二、春

 昼餉ひるげの頃、春の日差しが温かく、窓辺でつくろい物をしているうちに、カミラはうたた寝をしていた。昔の思い出が、浅い眠りゆえか、紙芝居のように夢に出てきた。それは、苦悶の夢だった。


 夢の始めに出てきたのは、カミラの人生を大きく覆した夜だった。

 まだカミラが十代の後半ごろ、若い娘のときだった。その日は、夜遅くまで糸を紡いでいた。病気の母を抱えていたカミラは、明日までに仕上げれば買い値を倍にすると買い主が言うものだから、根を詰めすぎたのだった。


 少し手を休めて気持ちを切り替えよう、外の空気を吸おうと思い、病床の母を起こすことのないよう、そっと静かに外へ出た。家から、本当に数歩しか離れなかったそのとき、宵闇よいやみに紛れ、なにかに唐突に押し倒されたと思ったら、頬がれて口の中に砂が入り込む。口の中が気持ち悪くて砂を吐き出そうとした瞬間に襲ってきたのは、めくれ上がったスカートから露わになった右の太ももへの、鋭い痛みだった。思わず体をよじって、痛みの方を向くと、そこには大きな白い狼がいた。


 頭の中に浮かんだのは、この前、旅の吟遊詩人が訪れた際に歌ってから、ずっと村の間で流行りになっていた一節――深い森の奥から現れる人間は、満月の夜に狼になり、人を食らう。運良く生き延びても、噛まれた人間も人狼へと至るのだ――が浮かんだ。思わず空を見上げると、見事な、満月だった。


 痛みに涙しながら、満月を見た瞬間、己の体が獣へと徐々じょじょに変わっていくのを感じた。衣服が裂け、体の節々が痛み、苦しみながら獣へと変容する。白い狼は、いつの間にかいなくなっていた。

 ふと気が付けば、朝日が昇り始めた頃合いで、村の近くの森の中に一人、丸裸でぽつんと座り込んでいた。そこには、鹿を無惨に食い荒らした痕が残っていた。


 震える足で家へ戻り、病床の母がなにを問うて、それに対しカミラはなにを答えたのか、まったく思い出せない。のちに気づいたが、あの人狼は、彼女を食べるわけではなく、仲間を増やすためだったのだと考えた。


 人狼に噛まれて二か月が過ぎた頃、カミラが人狼であることに勘づいた村人たちが、村長の家でカミラを殺すことを議題に騒いでいるのを、偶然、漏れ聞いた。その日、命惜しさに、母を置き去りにして村を出た。別の村で、とある村で人狼の母親と、それとは別に狼に化けた男がいたため、村人の手によって二人は火刑にされたと、風のうわさで聞いた。その日は、なにもすることができなかった。


 あの夜を境に、カミラの人生は流転の日々へと変わり果てたのだ。


 満月の夜になれば、嫌でも体が変化してしまうこの呪わしい体を抱えて、いろいろな村を渡り歩いた。満月の日に雨が重なれば、その日だけは変化せずに済む。その日ほど、心が安らぐ日はなかった。

 どうにか人として暮らせるように、月の満ち欠けを正確に数えるようにし、満月になる夜は夕刻にそっと忍び出て、村からなるべく離れて隠れるようにした。変化すると衣服が破けるので、金銭は胸に下げられるようポーチを作って、いつ逃げる状況になっても困らないよう、肌身離さず持つようにもした。さすがに服までは持てないので、悟られないよう何着も同じ服を作ってタンスにしまいこんだ。そんな苦労を重ねても、ある日、誰かに勘づかれ、また村を追われる。一度、狼になってしまうと記憶がないのも難点だった。狼になった自分は、人の匂いを辿って村の中に入り込もうとするのだから。


 それでも、村人に追い出されるなら、まだ易しいほうだった。それよりも恐ろしいものが存在した。

 人狼は人に害なす魔物として、それらを駆除する「人狼駆除組合じんろうくじょくみあい」を呼び出されれば、狼へと変化を認めた途端、執拗に彼らはカミラを追いかけ、殺そうとしてくるのだ。組合の中で、人相書きも出回っているようだったから、時に長い髪を切ったり、娼婦のように厚化粧をしてみたり、フードで顔を隠し、顔に醜い傷があるなどと嘘を吐きながら生きてきた。


 人狼駆除組合は、本当に厄介だった。彼らはナイフや銃など様々な武器の扱いに長け、夜目やめも利くよう訓練されているので、追われると大変だった。今までは、いつもぎりぎりのところで逃げ切ることができた。そのときばかりは、カミラは天に感謝した。


 なぜあんな組合があるのかと、どこかの村で誰かと雑談交じりに聞いてみたことがあったが、始まりは、とある女性なのだという。

 その女性は、愛する人を人狼に食い殺され、人狼に憎しみを抱き、人狼を狩るようになった。また人狼に親を殺された子供たちがいれば、彼女はその子たちを引き取り、育てたのだという。

 それから次第に、人狼に恐れをなした領主や貴族たちとも取引が盛んになるなどの事情も加わり、人狼へ憎しみを抱く者、金を欲する者、様々な人々が集い、今の組合に至るまで大きくなっていったのだそうだ。


