第七場 緑色の目の怪物

〜〜大聖堂地下二階~~


 歌っていた男はトニーの姿を認めると口を横に伸ばして笑い、イアーゴと名乗った。どこか蛇を思わせる男だ。


「女どもの恋愛ゲームを攻略したようですねぇ」

「お前も大主教の魔法だな」

「いかにも」


 イアーゴが手のひらをかざすと、はりつけにされたようにトニーの体が動かなくなる。

「くっ…! 何しやがる!」

 空気までもが周囲を固めているようで、ますます息苦しさが強くなる。


「決まっているでしょう、宝珠オーブですよ」

 そう言うとトニーの服の中を探っていく。

「…残念だったな、アテが外れて」


「なるほど、どこかに隠したか、あるいは別の方が持っているのか。あなたでも司祭でもないとすると、残りは女兵士でしょうねぇ。肉1ポンドを狙われているシェイクスピアに持たせるのは、あまりにリスキーです」


 口だけ笑いながら、蛇の鱗のような冷たく湿った視線でトニーの体を上から下まで眺めると、イアーゴは急に束縛を解いた。

「!? どういうつもりだ」


「あなたには別の役に立ってもらいましょう」

 そして耳元で囁く。


「あなたがどんなに想ったところで、彼女は奴に夢中。そう、ウィリアム・シェイクスピアですよ。奴さえ居なければ、彼女はあなたのもの。違いますか?」

 いきなりこいつは何を言って———。だが胸の中のどこかを掴まれたような気がした。


「彼女がシェイクスピアに熱くなったのは、夢みたいな嘘を吹き込まれたからです。しかし、いつまでもそんなお喋りで満足できると思いますか? 人間は本来色気の塊ですよ」

 トニーの耳が熱を持つ。


「彼女はいい眼をしていますねぇ。心が掻き立てられるようです。あの話し方と来たら、誰でも恋を仕掛けたくなりますよ」

「やめろ」


「シェイクスピアはいい加減で薄っぺらくて口がうまいですからねぇ。顔も良いし、娘が欲しがる条件は全部揃っています。二人が話す姿を思い出してごらんなさい、唇を側まで寄せ合って、息と息が抱き合っていましたよねぇ」


「やめろ!」

「ああやってイチャついているのがちょっと進むと、その次はもう本番でとうとうくっつきましたということになるんですよねぇ」


 トニーの拳が唸り、イアーゴのあごに命中する。しかしその感触は蛇というよりナメクジのようでぐにゃりと手ごたえがない。イアーゴの湿った笑いは崩れなかった。


「私の考えが曲がっていると思いますか? 忘れられないのでしょう、彼女のキスが。しかし彼女の心はシェイクスピアのもの。今、彼女が待っているのはあなたではありません」


「うるさいっ…黙れ!」

 息が苦しい。頭が締め付けられるようだ。これ以上こいつの話を聞いてはいけない。トニーは一刻も早くその場を離れようとしたが、イアーゴの声に絡め捕られる。


「あなたがこうしている間にも、二人は互いの手を握り合い、鼻と鼻を、耳と耳を、唇と唇をこすりつけ合って———」

「あ…ああああっ…!」


 まるで水の中をもがいているように足が地面を掴めない。ドクンドクンと速く強く脈打つ鼓動に合わせて、タモラに貫かれた傷が疼き始める。

 そして寄ってきたイアーゴが再び耳元で告げる。


「嫉妬にお気を付けなさい。こいつは緑色の目をした怪物で、あざ笑いながら人の心をむさぼり食うのです」

「やめろっ…黙れ…!」

 その時だった。


「トニー!」

 彼女の声は清流のようにスッと体に流れ込む。しかし駆け寄って来たライラを、トニーは強い力で跳ねのけた。


「近づくな…ライラ逃げろ…」

「トニー? どうしたの?」

「はや…く…行け…」


 ドクン、ドクン、ドクン。鼓動はどんどん速くなり、傷口が熱い。ライラの顔を見ると、黒い煙のようにもやもやとしたものが憎しみという形を徐々にはっきりさせ、トニーの胸の中でとぐろを巻く。それは痛みと共に全身へ拡散し、他の感情が入り込む余地はもうなかった。その場に崩れて、自分の体を両腕で抱く。


「ああ…痛え! 体が…ッ! あああああああああぁぁっ!!」

 ライラはどうすることもできずにいた。うずくまった彼の異常状態には恐怖を感じるが、かといってこのまま放ってなどおけない。


「トニー、傷が痛いの? マシューに治してもらおう?」

 恐る恐る近づく。しかし次に顔を上げたのは、トニーの顔をした別人だった。目つきも、口の形も、そして目の色が違う。邪悪に暗い緑色の目を光らせ、いきなりライラは腕を掴まれる。


「痛い!」

 爪が食い込むほど握られ、引き剥がそうとするとますます強くなる。


 反対の手で顔に触れられた。その手はぞっとするほど冷たく硬い。緑色の目と顔が近づいてきて、反射的に顔をそむける。まるで蛇が首を伸ばしてきたようだった。

 蛇の舌がライラの首筋を舐める。それはあのアンジェロ司祭の忌まわしい記憶を呼び起こし、トニーの顔を思いっきり平手で打った。


「やめてよっ! どうしちゃったの?」

 緑色の目を怒りに見開いた顔は恐ろしく、息を飲む。すると今度は両手で首を掴まれた。

 声が出せない。全身で抵抗するが、トニーの体はびくともしない。


「そうです! 毒が回りきったその体で、最後は絞めるのですよ!」

 声の主が視界に入る。あいつだ、きっとあいつがトニーを操っているんだ。


「なんで…どうしてウィリアムなんだよ。歳上だからか? 才能があるからか? 俺よりいい奴だからか?」

 なに、なんのこと…? トニーの言いたいことが分からない。しかし彼はとても苦しそうだった。


「どうせ俺には語れる夢もないし、できることなんてないし、ライラを守ってやる力もない。だからこうして手に入れるほかないんだ」

 息ができない苦しさに涙が溢れてくる。


 何があったの? どうしてそんなに苦しそうな顔をしているの?

