古都の夜会のエメラルド

倉海葉音

古都の夜会のエメラルド


【今夜、20時30分に銀閣寺前集合。有志で大文字山登るで。よろ】


 よろじゃねえよ、と私の脳の血管がぷちっと一本飛んだのを合図に、スマホの時刻表示は二十時ちょうどを示した。さっき東京の実家から自分の部屋に戻ってきて、帰宅途中に買ったコンビニ弁当を食べようとしていたところなのに。缶ビールは開ける前でセーフ。でも二十二歳女子大生には色々準備があるんですが、あの男は分かっているんでしょうか?


 というか就活スタイルなんですけど。大文字山ってことは絶対歩きやすい服装じゃないと! あー汗かいたしシャワーも浴びたかったのに!


 ぶつくさ言いつつ身支度を整えたりしているうちに、ふと鞄の奥底に転がっている小箱に気付く。中には緑色の宝石を持つ指輪が入っている。さすがに山登りには、と呟く私の口元とは別に、指はその色を欲していた。


 シルバーリングを右手の人差し指に装着し、蛍光灯にかざしてみると、緑色の乱反射が目の中できらめく。


 ――お守り。願掛けにでも持っていきなさい。


 私は寂しく微笑む。


 ――ごめん……お母さん。


 なんとかお弁当を半分くらい食して、連絡から二十分後には自転車の鍵を手にマンションのドアを開けることができた。八月中旬に差し掛かる頃の京都は、この時間でもまだ蒸し暑くて、せっかく冷房に慣れつつあった体はダルさ指数百点満点を叩き出しているけれど、なんとか階段を降りていく。


 数日間駐輪場に置いていたママチャリで、京都盆地の東端へ。白河通りを過ぎると人気《ひとけ》はなくなり、虫たちが奏でる音色と、自転車のライトを灯す発電機の音が混ざり合う。すっかりシャッターを下ろした銀閣寺の参道を登ると、かつて所属していた吹奏楽サークルの仲間たちが集まっていた。私たちの学年だけでなく、一つ、二つ下の後輩の姿も見える。


「遅い、相沢《あいざわ》で最後や」


「ガッキー、それはないやろ?」


 しかし、にっくきクラリネットの同期、ガッキーこと湯島岳《ゆしまがく》は眼鏡の下で高笑いしている。甘い顔ですらっとしているのに無精髭な彼は登山服がよく似合うが、今はその周到さが余計に私のイライラを高めた。あったぶんまた脳の血管切れたぞ医療費払え!


 自転車の集団は狭い路地をぞろぞろ抜けて、山の麓の広場へ。一台の自動販売機が寂しく輝く中、自転車のスタンドを下ろす音が十六分音符の連なりのように響く。ガッキーと別の男子が大きな懐中電灯を灯して、坂を登り始める。


「昨日降ったから、足元危なそうやわ。みんな気ぃつけてな」


 昨日、関西の方では夏の大雨が降り注いでいた、らしい。私はそのとき東京にいたから、ニュースで見た情報でしか知らない。


「ところで大文字山と言えばやな、太閤岩って知ってるか」


 またガッキーの石トーク始まったよ、と私は同期のフルート女子と共に「暗いね」「怖いね」などとワイワイ言い合うことに専念する。


 ガッキーは理学部四回生で地学専攻。私は文学部四回生で心理学専攻。一学年に十人もいたクラリネットパートにおいて、同期の一人にすぎない彼だけれど、彼と私は入団当初から楽器の実力を目されていた。


 いや、その中でも、彼の能力は一人抜けていた。最初の練習のとき、彼が戯れに吹いていたクラリネットソナタの精度に、私たちはいきなり舌を巻いたものだ。私は負けるもんかと隙間時間を練習に充てて、いつしか、私と彼はよく二人で一緒に練習し、意見を飛ばし合う仲になっていた。


 私が団の幹部の仕事やバイトで忙しくなる中、彼はメインプロ(交響曲などの大曲)のコンサートマスターを任されるようになっていた。それでも「地学ガチ勢」でもある彼は突然山に消えたりして、私たちは怪我されたら困るとよくハラハラしていた。もう卒団から半年以上。今からすれば、もはや少し懐かしい。


 懐中電灯の微かな明るさを頼りに、私たちは砂利道を進む。大文字山は登山道が整備されていて、比較的歩きやすかった、はず。二年前に一度、これもガッキーたちに連れられて登ったっきりだ。それもお昼だったから記憶とは全然重ならない。怖い話とかしようや、と言った男子に私たちはブーイングを送る。


