六、人狼

 満月が、中天に昇った。全てが終わり、森閑とした中、カミラは体の節々が痛みはじめ、全身の毛が総毛立つのを感じた。痛みに耐えきれず地面にもんどりうつ。


 人間の女の体から、狼の姿へと、少しずつ変容していく。衣服が破ける音がし、なめらかな白い手が白い毛に覆われ、関節が太くなり、爪が伸び始める様をぼんやりと見ながら、カミラは狼に変わるこの間が、一番苦痛だと思った。人と獣の間を揺れ動く間に、己の持つ人としての倫理観が、この後に起きることについて甲高い悲鳴を上げているのが、辛かった。けれど、変身してしまえば昂る心に逆らえない、人の記憶も脱ぎ捨てた獣の本性だけになってしまえるから、いっそ楽だった。


 女から狼へと変わり終えると、真っ先に転がった少女の死体に貪りついた。向かいに立ち尽くすセシルが顔をしかめたが、気にすることもなく肉を裂き、血をすすり、骨を噛み砕いた。辺りに食べかすが散らばる。だが、それを食べたとしても少女が今までの獲物よりずいぶんと華奢だったせいか、物足りなさが強かった。空腹が満たされぬ苛立ちに、狼は吠え立てる。


 狼が死体を食べている様を、ロジャーはつぶさに観察していた。だが普段と様子が違うことに気づくと、同時に即座に撃ち殺せるように構えた。隣にいるセシルは、さすがに気分が悪くなったのか、真っ青な顔で立ち尽くしている。


 普段なら、一人食べたら満足げに自分へすり寄り、甘えながら眠ってしまうはずだった。今日は眠ることもなく、己の食べかすを余すことなく食い尽くした後、こちらへと振り返る。その目が、二人を捉えると即座に、少年へと過たず飛びかかった。


 少年が悲鳴を上げた。狼は少年の首にかぶりつき、首から噴水のように血が噴き出した。だが、ロジャーは極めて冷静だった。少年を助けることもなく、少し距離をとるだけで、その様を冷然と見つめていた。


「足りなかったのか?」


 見つめる様子とは真逆に優しく、ロジャーは狼に声をかけた。反応するように狼は吠えた。それでも腹を満たすことに頭がいっぱいのようで、ロジャーへは見向きもしない。ふと、ロジャーは先日の頭領との会話を思い出した。


 **


 冷めたお茶を、新しく淹れ直してから、人狼駆除組合の頭領は、こうも語った。


「これは、組合員には秘密裏に行ったことなんだけれど、昔、二匹、人狼を生きたまま捕獲したことがあるの。わたしは人狼に対し、戦うときの知識はあるけれど、彼らの詳しい生態は知らなくてねぇ。掟を定める際に、知っておこうと思ったのよ」


 一つ一つ、丁寧に思い出すように、老女は人狼の生態について述べ始めた。


 捕まえた人狼の内、一匹は、生まれたときからの純粋な人狼だった。もう一匹は、人狼に噛まれて人狼になった者だったという。


 過去の経験から、人狼には二つのパターンが存在することはわかっていた。恐らく純粋な人狼と思われるパターンは、人間のときに特徴があった。異様に耳や目、口が大きいという特徴があるのだ。また、たとえば純粋な人狼を、住んでいる村の中で追い詰めたときは、人間としての記憶と狼としての記憶のいずれも持ち合わせているように、見知った道を走るように俊敏な動きをしていた。


 これらの条件を踏まえて、その人狼と思しき特徴の人物を捕らえたところ、満月の夜に人狼になったのだという。しかし、その人間のときの特徴は、普通の人間でも時々、有り得る為、人狼としての決定打にはなり得ないと判断を下した。

 その人狼は、年老いていて、あらゆる方法で尋問したところ、やはり前述のように人間と狼の記憶をどちらの姿でも保持していること、目や耳の大きさなど人間時の特徴、その他に大きな発見としては、純粋な人狼の根源がわかった。


 そもそも純粋な人狼の根源は、とある森の奥にある村――不思議なことに狼と人が互いを助け合うように、共存して生活していた場所――から始まった。ある日、その村を住処にして身ごもっていた一匹の雌の狼が、満月の夜に産んだ十匹の子供たちが、最初の純粋な人狼なのだという。

 純粋な人狼は、生まれた頃から、普段は人の姿を、満月の夜は狼へと変化するが、子供たちは人の姿でも母親の狼の乳を飲んで育ち、ある程度育っても、親の狼から食事を与えられて育てられるのだという。

 人間たちは驚いたが、子供たちをかわいがった。異様に目と耳と口は大きいが、子供のころはまだ、親の狼が餌の世話をするので、人を襲うこともなかったのだという。そして、子供たちは生まれて一年ほどで成熟期を迎えた。それまでは、村は平和だった。


