十六歳の誕生日〜スウィート・シックスティーン〜

Suzi Rosen

十六歳の誕生日(スゥイート・シックスティーン)


二階の祖母ナナの寝室から、いつものチェロのメロディが聞こえて来る。デビーは祖母のことを 愛情を込めてナナと呼ぶ。祖母ナナは機嫌が良い時にも、痛みがひどい時にもこの曲をかける。あまり何度も聞くので劣化しかけたカセットテープを、デビーがCDに焼き直してあげた。十六歳の誕生日スウィート・シックスティーンに、ナナが市民オーケストラの首席チェリストを務め、シューマン・チェロ協奏曲の二楽章のデュエットをソリストと弾いた。祖母ナナから思い出話を聞く時間が、デビーには大切なのだ。それほどたくさんの時間が残されていない今となっては、特に。お茶の支度を整えてデビーが二階へ上がると、階段の中ほどで音楽が止まる。デビーが祖母ナナの部屋に入ると、興奮したワイドショーのキャスターが、誰かがミートゥーされたニュースを報じている。今度は政治家か、ビジネスマンか、学者か、宗教家か。デビーはお茶を淹れながら聞いた。

「ナナ、お茶をいかが? 今度は誰がミートゥーされたの?」

「ジャック・ドーソン。」

「指揮者の?」

「チェリストの、って言って欲しいわ。」

「チェリストだったの? ナナの知ってる人?」

「ええ。共演したことがあるわ。一度だけ。」

と、祖母ナナは布団の上に置いてあるCDプレイヤーを、皺の指でそっと撫でた。

「えっ? もしかしてそのソリストがジャック・ドーソンなの? ジャックは今何歳なの?」

「九十歳。伝説の演奏会を何度も行い、華やかな人生を送ってきたけど、肩を壊してチェロが弾けなくなって、コットンパーク音楽院の学部長選挙に失敗した後で、指揮者になったのよ。」

「じゃ、亡くなったグランパの代わりに音楽院の学部長ディーンになってたかもしれない人なのね? 不思議な縁だね。あたしこのデュエット大好き。まるで二人がダンスしてるみたい。」

祖母ナナは、唇に皺だらけの指をあて、しいっと言って、テレビの音量を上げた。老指揮者ジャック・ドーソンの顔写真の映っている画面を背景に、ジャックの肉声のコメントが流れる。

「六十年前のことですから記憶に定かではありません、と言いたいが、実はよく覚えているんだ。サラは昔も今も忘れがたい素晴らしいチェリストだから。一時期私の生徒でもあった。サラが十四歳、僕が三十歳の時、我々はある性的な関係を持った。サラは僕が朝のレッスンを始める前にスタジオへ来て、僕が彼女に触れる事無く、彼女が僕に触れる事を望んだ。サラ自身のレッスンの後にも、夕方のレッスンが終わった後も僕を待っていた。僕がそれを強要した事も、サラの成績を優遇した事も無い。十四歳の少女の性衝動を僕が煽った、分別ある大人として理性的に行動すべきだった、とサラは言っているらしいが、決して卑劣な真似はしていない。美しき若きアーティストの情熱と真摯な欲望に背を向ける事ができなかった罪を今問われるなら、潔く問われるよ。ただ、九十の老人の願望だがね、僕の友人で敬愛していた指揮者が、ライフワークであったモーツァルトの交響曲を全曲振り終え、自宅に戻って幸福に眠り、翌朝目覚めなかったように、僕も最後まで指揮ができればありがたい。」