 右側に、木々を通して街明かりが見えてくる。もう意外と登ってきたらしい。


「あっ、景色ええですね」


 初めて登るという二回生の女子が嬉しそうに言った。午後の九時。山に囲まれた百万都市の光が低い土地に密集している。建築物の高さ制限もあるから、街の色は美しく均質に混ざり合う。


「京都って、やっぱり盆地なんだね」


 昨日、気晴らしに一人で見た、新宿都庁からの景色を思い出す。あの街の夜景は、いつだってギラギラしている。東京生まれ東京育ちだった私は、ビルに遮られずに見通せる京都の眺めを、何度でも新鮮な気持ちで見つめる。


「京都盆地の成り立ち、知ってるか」


「知らんし興味もない」


 いつの間にか、最後尾を歩く私の隣にガッキーがいた。先頭は、三回生トランペットのやんちゃな男子に明け渡している。


「盆地がどうとか言うたお前が悪い。じゃあ、大学の構内にちょうど断層がある話は?」


「えっと、うん?」


 つい、半端な返事になってしまった。


「ちょうど北部構内の辺りで確認できるんや。いつも過ごす場所に地質の歴史が刻まれている。凄いと思わへん? いつでも見に行けるで」


「そんな観光名所みたいに言われても」


 そもそも北部構内には理学部と農学部しかないから、文学部生がわざわざ行くこともない。歴史の動いた証を辿るのだって、私は寺社巡りで充分楽しんでいる。


「そういや、最近、楽器吹いてるか?」


「ぜんぜん。そっちは?」


「俺はたまに。もったいないなあ、あんなに上手くなったのに」


「上から目線どうも」


「普通に受け取れ。素直やないなあ」


 べえ、と舌を出す。さっきのイライラのお返し。そしてお互いに密やかな笑い声をこぼす。


 ガッキーの懐中電灯が進路を照らす。私はまたちらりと市街の方を見る。


 四年間を過ごしたこの街に、碁盤の目に沿って均等にまぶされた光は、ケーキを彩るアラザン、あるいは子供の頃気ままに並べたビーズたち。そんな愛おしさすら感じてしまう。


 ふと見た指輪は、完全に色を闇の中へ溶け込ませている。遠くの光なんかに反応はしないし、どこかのファンタジーのように光線を放って道を示したりもしない。


 私の行き先を、示してくれたりなんてしない。


「あ、この辺ぬかるんでるな、危ないで」


 えっ?


 私の瞳の捉えていた街明かりが、ぐらりと揺れ動く。




「……あー、もう、サイアク」


「こけへんかっただけマシやマシ」


 ガッキーは気さくな感じでフォローしてくれて、私は「だけどさあ」とむくれる。さっき、ガッキーに腕を取ってもらって、私はすんでのところで転倒こそ回避した。だけど右足を少しくじいてしまったから、彼と二人、列の最後方をスローペースで歩いている。


「靴もドロドロなんかな、あー嫌だ」


「あー、洗えばええんちゃう」


「女子の持ち物は繊細なんです」


 春に買ったばかりのスニーカーは、履く機会も少なくて、まだまだ素敵なスカイブルーを保っていた。他にこういう場を想定した靴が無かったのも悪いが、そもそも想定する方が難しいと思う。


 履く機会、少なかったんだなあ、と溜め息をつく。この数ヶ月、私の足元は、ずっと黒い革で覆われていたような気がする。


「まあでも、誘った身としては申し訳ない」


 溜め息をどう勘違いしたのか、彼には珍しく神妙な言い方だ。


「いや、別にいいけど」


「もうちょいで山頂やから、すまんけど、頑張ろな」


 とりあえず頷いたものの、右足を動かす度に、ずきっとしびれが走って不快だ。


 彼はいつもマイペースのまま私の先を行く。上手い先輩たちに誘われてのアンサンブル。二回生の新歓演奏会で抜擢されたジャズのソロ。最後の演奏会では、大曲の技巧的なソロでホールにいる千五百人の意識を一身に集めた。それでいて彼は、勉強にも遊びにも手を抜かない。


 勝てないなあ、と何度も思った。


 そしてこの大学には、彼みたいに才能に満ち溢れた人間がたくさんいた。


 同時に入学した人間は三千人。だけど合格したときから、既に横並びではなかったのだ。名門大学だなんて親戚や友人からもてはやされたけど、みんなも私も分かっていなかった。名門が名門であるのは、一部の並外れた先人たちが努力し続けていたからであり、その下には数えきれないほどたくさんの凡人がいたのだ。