 その村の人々は、成熟期を迎えた人狼たちに満月の夜、全員食い殺された。人狼たちは、しばらく村で狼やほかの獣を食い、子を増やすなどをしていたが、それらも食い尽くし、食べ物を求めて人の世界へと降り、今はすでに散り散りとなっていること。先に述べた通り、当然雌雄ともに存在すること、人狼同士で交接することによって子を増やすことが出来るが、生む数は狼と違い人間と同じように大抵は一匹しか孕まないことなどもわかった。そのため、人狼駆除組合の働きもあり、純粋な種としてはほぼ絶滅に近いのだそうだった。


 しかし、“人狼”という種族の存続として、交接以外に彼らにはもう一つの方法が存在した。彼らが狼へ変化したときの牙には、特殊な、一種の毒腺のようなものがあり、狼のときに人間を噛むことでその毒を打ち込むことで、純粋な人狼としては劣化するが、人間を同族へと変態させることができるのだという。


 それらを復唱し、書き留めたあと、その純粋な人狼は処分した。


 もう一つのパターンとして、人狼に噛まれて人狼になった者は、狼になると人間としての記憶を保てないようで、前述のように村の中で追い詰めても、特段、異様な動きはなく、ただの獣と変わりがなかった。これが純粋な人狼の言っていた劣化であった。また、人の時も、噛まれる前と見た目がなんら変わりがない。しかし元人間の人狼に人間を噛ませても、噛まれた人間が人狼になることは検証できた。


 また、人間としての記憶が保持できないとしても、餌を与える者がいれば、犬のように覚えるのか? という疑問が湧き、人狼に噛まれてなった者に対して餌遣りを試みたところ、非常に記憶力がよく、二回目にはもう餌をくれる人物は覚えているようだった。三回目にはこちらへすり寄ったりと、懐くような仕草を見せるなどの発見があった。


 だが、人狼は基本的に人間を食らうことを好む。頭領と他に、二人の腹心とでその実験を行っていたが、一人は三回目に食い殺されたのだという。


 前々から純粋にせよ、噛まれた人狼にせよ、武器を構えて隙のない相手には、無暗に攻撃をしないことは知られていた。威嚇などはするが、それよりも一番狩りやすい獲物に目当てを付けたり、場合によっては諦めて逃げることもある。

 そのときに気づいたのは、それは、餌をやる人物も、人狼は餌をくれていることは理解しているが、空腹時はあくまで獲物として彼らは捉えているということだ。

 殺された一人は、空腹時にすり寄ってくる人狼に油断して、食い殺されたのだそうだった。逆に、満腹のときであれば、犬のように甘えてきても、こちらへ危害を加えるようなことは一切なかった。そこまで見届けてから、その人狼も、処分した。


 全てを語り終えると、頭領は静かに、ロジャーを見据えた。


「ね、そうでしょう? ロジャー」


 ああ、もう本当に全てこの人には、知られてるんだな。としか思えなかった。無言のままでいると、頭領は特に、叱責することもなく笑った。


「それにね、わたしはこの先と真実が知りたいのよ。まあ、その時が来たとしても、わたしはとうに、お墓の下でしょうけど。

 人間と人狼、わたしは絶対に相容れぬと思って生きてきた。今でも、人狼は排さねばならぬ魔物だと思っている。人狼駆除組合の頭領であることは、わたしの誇り。けれど、あなたみたいな奇特な人間も稀にいるわけだから、そんなあなたたちはどんなふうに、なっていくのかしら。わたしとあなた、どちらが正しいのかしら、って。――だから、あなたとの約束は、絶対に守りましょう」


 悪戯っぽく笑う彼女に、ロジャーはなにも言い返せぬまま黙礼し、その場を辞した。

 それから、セシルとどのような算段にするかを後日まとめ、父を置いて村へ帰還した。


 **


 頭領の実験は極めて、カミラに当てはまることをロジャーは痛感していた。だが、自分自身しか知らない面も少しは、ある。


 初めて、満月の夜を迎えた日。狼へと変身するのを見られるのが嫌だと、もしロジャーを食い殺すようなことがあったら嫌だと、嫌がるカミラを説得し、彼女を連れてこの森に訪れた日のことは、彼女と出会った日と同様に、忘れられない思い出だった。恐ろしさと同時に強い興奮を覚えたこと、それらが鮮烈な記憶として残っている。


 あの日は、カミラが初めて食べたのは鹿だったと聞いていたので、自分が仕留めた兎と鹿を事前に用意して餌にした。さすがに恋人に食い殺されたくないので、猟銃を構えていたところ、カミラは多少の威嚇はあれども、頭領の言う通り、全く襲ってこなかった。