九十歳のジャックの声はいまだに若々しく、微かに倍音を含んだ低い声である。

「……ね? ナナはどうなの? ジャックと何かあった?」

「……あったわ。あの夜、シューマンのデュエットの夜処女を失ったのよ。」

「えっ!? 十六歳の誕生日にヴァージンを捧げたの?」

「捧げたわけじゃないけど、そうなったの、コンサートの後で。父は、未成年者を酔わせてレイプした罪でジャックを訴える、とひどく怒ったわ。」

「もしレイプだったのなら、声を上げるべきだよ、サラみたいに。今からでも遅くないよ。ナナ、勇気を出してミートゥーしたら?」

「そんなに単純な話じゃないの。あの夜に何が起こったか知りたい?」

「ええ。話して、ナナ。」

祖母ナナは、飲み干したお茶のカップを受け皿に置いた。デビーはお代わりのお茶をカップにたっぷり注いでから、隣に座った。


最後のリハーサルが終わった。今夜は本番。オーケストラのメンバーが去り、残っているのはたくさんの椅子と楽器と、立ち話をしている数人。チェロセクションの先頭に座ったタリーは、俯いてチェロの胴に涙を落した。常任の首席チェリストであるスーザンが、ハンカチを差し出す。 母が亡くなって以来、スーザンはタリーの面倒を見てくれる。タリーの父ポールも信頼して、母親役を任せている。いつかスーザンと父は結婚するかもしれない。

「タリー? とってもうまく弾けたのに、なぜ悲しいの? 完璧に弾けなくても、あなたが楽しみさえすれば、コンサートは大成功なのよ、あなたはバースデーガールなんだから。」

「わかってるけど、あんなに素晴らしいチェロの音色を聞いてしまうと、台詞を棒読みしてるみたいな自分の音が許せない。シューマンが台無しだわ。スーザンお願い、あなたが弾いて!」

タリーの父が二人の側に来て、娘の肩を優しく叩いた。

「タリー、上手だったよ。シューマンはラブリーでブラームスは情熱的、今夜が楽しみだ。」

父の目を見て微笑もうとしたタリーの笑顔が凍りつき、両手で顔を押さえて、わっと泣き出した。スーザンがタリーの肩を抱き寄せる。ポールは首を振って立ち上がり、今夜の為にフェニックスのプロのオーケストラから雇った金髪のフルート奏者と、立ったまま話し込んでいるジャック・ドーソンに呼びかけた。

「おおい、ジャック! ちょっとここに来て、タリーにアドバイスをくれないか。」

ジャックがチェロを軽々と持ってタリーの隣に来て座ると、父親のポールは満足して、スーザンと連れだってランチに出かけた。

ジャックと一緒に弾くと、ジャックにつられてタリーの弓使いも深くなる。弓を持つ右手を右前方に伸ばし切り、それでも足りなくて、椅子から腰を浮かせ弓の先まで使い切る。

「そうだ、タリー。この音を出すためにはそこまで弓を使わなきゃいけない。弓は君の意思、ビブラートは君の心。想像してごらん。あの二階席の一番奥に君の恋人が座っていると。君の想いをあそこまで届けるんだ。」

デュエットを弾き終わると、タリーはジャックにお礼を言った。さっきからずっとステージの袖に金髪のフルート奏者が立ち、苛々とジャックを待っているのが見える。「後は自分で練習するから、ランチに行って。」と頼んでもジャックは聞かず、ブラームスの三楽章のチェロの旋律を弾き出す。シューマンのロマンチックな音色から一変して、緊張に満ちた強く切ない音色がジャックの弓から迸り、タリーの心を震わせる。

「この音が出るまで弓を深く使う、ビブラートをかけ続ける、それだけに集中するんだ。君は素晴らしいチェリストだよ。本番を恐れて泣く小さな女の子はもういない。君は今日から十六歳。君がヒロインになるんだ、いいね?」

レッスンの後で、ジャックはフルート奏者とランチへ行った。誰かが話していた。あの二人はジャックの部屋で二人きりで食事するのだと。今夜も二人で消えるに違いないと。

タリーが父の屋敷に戻ると、オーケストラの団員の家族が集まり、パーティーの準備が進んでいる。スーザンがタリーを手招きする。

「こっちに来て、あなたもサンドイッチを食べたら?」

「だめ、食欲がない。本番まで何も食べられそうにないわ。」

「そんなこと言わないの。ジャックのレッスンはどうだった?」

「とても親切だった。だけど、ちっともうまく弾ける気がしない。」

また涙ぐむタリーの側で、スーザンは溜息をついた。それにしても不思議。タリーの母親は大胆で魅力的な女性だった。父のポールも社交的で明るい性格なのに、タリーは誰に似たのだろう? でも、あの子はいざとなると信じられないような一面を発揮することがあるから。今夜もきっとうまくいくに違いない。

