【園子音 木下ほうか】自己愛性ブラック撮影現場【成田凌 中谷美紀 小松奈々】

 俳優の木下ほうかや映画監督の園子温など、芸能界での性加害報道が相次いでいる。

 それらに関連して、撮影現場でのパワハラ被害にも注目が集まっている。

 俳優の成田凌は、ワークショップで全裸踊りを強要されたという。女優の中谷美紀や小松奈々も過去の映画撮影で、監督に追い込まれたことを告白している。


 映画界では、演者を精神的、肉体的に追い込むことによって、演技力を引き出すといった手法が、昔からよく知られているところである。こうしたエピソードには事欠かない。


 自己愛性ブラックによるハラスメントにはメカニズムがある。詳細は『自己愛性ブラック』で解説しているが、今一度ここでおさらいしたいと思う。


 自己愛性パーソナリティ障害は、自己愛と分離不全を原因とする。

 自己愛とはその名の通りで、自己に対する強すぎる愛。

 分離不全は、分離個体化の失敗による、他者との未分化な一体感のことである。


 自己愛性PDは、表面的には尊大、傲慢だが、その内面は実に脆い。

 彼らは常に不安感、恐怖感、そして孤独感に苛まれている。表層的な強さは、彼らの弱いメンタルを守るための、謂わば鎧のような役割を果たしている。


 彼らは他者を、自身の一部、または延長として認識している。そのため、他者が自身の思い通りに動かないとパニックに陥り、自己愛憤怒を起こしてキレる。

 元々、他人の立場で考えるということが出来ないために、具体的な指示や指導が出来ない。

 『ここをこうしろ』とか『そこを直せ』といった指示が出来ないのである。

 必然的に、指示や指導の内容は、抽象的、かつ精神論的なものになる。

 すなわち『やる気あんのか』『気合いが足りない』『何年やってんだ』『親の顔が見たいよ』などのモラハラワードの大合唱となるのである。


 撮影現場においては、普通の会社や部活にはない、特殊な状況も加わるであろう。

 演技のイメージは、監督の頭の中にしかない。演者がそれを完璧に理解することは、そもそも不可能なのである。

 基準もゴールも明確でないにもかかわらず、演者は監督のイメージ通りに演じなくてはならない。

 監督の方は、自身のイメージと違うとキレる。具体的な指示が出来ないと、パワハラモラハラに頼るしかなくなる。


 感情を表現するのに、実際にその感情を引き出すというのも、理屈としては理に適っている。

 しかし、アフターケアなしにそうした手法を乱用するのは危険である。

 演じる技術と、実際にそうした行動を取ることを混同していいのか。

 ダンサーとダンスをどうやって見分ければいいのか。


 観客は何故、俳優の演技に魅了され、感動するのであろうか。

 演者に対する一体感、自己投影といった感情は、自己愛性PD的な転移とどう違うのか。

 観客の心に入り込み、感情を操るという行為自体が、そもそも分離不全的ではある。

 演者に対して、最初に理想化転移を起こすのは、恐らく監督なのであろう。

 演じるという行為は、実に罪深いものである。


 邦画を観ていると、そうした自己愛性ブラック的な空気を感じる作品が多いような気もする。尊大さ、傲慢さ、正義感の押し付け、といったところで。

 リドリー・スコットやドゥニ・ヴィルヌーヴの作品に、そうした空気は感じない。

 自己愛性ブラックでなければ映画を撮れない、ということでもないのであろう。


 企業や部活のみならず、演技の世界においても、今後は、自己愛性ブラック指導によらない、演技指導メソッドが必要になるであろう。

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