第一章

第1話 緑の目の魔女 

 私は、何度でも夢を見る。


 いつか美しい馬に乗って、大好きな人たちと再会する日を。海の向こう、遠く遠くに行ってしまったお母さん。

 待ってて。どうか、待っていて。



✦ ✦ ✦ ✦ ✦



『クラリス』


 左耳のイヤーカフから、相棒の声は聞こえた。よく通る、美しい声だと思う。


『クラリス・ソル』


 返事をしないと、いつまでも呼ぶ。

 だが、少女――クラリスは、椅子に座って目を閉じて、じっとしたまま。組んだ足の爪先が宙でクックと動く。


 クラリスは美しい娘だった。


 腰まで届く長い髪は雪色、白銀に煌めき、前髪は眉の位置で切り揃えられている。

 閉じられた瞼を飾る睫もまた白銀。まるで精巧な作り物のよう。


「はいはい、起きているわよ」


 そう言って、クラリスは目を開ける。

 その瞳は鮮やかな緑。

 仄暗く光るそれを見れば、誰もが恐怖を抱くだろう。

 彼女はどこかだるそうに欠伸すると、組んでいた足を解く。その膝の上には、最新式の銀のクォレル。軽くて頑丈、そして確実に相手の息の根止める矢は氷柱のように透明。


 切っ先が向けられているのは、向かいに座った男だった。背もたれに縛られ、呻きながらもがいていた。それもそのはず、被せられた麻布には魔法文字が赤のインクで書かれ、ぴったりと顔に貼りついていたのだ。


 クラリスは優雅に、どこかすんなりした獣のように立ち上がり、その麻袋をサッと取った。そうして現われた顔を見、彼女はクッと口の端を上げる。


 男の顔は奇妙な形をしていた。人と違うのは、四つの目があることだ。そして、その鼻と口は全て縫われたように魔法で塞がれていた。息ができずにいたが、『彼ら』はある程度なら耐えられた。


「忘れて寝ていてごめんなさい、魔人さん?」


 囚われの男の耳は尖り、ぼこぼこと石が詰められたような肌は土色。極めつけに、最も人間と異なるのは目の多さ。彼は通常ある目の他に、額に二つ目を備えていた。

人間と近い姿はしているが、これは十数年前から現われた魔人ヘルズと呼ばれる者たちだ。得体の知れないものと取引をし、闇に墜ちて人の形を失った存在。再生能力が高く、兵士として重用されている。


 男の黄色い目がぎょろぎょろと動くのを見、死んだ魚みたい、とクラリスは頬杖ついてそれを見る。その表情に嫌悪感はなく、ただ純粋にどうなるか興味を持っている、という風だった。


「そろそろ毒が効いているかしらね。汗をびっしょりかいているのは第一段階よ。第二段階になるとそのボッコボコの肌におできができて破裂し始めるわ。そして、第三段階は……」


 ぱん、と彼女は手を叩く。にやりと笑うその表情はまるで悪魔。


「我々を殺す毒などあるはずがない!」


 口を開けて男は叫ぶ。だが、その額からは大量の汗が流れている。それは人とは違い黒かった。


「でも、細胞は破壊できるようね」


 男の頬に、胡桃のような大きさの吹き出物が出てくる。男は歯噛みし、クラリスを睨みつけた。


「早く、解毒剤をよこせ!」

「じゃあ、『宝物』がどこにあるか教えなさい」

「小娘、引き裂いて……グフゥ」


 男の眼前で、クラリスが人差し指で横に一本の線を引くと同時、男の口がきゅっと縫われたように閉じられる。


「次は鼻」


 告げると、鼻の穴が塞がる。

 男が手足をばたつかせる。ぎょろぎょろと動くその目に、少女は矢の切っ先を向ける。


「……目は四つもいらない。そう思わない?」


 クラリスは男の耳元で、悪魔のように囁く。目が一つ、押しつけられたように閉じられる。

 男が激しく暴れて、少女はその口だけを解放してやった。男は息も絶え絶え、苦しげに言葉を吐く。


「……旅団長デイドルホーン……東の塔の、……看守……奴の、中に……」


 それを聞き、クラリスは花のように微笑んだ。縄を解いてやり、男に水色の液体が入った小瓶を投げた。

 男は喚きながらそれをひっつかみ、蓋を投げ捨てると慌てて飲み干す。

 だが、その瞬間に白目を剥いて倒れた。


「……それが解毒剤だなんて一言も言ってないわよ」


 痙攣する男の体を見下ろし、クラリスは小首を傾げて残忍な笑みを浮かべた。それも一瞬、物音がして彼女は肩越しにそちらへ視線を向けた。

 寝台のけばけばしい緋色のカーテン、その向こうから身を隠していたらしい娘が現れる。


 娘は豊かな黒髪の巻き毛をしていて、黒く大きな目をクラリスに向けていた。彼女は踊り子が着るような派手で目に鮮やかな桃色の衣装を身につけていた。真冬で寒いというのに、その二の腕や両足は布がなく、冷えて青白い。