 ガッキーの懐中電灯が、見覚えのある風景を照らした。闇へと続く長い石段。山頂への道だ。


「階段、いけるか」


「たぶん」


「肩、貸そか?」


 ガッキーの頑丈そうな右肩をちらりと見る。頼れたらいいけど、さすがに恥ずかしい。私は首を横に振った。彼は精悍な笑みを浮かべて「無理そうやったら言ってな」と一歩踏み出した。


 ガッキーは、私の半歩先を悠々と歩く。段差の幅も高さもバラバラな石段に、私は息を切らして足を動かす。右足は毎回、ご丁寧にもずきっと反応してくれる。


 京都の、大阪の、東京のコンクリートを歩き疲れた足は、もうしんどいよ、と叫び続けている。


「ほい」


 ガッキーに左腕を捕まれて、右肩に手のひらを乗せられた。私は目をぱちぱちとして彼の顔を見ていた。「さすがに見かねたから」と彼は苦笑している。


 情けない。恥ずかしい。だけど一人だとそのうち動けなくなりそうだから、私は彼の助けを受け取ることにする。


 夏の虫の音。湿った木々の匂い。堅牢な石段と痛む足。ガッキーの汗ばんだ青い登山服。一つずつの感覚が体に伝わる。木立の間から徐々に近づいてくる夏の夜空。全部、ここのところ、忘れかけていたことばかり。


 スマートフォンと履歴書と、モノクロの服装ばかり見ている日々には、一つだって存在しなかったものばかり。


「到着」


 最後の階段を登り、少し進むと、みんなが既に感嘆の声を漏らしていた。


 大文字山の山頂から少し下、「大」の横棒地点は、見晴らし台になっている。そこから見える景色は、街の景色と星に満ちた夜空が半分ずつ分け合っている。明るい星と暗い星、天球にモザイク模様みたいに散らばっていて、私はすっと心が洗われる。


「今日、来た理由は分かるか?」


「理由?」


「今日が極大」


「……あっ」


 八月の中旬に差し掛かる時期。ペルセウス座流星群。確かに今がピークになる頃だ。


「忘れてた」


「せやろ。という訳で、みんな、今日は流星群観望会や!」


 いえーい、と声が上がった。みんなは知っていたのだろうか、まあいいや。


 一昨年、ガッキーに教えてもらった流星群は、自分の部屋のベランダから眺めた。去年は、部室前にてみんなでお酒と共に。二つ三つ見て満足、というふうにしていたけれど、この場所ならもっとたくさん楽しめるチャンスがありそうだ。


 腰を降ろした途端、誰かが「あっ!」と叫んだ。早速一つ流れたみたいだ。私もじっと闇に目を凝らす。しばらくして、後輩女子と同時に「あれ!」と叫んで指を差した。願い事をする間もなくすぐに消えてしまったけれど、私たちは愉快な笑い声を響かせる。


 いくつもの流れ星。私たちは歓声で呼応する。夜空と人とのコール・アンド・レスポンス。吹奏楽に育てられた感性で、山の夜に余すところなく声を満たして楽しんでいる。


 私は右手を空へとかざす。人差し指の宝石も、少しは輝いてくれるだろうか、と。だけど、暗い緑色に落ち着いたままだ。


「ほい、お茶」


 ガッキーが右後ろから声をかけてきた。


「どうや、観望会」


「めっちゃ最高。ありがとう。お茶も景色も」


 渡された水筒から、冷たい麦茶をごくごく飲んでいく。液体は脳髄まできんと冷やして、体中が癒される。


「こんなイベント開くの、久しぶりじゃない?」


「あーそうかな。忙しかったし」


「唐突だし」


「悪かったって。まあ星も、地学の一分野やからな」


「確かに。えっ、実は元からそういう目的?」


「こうして人類をじわじわ地学に導くのが俺の狙いや」


「大げさ。まあせいぜい頑張れ」


 私たちがくだらない話をしていると、ふと、みんなが立ち上がり始める。もう少し上に行ってみようとのことだ。私も誘われたけれど、足のことを気にして断った。じゃあ俺も残る、とガッキーが隣に座る。