タリーは一人、バルコニーへ出ると、まだ明るい空に向かって祈った。

「今夜満月が出る頃、私が幸福でいられますように。十六歳の誕生日を台無しにしないように、お願い、私を助けて。」

 タリーが石の手摺に肘をつき、指を組み合わせ、目に見えない満月を見つめながら祈ると、タルーラが降りて来た。


「タルーラって誰なの?」と、デビーが祖母ナナの話を遮って聞いた。

「私の本名よ。ほら、あなたもデビーって呼ばれるけど、 本名はデボラでしょ? 小さい頃、父に叱られて小部屋に閉じ込められた。裸電球を見ながら、助けて、と祈ると、タルーラが来た。タルーラは何でもうまくやれて、誰にでも愛される。タルーラに身を任せると、何でも思いのまま。ハイスクールの入学試験も、音楽院のオーディションも、卒業リサイタルも、タルーラが助けてくれた。大学生の時に初デートしたのも、エマを産んだのもタルーラなのよ。」


今まで着たことも無いセクシーな黒のドレス。腰の上まで背中が開いている。いつもは固く束ねる多めの黒髪を白い背中に広げて垂らし、チェロを軽々と左手に持ち、背筋を伸ばし、顔を上げ、タルーラはステージへ出て行く。指揮者とジャックが登場、拍手の渦が巻き起こる。ジャックはミッドナイトブルーの燕尾服に白い蝶ネクタイ。晴れ晴れと輝く笑顔が場内を魅了する。ジャックが弓を構えて頷くと、指揮者が手を振り上げ、オーケストラが蒸気船のように厳かに岸壁を離れて動き出す。ジャックの弓から月光のような音色が迸る。二楽章のデュエットの前にジャックが素早く振り返り、さあ、行くよ、という風に微笑んだ。わざと黒いドレスの胸を膨らませて深呼吸し、タルーラがいたずらぽく見つめ返すと、ジャックの視線がタルーラに釘付けになった。二人の視線が離れられなかった一瞬、二人は恋に落ちた。オーケストラが雨音のようなピチカートを始めると、レッスンの時のジャックの声が耳に蘇る。

「ロミオとジュリエットのバルコニーシーンを想像するんだ。君の窓の下で僕が切々と愛を訴え、君も応えて歌う、そんなデュエットを。控えめだけど荒々しく、夢見るように微笑んで、君は僕を受け入れる。ジュリエットになりきって、ウェットな感情を溢れさせるんだ。涙を流すときは怖れではなく、愛の為に流せ。できるね、タリー?」

あの時タリーにできなかったことが、今タルーラにはできる。ジュリエットになりきって、ロミオの愛を受け入れる。無垢な少女のままでいたい。家も家族も捨てロミオに愛される女になりたい。二つの気持ちが相反し、揺れ動き、月光を浴びて踊る。ジャックに抱かれるチェロとなり、ジャックという十字架に貼り付けになり、ジャックという舟に繋がれ、深々と弓を使い、荒々しく夢見るようにビブラートを掻き鳴らす。本当の音楽を知った。本物のシューマンを感じた。この瞬間を死ぬまで忘れない。愛の涙がチェロの胴に滴り落ちた。

 会場を揺るがす拍手の嵐のあと、何度もアンコールが続き、ジャックが無伴奏を弾き、休 憩に入った。タリーが我に返ると、舞台袖の奥の誰も来ない暗闇でジャックと抱き合っている。横たわるジャックのチェロの側に立ち、ジャックの汗とタリーの涙にまみれ、二人はキスを交わしている。 これは現実なの? タリーには何が起こっているのか信じられない。宙に浮く熱気球になったみたいに、ジャックの腕にしがみついている。