 聞きたくたも、伝えたくても、もう声も出せない。体に力が入らず立っていられない。視界が狭くなって、だんだん暗くなる。

 トニー、何があなたをそんなに苦しめるの? わたしのせいなの?


 ふいに喉の圧迫が解け、急に流れ込んできた空気に大きく咳込む。

 流れる涙をぬぐいながら何が起こったのか確かめると、トニーが何者かに殴り飛ばされていた。


「おのれ! 邪魔をするな!」

 飛び出したイアーゴが、腕から黒い液体を放出する。男はそれを身軽に避けると拳銃を向け、三発放った。


 そこへトニーが飛び掛かる。男は今度は拳銃でトニーの頭を殴る。それから蹴飛ばし、再び拳で殴りとばす。トニーを殺してしまうのではないかと思うほどだった。


「や…てっ! やめてえっ! 撃た…で!」

 叫びたかったが激しく咳込んでしまい、声にならない。それでも止めなければと震える足で立ち上がり、戦いの巻き添えになるのもいとわず必死で男の衣を掴んだ。


「おねがいやめて! トニーを傷つけないでぇっ!」

 全力でお腹から声を出すと、また苦しくて涙が溢れる。それでも咳を堪えて叫ぶ。

「わたしの大切な友達なの。操られてるだけなの! お願い撃たないで!」

「知っているよ」


 向かってくるトニーの攻撃をいなし、男は顎に手刀をヒットさせる。がくりと脱力したトニーの体を支えた。

「う…俺……?」


「トニー! 大丈夫!? 痛い?」

 トニーの目は殴られて腫れていたが、暗緑色からいつもの薄茶色に戻っている。


「ああ…ライラ、無事でよかった。ごめんな、俺さ、」

「いいよ! もういいから。どこも痛くないのね? 苦しくないのね? トニーが無事ならそれでいいの」

 そう抱きしめた。さっきと違い今度は温かく日なたのようで、また涙が溢れてしまう。


「ライラっ!? ななななんだよまた惚れ薬か?」

「違うよ。ごめんね、わたしのせいで苦しい目にあわせてしまって」


「…ライラのせいなもんか。ごめんな。盾になってやるって約束したのに」

 トニーの胸にまだ胸に薄く黒いもやは残っていたが、ライラをぎゅっと抱きしめた。


 男が固い靴底でつぶてを踏みつぶす音で、二人は我に返る。撃たれたイアーゴの体は既に砂となり消えていた。


「あ、あんたは!」

「あなた『緋色のウィリアム』よね? トニーに盗みを指示した」


 直感する。ライラが掴んだ衣はダークレッドで、指先で触っただけでも分かるような高級素材だった。拳銃を所持していることからも、一般庶民とは一線を画した人物だと分かる。何より真っ白な髭をたくわえながらあんな動きをするのだから、ただの壮年市民ではない。


「その通り、宝珠オーブを手に入れるよう依頼したのは私だ。しかしまさか、彼が偶然にも君と共に行動するとは思わなかったよ、ライラ」

「わたしを知っているの?」


「おや、シェイクスピアから何も聞いていないのかね? 彼は全て知っているはずだが」

「え…っ?」


 全て知っている、つまりライラが狙われる理由も。それを隠して近づいてきたの———?


「ねえ、ウィリアム・シェイクスピアは何者なの」

 恐る恐る尋ねたライラに、緋色のウィリアムは穏やかに答える。

「彼はエリザベス女王の密偵だ。そしてライラ、君は———」




※『オセロ』

四大悲劇の一つ。肌の黒いムーア人の将軍オセロは、ヴェネツィアに仕え数々の武勲を上げてきた。元老院議員の娘デズデモーナと相思相愛になり、反対を押し切って結婚にこぎつけ、キプロス島へ妻を連れ赴任する。

しかしオセロに反感を持つ部下イアーゴが計略を巡らす。白人の美男でオセロの副官キャシオとデズデモーナの関係を暗示する状況を吹き込み、不倫していると勘違いさせる。証拠品が欲しいとオセロが言えば、自分の妻にデズデモーナのハンカチを奪わせ、キャシオの部屋に置いておく。キャシオはイアーゴの計略で免官になってしまうが、イアーゴに依頼されたデズデモーナは、彼の復職を夫に願い出てしまう。「緑色の目をした怪物」こと嫉妬の虜となったオセロは、ついにデズデモーナを殺害。その後イアーゴの策略が明らかになり、オセロは自害する。


見どころは、オセロの耳に嫉妬という毒を注ぎ込むイアーゴの巧妙なセリフ回し。こいつとにかく悪党。そして人種の壁と劣等感と、虚言と嫉妬という実態なき存在に狂わされる人間の哀しい余韻。比較的古典感が薄く読みやすいので、シェイクスピア初心者の方におすすめしたい作品。

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