「頂上付近って、木に隠れてさ、空は見えにくくなかった?」


「たぶんな。でもアホは高い所を目指すんや」


 ははは、と高笑いするあなたも充分「アホ」な気がするけれど、別にいいや、と私も笑う。大きな文字の横棒に、ふたりっきりでぶら下がっている。下に向けて二股に分かれる曲線上に、四角の台座が並んでいる。


「てか、もうすぐここも焼かれる頃か」


「物騒な言い方すんな。せやな、もうちょいで送り火や」


 五山の送り火。京都の山々の火床が赤く燃え上がる夏の風物詩。この山には「大」の字が浮かび上がって、盆の時期に帰ってくるご先祖様をお迎えし、またあの世へ送り出す。


 季節感なんて、無くしていた。梅雨だから傘を持つ。夏になったから半袖にする。ここしばらく、そんなシステマティックな日々を過ごしていた。下鴨のみたらし祭。祇園祭の宵山。この街の時間は、去年までと同じように、季節の流れをたくさん湛えながら流れていたというのに。


 彼の懐中電灯が一瞬だけ灯る。寝静まっていたオリーブグリーンが、照らされてきらりと光った。唐突な眩さに私は目を細める。


「何、いきなり」


「右手のそれ、カンラン石か」


「……石マニアめ。もっと風情のある名前があるよね」


 とはいえ、あの一瞬で分かるなんて驚きだ。さっき、別の友達にはエメラルドと勘違いされていた。


「風情ねえ。ペリドット、って言えばええんか」


「そうそう」


 さっき、転ばなくて良かった、と思った。靴が汚れるのも残念だけれど、せっかくの宝石の輝きを汚す方が心は痛む。


「お守り、って、今回の帰省でお母さんから渡されて」


「ああ、誕生石やからか」


「……そこまで知ってるんだ」


 カンラン石、もといペリドットは、八月の誕生石だ。「地学専攻として当然」と彼は鼻を高くする。


「誕生日、この前やっけ。おめでとう」


「五日だね。ありがとう」


 八月のその日、私は東京の実家に戻っていた。だから京都の友人に直接祝ってもらうタイミングもなかった。いや、こっちにいても、誰かと会う元気はなかったかもしれない。


「……就活、どうや」


 ガッキーにしては、慎重な口ぶりだ。私は首を振る。


「全然、ダメ」


「そうか」


 沈黙が満ちる。こういうときにも、夜空は無関係に星を一つ流す。儚い轍《わだち》は、まばたきをするだけで目の中から消えてしまう。


「今日、最後の持ち駒だった」


「……ああ」


「新幹線に乗っている間に連絡が来て。ダメでした。これで全滅」


 就職活動で、私は苦戦し続けていた。


 大学のネームバリューがあるんだから大丈夫だろう、という甘い期待は、選考に落とされ続ける中で徐々に潰えていった。そもそも私の頭はみんなほど優秀でもなかったし、面接は緊張するから本当に苦手だ。何より、やりたいことがあまり見当たらなかった。大手出版社とか、マスコミとか、興味ゼロでは無かったけれど、そういう企業は難関だったりして簡単に落とされる。


 友人たちの中で、まだ内定が一つもないのは、きっと私だけだ。


「ガッキーとかは偉いよ。自分のやりたいことしっかりしてて、頭もいいし」


 ガッキーは、大学院を受験予定だ。きっとそのまま研究者にでもなって、あちこちの山や国を駆け回るのだろう。その姿は容易に想像できて、私は息をつく。


「別に偉いわけやない。ただ、好きなことを気の向くままにやってるだけや」


「その思いきりと行動力が凄いの」


 こんなに思い切って喋れるのは、夜が暗いせいなんだろうか。


 ガッキーは凄い。今日の企画だってそうだし、これまでも、学園祭のステージ演奏、琵琶湖サイクリング、夜の校舎に潜入して送り火見物会、彼は色々なことを主催して、私たちを楽しませてくれた。きっと、と私は思う。そういう才能が、学問や、世界の役に立っていくんだろう。


「なんというか、私、人生舐めてたのかな」


「そうか?」


「うん。……自分で言うことじゃないかもだけど、私って頑張ってたと思う。高校までは受験に部活。大学に入ったらバイトも勉強も吹奏楽も」


 名門高校に合格する。部活と勉強を頑張る。名門大学に合格する。憧れの先生の下で心理学を勉強する。サークルで自分の限界まで努力する。塾のバイトで生活費を稼ぐ。


 全部全部真っ直ぐ最後まで頑張りきるのが普通で、私の青春だった。そうやって当たり前のように過ごしてきた青春のレールの最後に、「就職」という終着駅があるのだと思っていた。