 こちらに興味を持っているようだったが、ロジャーを食らうには隙がないことを悟ったのか、仕方なさげにそっぽを向いて、勢いよく用意した餌に食らいついた。彼女が易々と肉をかみちぎる様を、半ば陶然と見つめてしまっていたのを思い出す。


 そのときの、カミラの狼としての勢いと強さたるや、ロジャーは惹かれずにいられなかったのだ。それに、本人は否定するが、カミラは変身すると、雪のような真白の美しい狼になる。獣を狩る仕事をしているが、森の中で獲物を待ち、息をひそめているときに見る、生きた獣の動く姿がロジャーは本当は好きだった。


 この美しく強い狼が、生餌にんげんを襲うときは、どうなるのだろう? ふと過ぎったその好奇心は、一度芽生えると勢いよく弾ける花火のように火花を散らし、ロジャーの心を熱く焦がした。それと同時に、あの日のカミラは獣だと満足していない様子だった。彼女をちゃんと、満足をさせてやりたい気持ちとが、次の満月を迎えるまで、激しく悶えていた。


 その次の二回目の満月のときは、たまたま近場の町に来ていた人狼駆除組合の男を与えた。夕刻、人気のない路地を歩いているところを、後ろから猟銃で頭を殴り、昏倒させて拘束し、カミラの前へ引きずり出したとき、カミラはロジャーから見るととても嬉しそうに食いついた。


 男の叫び声はうるさくてかなわなかったが、それよりも衝撃的だったのが、カミラが男を食い終わった後、ロジャーにすり寄ってきたのだ! 老女の実験よりも早く、カミラはロジャーに好意と思われるものを示していた。もしかしたら、強い結びつきのある人間は、早く覚えるのかもしれないと考えた。

 それに、野生の獣にも性格はある。狼のカミラは、食欲に対してまず忠実だった。なので、なによりも食べることを第一にしているようで、老女の実験した人狼のように、いきなりすり寄ってくることはなかった為、扱いやすかった。


 その夜は、狼のときでも自分のことを覚えているのが、ひどく嬉しく、朝まで興奮した心持ちでいた。もちろん、猟銃を持って彼女が満腹になるまでは、気を張らねばならないのだろうが、それでも嬉しかった。自分は彼女の特別なのだと、そう感じた。

 そして、朝日が昇り、人へと戻って自分の腕の中で己の身を呪いながらすすり泣く彼女が、たまらなく好きだと思った。


 また、次の満月の夜、自分はカミラの餌としてを与えるだろう。上手く見つからなければ、獣でもいいのだが、獣だとカミラはおかんむりなのだ。どうして餌が人間ではないのだと、やたらと吠え立てる。それはあまり見たくない。

 そうだ、そろそろ父も片づけねばなるまい。あの頭領から手紙の返事が来ないことに対しても、きっと疑念を抱いている。上手いこと事故を装って殺すか、それともカミラに引き合せるか考えあぐねていた。どちらにせよ、実の父を手にかけることに疑問はなかった。


 少年だったものの半分が残った。カミラは満足げに喉を鳴らすと、いつも通り、ロジャーの腹に顔をすり寄せた。顔が血だらけなので、服が汚れるのは難点だが、それでも愛しかった。頭を撫でると、カミラは体を丸め眠ってしまった。

 右前足の付け根にある銃創が痛々しかったが、弾が貫通しているのは幸いだった。人間に戻ったら、早く医者に診せなくては。傷の近くには触れないよう、慎重に柔らかい毛を幾度も撫でながら、謝罪を呟く。


「ごめんな、怖い思いをさせて」


 ――いずれ、俺もこうなる。


 ロジャーの心には、いつもカミラが人を食らうという、この光景を見るたびに、その言葉が響くのだ。


 カミラは狼になったら、一番食い易い獲物を的確に捕らえる。先ほども、セシルがぼうっと突っ立っていたから、真っ先に食らいついたのだ。自分が一瞬でも、彼女が空腹の時に隙を見せたら、こうなる。


 肺腑にしみこむほど、その言葉をいくら繰り返したとしても、それでも、カミラを殺すことも、厭うこともできなかった。そして、絶対という言葉がないことも、わかっている。獣は警戒心が強いが、隙ができないわけではない。それは人間も同じだ。自分も、きっとなにか、本当に一瞬の隙を、いつかカミラに見せるだろう。あの頭領も、本当はそれが、よくわかっているから、あんな取り引きを持ち出したのだ。


(それでも俺は、後悔しない。彼女を愛している。他には、なにもいらない)


 愛する人狼カミラが、自分を食らう瞬間が来るまで、この行為を続けるだろう。

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