言葉で、私はひとりの女のことを思い出す。思い出のなかの彼女はいつでも若い。私はその頃の彼女しか知らないからだ。彼女が頭のなかで動きはじめ、私は慌てる。ダメだ、そこから先は。見てはいけない――終わったことだ。もう覚えておく必要はない。なのに――いつも頭のなかに保管されている記録映像が始まりそうだったので私は慌てて別のことを考えはじめる。東京の精神科で教わったやり方だ。辛い記憶を再生するのではなく、別のものを再生するのだ。録画したテレビ番組を別のものに切り替えるように。

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