「ほらこんなに、まだ胸のときめきを抑えられない。」

ジャックは荒い息をつき、燕尾服の下の濡れて貼りつくシャツの胸に、タリーの右手を押し当てる。ジャックの心臓の鼓動が濡れて響く。タルーラの左手が、ジャックの燕尾服の背を這い、全く力を込めずにジャックを引き寄せる。ジャックは無理やり唇を引き離し、短いキスをタタリーの顔中に浴びせ囁き続ける。

「君は本当に素晴らしかった。君は僕のジュリエットだった。こんなに初々しいデュエットは初めてだよ。いつもは、僕よりうんと年取って禿げた熟練の首席チェリスト達と一緒に弾くんだからね、わかるだろ? 彼らは完璧に弾くけど、君みたいに愛に溢れてはいない。僕がどんなに幸福だったか、わかる? どんなに僕たち美しく弾けたか? 」

やがてジャックは、「ブラームスは客席で聞いてるからね、タリー?」と、囁いて身体を離そうとした。その瞬間、タルーラの眼が猫の眼のように金色に縮み、ジャックに命じた。

「私をタルーラと呼んで。」

ストップモーションのように柔らかく開きながらジャックの唇に近づいてゆくタルーラの唇を、映画のシーンを見るように、タリーは眺めていた。画面がフェイドアウトして、次に明るくなると、タリーは楽器ケースが壁際に並ぶ、煌々と灯った大部屋の楽屋に居て、団員たち全員から、スーザンから、父のポールから、指揮者の先生から、賛辞を受けている。

「タリー、どこに行ってたの? みんなあなたを待ってたのよ。」

「タリー!あなた最高だったわ!」

「タリー、私にはわかってた! あなたならできると信じてた!」

「タリー、お父さんはお前を誇りに思う。ブラームスもあの調子で弾けば成功疑い無しだ。」 「スーザンの引退後は君が首席チェリストだよ、間違いなく。」

休憩後、ブラームスの交響曲三番を弾くために団員はステージへと戻って行く。潮が引くようにタリーは自信を失くす。タルーラがいない。席について調弦をする間に、観客席上のライトを見つめて祈るがタルーラは戻ってこない。ふと最前列に座るカップルに目が止まる。ジャックとタルーラがそこに座っている! ジャックは白いスーツに着替え、膝の上にタルーラの手を握っている。一体何がどうなっているのか。思考の混乱するまま、タリーは無我夢中でブラームスを弾く。三楽章のチェロの旋律の前に、タリーは絶望的に客席を眺めた。最前列に座っているのは白いスーツを着たジャック。その隣に座っているのは金髪のフルート奏者。では、オーケストラの中で吹いているフルートは誰? タリーは腰を浮かせ、首を捻じ曲げ、管楽器席を見た。床屋の主人と中学校の女校長。コットンパークシティフィルの常任フルート奏者が二人仲良く並んでいる。あの金髪のフルート奏者はシューマンだけしか乗らなかったんだ。そして今ジャックと一緒に最前列に居て、メランコリックな三楽章のチェロを二人で聞くんだ。私は恋人達の為に伴奏するんだ。悔し涙がこみ上げるのを感じた途端、タルーラが身体の中に戻って来た。ぐい、ぐい、とタルーラはタリーを押しのけるように入って来る。最後の一押しで完全にタリーは蹂躙され、タリーの中心にしっかりと嵌ったタルーラは、いきいきと解き放たれたように、弓を深々と使い始める。左手の親指を棹に押しあて、切なく憂いに溢れるビブラートを掛ける。最初の5小節で観客はタルーラの虜になった。タルーラの息づかいが会場を統べた。ジャックの手が隣の女の手を離した。ジャックの視線がタルーラの肩に、黒髪に、頬に、弓を引く腕に、ビブラートを震わせる指に注がれるのを感じた。 音楽が止まった瞬間、最前列からブラボーが飛んだ。立ち上がって拍手する観客の中に、ブラボーを叫ぶジャックを見た。