『……殺しちゃったの?』


 女は、異境の民の言葉で話しかけてくる。クラリスの見た目が異様だからだろう。魔力が高すぎて銀に輝く白髪も、夜に仄暗く光る瞳も魔物のものにも思える。


『わからないわ、そんなの』


 異境の言葉で返す。女は子供のような表情で、上目遣いでクラリスを見つめてくる。


『さっさと服を着て逃げれば? 扉は開けておくわ』


 そう言って、椅子に掛けられていた男物の黒いコートを女に投げて寄越す。


 背後で彼女が何か叫んでいたが、振り返らずに扉を開け、東へと向かう。

 途中、クラリスの前に立ち塞がる兵士は容赦なく弩で射る。隠れて行動しないのは、彼女と契約する【商人】が『勇気』を好むからだ。


「……私は、戦う。盾は不要。正面から立ち向かい、死を恐れないと誓う」


 そうすれば、【商人】が彼女の肉体を強化してくれる。何度傷ついても、立ち上がる力を与えてくれる。


 彼女は連続で矢を放つ。魔人兵が倒れていく。接近してきた者は、短刀抜いて喉を切り裂く。


 真っ黒な血を吐く、魔人兵。人を変異させるという毒物が吹き飛んできても平気だ。彼女が身に纏う黒のロングコートは妖魔の革から出来ている。血はあっという間に流れ落ちていく。


 そして、ついに東の塔にやってくる。


 そこは元神殿だった。礼拝の時間を告げ知らせる鐘を備えた塔があり、下に巨大な礼拝所がある。今は鐘も無いし、聖なる力もない。新たに付けられたのだろう、重い鉄の扉の前に兵士はおらず、その傍らには慈悲深い表情をした女神の像があった。


 全ての子供とその母親の守護者、とされる女神ハルディア。だが、今はその信仰は異端とされ、おおやけにはできない。


 クラリスは無表情で、その女神像を矢で撃ち抜いて破壊した。そうすると、像に刻まれた魔法陣が燃え尽きる。礼拝所の目には見えない防壁が揺らいだ。


『君の勇気を称える、クラリス・ソル』


 そう言ったのは、相棒の声ではない。『勇気』を好む【商人】遊葉アソビハだ。


 防壁が失われ、無防備になった鉄の扉を彼女は押し開く。


 その瞬間、――大量の矢がクラリスを貫いた。何本も何本も、彼女の体に降り注いで蹂躙する。小さな体が床に倒れ、その姿が見えなくなってしまうまでそれは止まらない。


 それを、看守と兵士、と囚人たちは見ていた。


 昔は神殿、今は監獄。ここは凶悪犯が収容されるという、ドロモスの収容所。


 天井まで何層も牢が重ねられ、そこに人間や獣人、亜人が収容されている。彼らはサンクトランティッド帝国に逆らった反逆者だ。反乱軍は容赦なく捕えられ、非人間的な扱いを受ける。動物のように扱われ、狭い牢に閉じ込められた。


「死んだか?」


 看守たる魔人が言い、兵士に確認するように命じる。

大量に矢が突き刺さったそこへと、兵士たちは弩を構えて近づく。


「ここまでされて生きているはずがない」


 兵士たちは、「それ」の頭と思しき場所にまで近づく。


「しかし、よくこんなところまで侵入したもんだ」

「残念だったな、久しぶりの女だったのに」


 兵士たちはさざめく。床に突き刺さった矢を避けながら歩く。

その一人が散らばる白い髪に手を伸ばし、身を屈め――その瞬間、兵士の背中から真っ黒な刃が突き出た。


 兵士はよろめき、そのまま後退って倒れる。皆、何が起こったかわからずその兵士を見つめた。


「……イッタいじゃないのよ、この馬鹿」

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