「頑張ってたらさ、そのまま一直線に進んで、何かのレールに乗せてもらえるって、舐めた感じで思ってたのかもしれない」


 実際は、いくつにもレールが分岐して、しかもほとんどの場合、先は霧がかっていて何も見通せない。いくら頑張ったって、駅は無いかもしれないし、崖になっているのかもしれない。


 だけどガッキーはきっと違う。青春が過ぎても、彼は次の路線へと直通運転を続ける。彼は、ずっと、自分の行く手を信じてレールを敷いてきたから。石を並べて、それはきれいな道ではないかもしれないけれど、夜の世界でも星を信じて、自分だけの進路を着々と造ってきたから。


「このまま就活してもさ、いい企業とかないじゃん、たぶん」


「まあ、募集終わってるかもなあ」


「だから」


 一瞬、躊躇ってしまった。きょとんとするガッキーに、私は慌てて冗談めいた笑みを浮かべる。


「だからさ、例えばね。留学とかアリかなあって」


「ふうん?」


「別に何かの勉強のためっていうワケでもなくて、単に数ヶ月海外住んでみるのも楽しそうかなー、イギリスとかなんか憧れかなーなんて。それでさ、戻ってきたら京都で大学院に行ったりとかさ。心理学楽しいし、奥深そうやし、あと観光も行けてない場所あるし! ……あはは、まあ負け犬の妄想だね」


 空を見上げて、空虚な笑いを吐き出してみる。だけど、ガッキーは何も言葉を足してこない。何もかもが消えた夜の大文字の上に、しばらくの間、ただ、星だけが薄い線を流している。


「暗闇を吹き飛ばし、光となり、悪を退散させる」


 意味深なつぶやきが、二人の間に一瞬だけ光る。


「何それ」


「ペリドットのこと。古代エジプトでは、太陽を象徴する石として崇められていた。今でもポジティブになれるパワーストーン、なんて言われてる」


「……そんなことまで地学専攻は習うの?」


「そんな訳ないやろ」


 ガッキーの笑い声は、私のものよりずっと低くて、大きくて、夜の山に合っている。


「それがお前の答えなんやろ」


 彼は指輪をじっと見ている。私の行き先を、そこに見出しているかのように。


「本当は、留学もしてみたかったし、大学院も行きたかったんやろ」


 私は、目をそらしてしまう。


 母子家庭で、京都での一人暮らしを許してもらって、奨学金も貰っていて。それに私は文系で特別賢くもない。「学部の四年間を終えたら、東京の親元に戻って就職する」。それが普通の答えだと思っていた。


「三年間、ずっと吹奏楽団のことを考えてくれてさ、勉強もバイトも頑張ってたよな。責任抱えまくって、やりたいこと、やりきれんかったんやろ」


 本当はもっと、憧れのために時間を使ってみたかったという、無意識下の思いをぐっと飲み込んでいた。だから、きっと面接でも切実さを出しきれなかった。憧れてもいない未来に向けて、空っぽな頑張りを見せていただけだったから。


「母親とかに反対されたんか?」


「……ううん。反対されないと思う、けど」


「じゃあええやん。相沢は生真面目すぎんねん。昔から」


「昔って。たった三年半の付き合いだけど」


「言葉の綾や。でもな、一番ちゃらんぽらんやった俺やから分かる」


 いばるな、と私は苦笑する。それでも、自分の反対側にいる人間の言葉は、時に素直に胸を打つ。


「そのときにやりたいことは、そのときにしかでけへんねん」


 彼は、ちょうど流れていく一筋の星を指差す。ペルセウス座流星群は、この時期にしか見ることができない。大文字山で友人たちと見るなんてイベントは、今年が最後かもしれない。