今夜の打ち上げを兼ね、明朝までタリーの十六歳の誕生パーティーが続くという。楽団員やその家族達が、タリーをもみくちゃにしてお祝いを言う。玄関ロビーの卓上に贈り物がうず高く積み上げられている。同級生の少女達がタリーの手を取ってバルコニーへ連れ出す。

「ねえねえ、タリー、どうやってあんなにうまく弾いたの? いつものタリーじゃないみたい。」

「舞台に立つと、自然にそうなったの。」

「バレエの白鳥と黒鳥みたいに、タリーそっくりの子が入れ替わって弾いた?」

「やだ、そんなおとぎ話みたいなこと、あるわけないじゃない。」

「あのソリスト、ジャック・ドーソン? 素敵ね? お話できた?」

「ええ。本番の前にレッスンを受けたの。ロミオとジュリエットみたいに弾けって。」

「うわあ、素敵。あなたとジャック、本当にロミオとジュリエットみたいだった!」

「こんな豪華な十六歳の誕生日、世界中でタリーだけね! なんてラッキーガールなの!」

少女達が家の中に入って行った後、タリーは一人、満月を見上げた。

「今夜満月が出る頃、幸福でいられるように。」と祈った、あれはたったの三時間前。またタルーラに助けられた。真実は誰にも言えない。誰にも話せない。私の人生はどうなるんだろう。 いつまでタルーラに頼って生きていくんだろう。

楽団の首席奏者四人がワルツを奏で、タリーと父親のポールが中央で踊る。今日だけ、ピンクシャンパンで一杯だけ、乾杯することが許された。ピンクの風船が括り付けられたケーキ台の横に子供達が列を作り、バースデーケーキを切り分けて貰う順番を待っている。バーの側に白いスーツのジャックが立ちタリーを見つめている。グラスを持って近づいて来る。

「タルーラ。」

ジャックが名前を呼ぶと同時に、金髪のフルート奏者が来て、「ヘイ、ジャック、一緒に飲む?」と誘う。 ジャックは黙っている。フルート奏者がタリーを睨みつける。タルーラが、ジャックに微笑み返す。フルート奏者の金髪が、日に焼けてそばかすのある胸の谷間が、マスカラの溶け出した目が、 赤く塗った唇が色褪せて見える。セクシーな掠れ声で、「ジャック、もう出ましょうよ。」と誘いかけても、ジャックの耳には届かない。ジャックの眼は、十六歳のタルーラの波打つ黒髪から、 輝く瞳を包む濃い睫毛から、化粧っ気のない唇から、むき出しの肩から、細い黒いハイヒールの踵から、目が離せない。

「タルーラ。」

ジャックが再び名を呼ぶと、タルーラはジャックの手を掴んで走り出す。ダンスしている男女の間をすり抜け、外階段を駆け下り、大通りへ走り出す。手を上げてタクシーを止め、ジャックを座席に押し込み、自分も転がり込んで笑う。ジャックも笑う。二人は笑いながらキスをする。ジャックのホテルの部屋は、大きな窓と窓が出会う角部屋。人口湖の上に満月が出ている。インディアン居住区に聳える城のようなカジノのネオン灯の背後に黒く砂漠が広がる。