 二点だけ、カミラが幸いと思ったのは、彼らは、自分たちが人狼駆除組合であることを、誰にでもわかるよう目印に赤い服や帽子、フードをかぶり、コランバインの花のブローチを付けるのだ。そのため、彼らが村へ来たことにすぐ気づければ、彼らも慣れぬ場所では、すぐに動き出せない。その合間に、そっと逃げ出すことができた。そして、彼らの中で強固に守られている四つの掟があるそうで、その一つが、“変化するまで人狼を殺すな”というものがあるらしく、変化を見られなければ殺されることは、まずなかった。だが疑わしい者へは監視の目がつくので、その目をあざむくのが大変だった。


 そんな組合を設立した女性は、すでに老年となり現役を退いたが、組合員をまとめあげる頭領として働いているとも聞いた。母のように優しく、厳しいその老女を、親しみを込めて、“おばあさま”と組合員は呼ぶのだという。


 その連中に追われ、何度も逃げて、村に入り、追い出され、そんな生活を、もう何年も繰り返していた。なりたくてなったこの身でないというのにと、幾度もあの日、自分を噛んだ人狼を恨み、人のうからから離れたことに慨嘆する。それでも、密かに人や獣を食らい、そして己を呪い、逃げて、カミラは生き延びていた。自死する勇気もなく、ただそうすることしか、できなかった。


 それでもある日、人狼駆除組合に追われ、追い詰められかけていた。満月の夜、狼に変化し逃げていたのだろうが、突然、空が曇って変化が解けてしまった。気づけば、やはり見知らぬ森の中で、そして急速に雲が滂沱ぼうだの雨を降らし、どうしようもなく立ち尽くしていたとき、彼と出会ったのだ。今では愛し合う男と。


 とんとん、と窓を叩く音に、カミラは目を覚ます。腫れぼったい目で、音がしたほうを見やると、にやっと笑う、傍目はためには軽薄そうな男がいた。


「ロジャー!」


 人狼駆除組合のせいで赤は嫌いな色になっていたが、唯一、この燃えるような赤毛は愛おしかった。あの滂沱の雨の中、カミラが出会った男、ロジャーだった。彼はこの二週間ほど、不在にしていた。ここから馬車で三日ほどかかる、交易の盛んな町まで商いと、その町に住む伯父が具合が悪いとの知らせが入り、父親と共に見舞いに行っていたのだ。


 彼は、あの雨の中、素っ裸の自分を見て驚きながらも、機転を利かせ、人が隠れるのにちょうどいい木のうろを見つけ、カミラをそこに隠し、追いかけてきた人狼駆除組合の前へ出て、狼や人は見ていないと証言し、匿ってくれたのだ。

 きっとすぐに思い直して殺される。そう思ったが、ロジャーは、人狼駆除組合を呼び出すこともなく、そのまま自分が着ていた上着をカミラに着せると、自身の家があるこの村へ連れてきてくれた。家に着くと、真っ先にずぶ濡れだったカミラへ、彼の亡き母の遺した服を渡し、残り物だが、鍋にスープがあったとそれを温めなおして与えてくれた。そこまでしてやっと、大きなくしゃみをして彼は自分の着替えを取りに、一度、部屋へ引っ込んだ。こんなに親切にされたことは初めてだったので、カミラはずっと、夢でも見ているような気分だった。


 その後、戻ってきた彼と、なにをどう話していいかわからず、ずっと押し黙っていると、ロジャーは気まずく思ったのか、自分は町から村へ帰る途中に寄った宿屋の酒場で酒を飲み、ついつい飲みすぎて酔っぱらった勢いで、ここから村まで歩いて帰ってやろう! と思って歩いていたところ、あの大雨に遭ったのだという。冗談めかしながら言うものだから、どこまでが本当かはわからなかったが、それでもカミラは静かに、彼に感謝した。


 そして、ロジャーは少し迷ったようだが、己の疑問を口にした。「君は人狼なの?」と。なぜか、偽ることが出来ず、「そうです」と答えてしまった。だが、彼はそれ以上、詮索することもなく、「そうか」と返事をするだけだった。その日は、客室を貸してもらい、震えながら眠った。


 翌日に知ったが、ロジャーは、村長の息子だった。見た目通り、軽薄というか奔放な性格で、町へ出てはいろいろな女性と浮き名を流す男であった。

 その代わりとでもいうか、猟師としての腕前は一流だった。また、奔放に見えて気働きの利く細やかな性格で――だからこそ、女性たちとの付き合いが多かったのかもしれないが――流れ者のカミラが村に受け入れられるよう尽力し、なぜ一人で来たのかと聞かれた場合には、わざわざ「嵐で川が氾濫し、それに巻き込まれて流されてしまった」という口裏まで合わせてくれた。

 老いた伯父が町へ出た息子のところに行くということで、空いていたこの家を貸してくれるよう、自分の父に話も持ち出してくれた。


 彼の父は、元は人狼駆除組合の一員だったとのことで、任務の際に足を悪くして以来、引退したと聞いた。町に出ていた分、知識も豊かで人をまとめるのが上手く、この村に戻ってからは村長となったのだと、ロジャーに教えてもらった。無論、そんな男だからこそ、流れ者のカミラに人狼ではないかと疑惑の目は向けたものの、息子の言葉を信じ、家を安値で貸してくれた。

