夜の始まり

 その頃、高校受験を控えていた俺は毎日塾に通い、夜の10時頃にならなければ家に帰ってくることはなかった。

 家に帰ればすぐに明日の学校の準備をして寝る以外の時間はなかった。

 俺の家は割と裕福な家庭だったが、両親は、特に父親はかなりしつけに厳しかった。だから勉強以外のことで夜更かしなんてしようものなら、どんな罰が待っていたかしれない。

 教室でクラスメイトが話している「昨日は夜遅くまでゲームしてたから眠い」とか「ついついインスタとか見ちゃって眠れない」などという言葉に聞こえないふりをしながらずっと羨ましさを感じていた。

 同じ年齢の友達がやっているゲームやアニメ等は小さい時から羨望の対象でしかなかった。皆と一緒にゲームで遊べなかった俺は少しずつ話題についていけなくなり、遊ぶ回数が減って友達との距離も徐々に遠のいていった。気付けば友達と呼べる同級生は俺の周りにはほとんどいなくなってしまっていた。

 小さい頃から、親は俺が何か失敗する度に押入れに閉じ込めたり、椅子に縛り付けて放置していた。何度「ごめんなさい」と謝っても簡単にはその罰は終わらなかったのを覚えている。次第に俺はそういった罰に慣れていったが、やはり心の底では両親に対して諦めにも似た深い悲しみを抱えていた。その時の気持ちは今でもはっきりと心の中に残っているし、きっといつまでも消えることはないと思う。

 一方で両親は妹に対してはかなり甘かった。小さいころから欲しいぬいぐるみや玩具なんかがあると、すぐに買ってもらえていた。それにマナーや門限にも甘かった。

「どうして俺に対してだけはこんなに厳しいのか」

 1度、思いきって両親にそう訊いてみたことがある。すると、そんなの当たり前じゃないかという顔で「長男だからだ」と、訳のわからない理由を伝えられた。

 その瞬間、この人達は自分たちの子供を厳しくしつけることで親である自分たちが"しっかりしている人間"であるというように錯覚しているんだ、そういう自己陶酔で俺に厳しくあたっているんだと、そこに愛情は無かったんだと心の底から確信した。

 その頃から俺は早く家を出て一人暮らしをしたいと切に望むようになった。うんざりしていた、なぜ自分だけがこんな目にあわなければならないのか。

 とにかくすぐにこの呪縛から開放されたかった。


 そんなある金曜日の夜、人生で初めてのチャンスが訪れた。

 俺が塾から帰ってくると両親は慌てた様子だった。昔に世話になったという知人が亡くなったらしく、遠方に葬式に行くことになり1晩泊まってくることになったのだ。

 今まで頑なに両親だけで泊りがけで出かけるなんてことをしたことがなかったけれど、今回ばかりは別と決断したらしかった。

 2人ともいつもは見せないようなドタバタと慌てた様子で式服や数珠を棚から引っ張り出して準備をし、俺と妹にあれこれ言う間もなく「明日の夕方には帰る」とだけ言い残して出て行った。

 玄関のドアが閉まった後、カーテンの隙間から外を覗くと、2人の乗った車が出て行くのが見えた。思いがけず自由な時間を手に入れた俺は思わずガッツポーズをした。

 リビングに戻ると、妹はソファに寝転んでスマホを見ながらどこに隠してあったか分からないポテチをつまんでいた。親が見ていたら憤慨する光景だ。

「あいつら、出てった?」

 こちらを一瞥もせずにそう訊いてきた。親の前でいい子ぶっている妹とはまでとはまるで別人だ。

 まぁ、こいつはこいつで大事に育てられている重圧やストレスを感じているのだろう。

「ああ、確実に車で出てったぞ」

「はぁ、そのまま事故にでも遭っちゃえばいいのに」

 さすがの俺もそのセリフにはちょっと同意できなかったが。

 まぁ反抗期、ってやつなんだろうな。妹はもうすぐ中学生になる歳だ。

 思えば俺には反抗期というものがなかった。親に反抗しようものならそれ以上の罰が待っていることを知っていたから、無力感から何もしなかった。

 その点で言えばこいつは隠れてだが立派に反抗している。すごいやつだ。

そんな妹を見ていると、何だか訳がわからないが気力が湧いてきた。

 よし、俺も今しかできないことをやろう。

 まずは我が家では禁忌とされている夜8時になった後にカフェインたっぷりのコーヒーを飲んだ。そして妹が隠し持っていたポテチをつまみ、そして……そして……。

「なぁ、俺って何したらいいんだと思う?」

 いざ自分が解放されてみると、そんなことを今まで考えもしていなかったからか、開放された時にしかできないことが一体何なのか、よく分からなくなってしまっていた。

「はぁ? 頭おかしいんじゃないの」

 妹はこれ以上ポテチを取られまいと、袋を持って自室に戻って行った。

 リビングで1人になった俺は、妹と同じようにソファに寝転がってこの1晩のことを考えた。なにせ1秒たりとも無駄にできない夜だ。

 なのに、そうして寝転がってじっと考えているうちに、時刻は深夜近くになっていた。

 馬鹿な、もうこんなにも無駄な時間を使ってしまったのか、と後悔したけれど、思えばこんな時間にリビングで1人でゆっくりとしているなんていつもじゃ考えられないことだ。反抗的な妹も所詮は小学生、もうすでに部屋の電気は消えてしまっていた。

 夜に1人でゆっくりしている。そう思えば思うほど今の時間が特別な物のように思えて、急に嬉しくなって訳もなくリビングの絨毯の上で腕立て伏せなんぞをしてみた。

 何という開放感だろう、夜でなければ叫び出していたかもしれない。

 身体を動かすといろんな考えが頭に浮かんだ。

 そうだ、深夜のコンビニにでも行ってやろうか。あそこは24時間営業だし。

 ……いや、こんな遅い時間に出歩いたら補導されちまうか。

 父さんのお酒でもちょびっと飲んでみるか。

いや、バレた時のリスクが高すぎるな。美味しいかどうかもわならないし。

 そうだ、深夜のテレビ番組でも見てやろう。小学生のお子様はもう眠った後だし、何も問題はない。

 リモコンでテレビをつけると、見たことも無いニュース番組がやっていた。

 チャンネルを変えていくと、海外でやっているテニスの試合の中継だったり、ニッチなファンが多そうなアニメが流れていた。そのアニメは、よくある異世界転生のファンタジーもののようだった。しかし話の途中から見ているので、一体何が起きているのかはよくわからなかった。

そうしてチャンネルを変えまくっていた時だ。

リビングの庭に通じるガラス戸から音がした。

ドン、と1回。

誰かが叩いたような音だった。

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