「ハッピーバースデー、タルーラ。」

ジャックが白いジャケットを脱ぎ、シャツも脱ぎ、月光に露になった胸にタルーラを抱きしめる。黒いドレスの肩紐を落とし、跪いてタルーラの足へキスの雨を降らす。ベッドに横たえられ、タルーラは溜息をつく。ジャックの腕や胸や腹の毛が肌をくすぐる。窓から射し込む月光にタルーラの黒髪が広がる。雨音のようなピチカートが始まると、ロミオの唇が切々と愛を訴え、ジュリエットもそれに応える。あの時タリーにできなかったことが、今タルーラにはできる。控えめだけど荒々しく、夢見るように微笑んで、ジュリエットになりきって、ロミオの愛を受け入れる。無垢な少女のままでいたい。家も家族も捨てロミオに愛される女になりたい。二つの気持ちが相反し、揺れ動き、月光を浴びて踊る。ジャックに抱かれるチェロとなり、ジャックという十字架に貼り付けになり、ジャックという舟に繋がれ、深々と弓を使い、荒々しく夢見るようにビブラートを掻き鳴らす。本当の愛を知った。本物の男を感じた。この瞬間を死ぬまで忘れない。愛の涙がこみ上げるのを感じた途端に、ジャックが身体の中に入って来た。ぐい、ぐい、とタリーを押しのけるように入って来る。最後の一押しで完全にタリーは蹂躙され、タリーの中心にしっかりと嵌ったジャックは、いきいきと解き放たれたように弓を深々と使い始める。左手の親指を棹に押しあて、切なく憂いに溢れるビブラートを掛ける。最初の5小節でタリーはジャックの虜になる。ジャックの息づかいが世界を統べる。音楽が止まった瞬間、ジャックの生命が飛んだ。ジャックが吠えた。タルーラの腹から乳房、首から黒髪、唇の上、瞼の上にも ジャックの生命が輝いた。銀色の月光に照らされて。

汗が引くとともに、タルーラは完全に消え去った。一度デュエットを弾いただけのほとんど知らない男の側に素裸で、引き裂かれた痛みと共に一人取り残されたタリーは泣き出した。

「タルーラ、君はすごく素敵だったよ。」

ジャックが囁きかけ、タリーの身体を拭い、優しく抱きしめるが、タリーは泣き止めない。私の十六歳の誕生日。こんなはずじゃなかった。タルーラなんて大嫌い。私の人生なんて大嫌い。家に帰りたい。昨日の私に戻りたい。

タリーの家では、まだパーティーが続いている。父親とスーザンがタリーを待ち受け、キッチンで質問攻めにされる。テーブルを叩いて怒り狂う父。

「これから警察に行き、レイプされたと訴えるぞ!酒を飲ませ部屋に連れ込むなんて、あいつ一生許さんぞ!」

「約束通りシャンパン一杯しか飲んでない。ジャックに無理強いされたわけじゃない。私が馬鹿だったの。ごめんなさい、ごめんなさい。」

同じ話の繰り返し。長い長い一夜。悲惨な夜明け。


「ふう……ヘビーな話だね、ナナ。それからどうなったの?」と、デビーが聞いた。

二十年後、コットンパーク音楽院の学部長選挙にジャック・ドーソンが来ると聞き、タリーの父が、「奴はケダモノだ。前回ソリストに迎えた時、十六歳の団員がレイプされた。」と暴露して、落選させた。その選挙に勝って学部長になったのがタリーの夫。

「グランパはその事知ってた?」

「グランパは何も知らなかったと思う。最後まで私たち幸福だったのよ。」

「タルーラが最後に来たのはいつ?」

「あなたのママを産んだ時。エマの頭が大きすぎて、途中から帝王切開だと言われ、恐ろしくなって失神しかけた時にタルーラが来て、医師に向かって叫んだ。切らないで、あと一回いきんだら生むからって。その通りになったわ。」

「でも、でも、タルーラはナナ自身でしょ? 自己催眠か何かでタルーラという別人格になっていたんじゃない? それともナナは最初から二重人格だったの?」

「真実はわからないけど、私のお祖母さんから不思議な話を聞いたのよ。私達の先祖はアリゾナ・インディアンの血筋だと。あるとき双子の姉が亡くなり、悲しみにくれた母親が呪いをかけた。残された妹の中に姉の魂も生き続けるようにと。その姉の名がタルーラだったと。」

 祖母ナナは枕にもたれかかって目を閉じ、CDプレイヤーのボタンを愛おしむようにそっと押した。再び、三十歳のジャックと十六歳の祖母ナナのデュエットのロマンチックな音色が二筋の天の川のように、ナナの寝室に流れ出した。

                                   終

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