 それからもロジャーは毎日、カミラの元へ訪れ、他愛ない話や、猟で得た獲物をわけてくれるなど、なにかと気にかけてくれるのだった。


 ロジャーに対し、はじめは警戒していたカミラも、いつしか、常に胸の底にある冷たく淀んだ黒い塊が溶けるように消えて、彼と共にいると温かい気持ちになった。それと同時に、不安も覚えた。これ以上、彼に近づいてはいけないのではないかとも、考えるようになった。近づきすぎて、手痛いしっぺ返しを食らうのが、ただ恐ろしかった。


 そして、村に居ついて落ち着いた頃、ちょうど満月を迎えるその日、彼からカミラのことが好きだと言われたとき、ただ涙した。恐ろしい獣の自分に、どうしてこんな愛を与えてくれるのかわからなかったが、それでも、もうカミラも引き返せないところまで、彼を愛していた。


 その日、獣に変わる自分を、できれば見せたくなかったし、襲ってしまう可能性も高かった。見たら、一瞬で気持ちが変わるかもしれない。なによりそれが恐ろしかった。そんな不安を伝えても、彼はがんとして一緒にいるのだと譲らなかった。


 そのまま夕刻に村を抜け出し、人目のつかぬところで狼に変化した。完全に変化する寸前まで、涙があふれ、どうか彼を食い殺すなと念じ続けた。

 朝日が昇ったとき、自分は彼の腕の中で眠っていた。彼は、生きていた。眠そうにしながらも、自分の頭をずっと撫でてくれていた。顔に流れる自分の黒い髪が厭わしかったが、を食べて周りは血の海ではあったが、それよりも愛する男が生きていたことに、己のくらい人生に、小さな希望が持てたような気がした。それからは、満月の夜が来る度に、二人で森へ抜け出した。ときには、杣人そまびとが迷い込んだのだろうか、朝日が昇ったあと人を食っていた痕跡もあり、自分が呪わしく泣きはらしたが、それでも生きた彼がそばに居てくれる度に、心強かった。


 また、とんとん。と窓を叩く音がして、カミラはハッとする。つい、昔の思い出が夢に出てきたため、それに引っ張られて、ぼうっとしてしまった。

 彼の右手は、なにかの包みを掲げている。窓を開けると、ロジャーは身を乗り出してきた。そして、慣れた様子でカミラの頬に軽く口付ける。カミラと会うようになって以降、彼の浮き名がいつの間にか立ち消えていたことに、後に気づいたものだが、それでもこの慣れた様子は、少し機嫌が斜めになる。とはいえ、面映ゆいような気持ちもあった。恋仲になってからは、彼はなにかとカミラに抱き着いたり、口づけしたがったりするので、いつものことと言えばそうだったが、やはりそれが恥ずかしくて頬を赤く染めながら、カミラは手で押しやった。


「もう、帰ってくるなりやめてよ」


 恥ずかしがるカミラの頬を撫でながら、ロジャーはまた不敵に笑う。そして頬から手を離すと、包みをカミラの手に渡した。


「二週間振りに会うんだから、これぐらいいいじゃないか。まあいいや、それよりお土産を買ってきたんだぜ」


 受け取った包みを開くと、甘い香りが広がった。二重に包まれていて、それを開くと香りの正体がわかった。焼き菓子だ。小麦粉に砂糖とバターをたっぷり使った菓子は、市場では高級品で、普段なら貴族が食す物だった。なにかのお祝いのときでなければ、めったに庶民は口にすることができない。

 きっととても高かっただろうに。困惑した表情を浮かべるカミラに気づいたのか、気にするなとロジャーは言った。そしてちょんちょん、と菓子の包みの隣にもう一つ、包みがあることを示した。


「その菓子は、俺の知り合いが持たせてくれたんだ。本当の土産はこっち」


 もう一つの包みを開くと、櫛が出てきた。細工物の櫛で、木でできていて、薔薇の花の模様が彫られているのが美しかった。見事な作りで、職人技であることは間違いない。やはりこれも高値であったろう。返すものなどなにも持ち合わせていない。少し困ったが、それでもロジャーがわざわざ自分のために選んで買ってきてくれたのは、ただ嬉しかった。


「ありがとう、ロジャー。ごめんなさい、こんな高い物……」


「俺は、カミラが喜んでくれたら、それでいいんだよ。そういうことは、気にしないの」


 その言葉に、自分の胸がむずがゆいような、それでいて幸せな気持ちがあふれるのを感じた。顔が思わずほぐれて、微笑んでしまう。もうここに住んでから、半年が経つ。こんな日々がずっと続けばいい……。

 心の奥底で、いずれ破局を迎えることを恐れ、震える自分と、甘い幻想を抱いている自分とがいる。きっと、永遠には続かない。わかってはいても、カミラはロジャーとの今この瞬間がたまらなく幸せだった。

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