 今日の光は、今日しか見ることができない。


「どうせ、軍資金も確保してるんやろ」


「……多少は。でもさ」


「それやったら。迷っててもどうしようもないやんけ、光へ飛び込め」


「光へ?」


「自分のための光へ」


 ガッキーが右手を夜空に掲げる。私もつられて同じポーズを取る。


 宝石に入り込むように、星屑が流れた。


 一瞬だけ、ほんの一瞬だけ、緑色の輝きが私の目を射抜いた、気がする。


「……そんな簡単に言うな」


 たくさんたくさん自問自答した。面接に落ち続けて、劣等感に潰されながら、逃げなのか本心なのかと迷い続けていた。


 それに、待ち受けるのは、きっと誰も答えを知らない茨の道だ。


「……でも」


 右手を、胸の前で大事に抱く。


 宇宙からの光を、受け取った光を、手放さないように。


「私、やってみたい」


 だって、今の私は、その先にだけ光を見ているのだから。


「私、チャレンジ、してみる」


「よう言うた」


 ガッキーは満足そうに笑っている。


 いつものように、彼は、私に光り輝く表情を見せてくれている。


「……どうした?」


 それは、きっと、夜の星のせいだ。


 ガッキーの左肩に、ことっ、と自分の頭を預けていた。


「……別に。誰かに甘えたくなることもあるじゃん」


「ああ、まあ、分かるけど」


「焦ってる?」


「誰がや」


「ふふっ」


 右の手のひらを彼の背中に置く。汗が引いた後の冷たさ。その温度との対比で、私は自分の顔がすっかり上気しているのに気付く。


「で、何が狙いや」


「さあ、自分で考えたら?」


 彼の左手が、私の背中を優しく撫でる。


「うん、正解」


「良かった」


「ガッキーといると、私、素直になれる」


 苛立ちと尊敬。嫉妬と憧憬。


「私は、ガッキーと、一緒にいる時間が一番好き、です」


 親愛と、恋慕。


 それは、空から突然降ってきた発想かもしれないし、ずっと抱えていた想いなのかもしれなかった。「彼のことが好きで、彼と過ごしているときの自分が好き。ずっと、こうやって素直に言い合っていたい」……それは、あまりにも自然すぎる感情だった。


 だけど、きっと私は無意識のうちに隠していたのだ。他の憧れと一緒に、彼への気持ちも、青春のひとカケラとしてこの街に置いていこうと、思っていたのだ。


「……あー」


「何?」


「飛び込まれたな、って」


 背中をポンポンと叩かれて、彼に体をそっと引き剥がされる。彼の顔は、何やら奇妙に歪んでいた。


「いや、さすがに自重してたから」


「と、言います、と」


「なんで敬語やねん。……俺も同じ気持ち。でもさすがに今は絶対迷惑やと思ってたから」


「チキンかよ」


「お前のためやぞ!」


 はいはい、とケラケラ笑う私の声は、いつの間にか山によく馴染んでいる、そんな気がする。


 分かっている。彼の優しさも、気遣いも、ちゃんと分かっている。


「……腹くくるか」


 両肩を掴まれて、彼と正面から向き合う。


「付き合ってください」


「喜んで」


 右手が、彼の左手の中に包まれる。


 二人の手の中で、指輪が捕まえた流星はきっちり守られている。


「ちゃんと、これからも後押ししたるからな」


「……嬉しい。私も、ガッキーのこと、ちゃんと応援するから」


「ありがとう」


「うん」


 言葉の空白を埋めるように、軽く、ついばむようなキスを交わす。


 また星が一つ、深まってきた古都の夜の上を過ぎていく。二つの合わさった手を恋人つなぎに変えて、街の方へと掲げる。ペリドットは二人の視線の先で確かに艶めいている。今なら魔法でも繰り出せそうだ。


「夜会のエメラルド」


 私のセリフに、ああ、と彼の息の輪郭が弾む。


「ペリドットの、別の異名か。古代ローマ人の」


「そうそう。『夜会』って日本語、なんか綺麗だからさ。覚えてた」


「『やかい』。うん、いい響きやな」


 三文字分の綺麗な日本語を、音楽でも奏でるかのように私たちは口々に言う。それが柔らかく浮遊するのは、この流星の夜のせいだ。


 これから、外界に降りたら現実に戻る。方向転換のために色々やり直して、新しいレールを作っていかないといけない。だけど、きっと大丈夫。ここから始まる青春の延長戦は、新しい光を伴って、良い方向へと続いてくれるはずだから。


 だけど、その前に、今は。


 この密やかな夜の時間を、二人の穏やかな会合を、じっくりと愉しんでいたいな、と私は思う。


「あっ、流れた!」


 二人の仲睦まじい手、二人のぴったりハモる声。眺める一つの景色、中心にある一つの輝き。


 二人きり、星降る古都を見下ろして。指輪を掲げ、夜会は続く。

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古都の夜会のエメラルド 倉海葉音 @hano888_yaw444

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