26.はっきり言えば、怖い。

「懐中電灯を持ってくるべきだったなあ」


 ぼそっ、と高橋の声が聞こえた。足元がまるで判らない。足を進めれば進めるほど、次第に辺りは暗くなって行った。

 少し湿っている土壁に手を置きながら、そろそろと足を進める。

 どこに何があるのか判らない。

 時々、いきなり足を取られそうになって、肝を冷やす。ざっ、と冷や汗のにおいが自分のまわりに漂うのが判る。周囲の空気はだんだん冷えてくるのに、だ。


「確かにここいらだったら、あの魚も大丈夫そうだよな」


 誰ともなくそうつぶやく。全くだ、と思う。


「本当にこっちでいいのか?」


 あの声は高橋だ。そのはずだ、と松崎の声もする。


「このまま進むと、やがて旧作業場に着くはずなんだ。埋められていなければ」

「へ、頼りねえの」


 おどけた調子で高橋は言う。精一杯の強がりなのだろう。

 実際、この暗さでは、本当にゆっくりゆっくり行かなくてはいけない。足元もおぼつかない。

 はっきり言えば、怖い。


「でもだんだん、冷えてきたんだからさ、もうじきだろ?」


 精一杯の明るい声。そう、そう思わないとやっていられない。


「大丈夫か?」


 前を行く遠山が、時々こっちを振り向く気配がする。大丈夫、とあたしは答える。

 ぱし、とその手が、あたしの手をつかむ。

 ああ、大きいな。

 それに暖かい。汗と、土壁で濡れた手が、次第に冷えてきていたので、妙にそれは心地いい。


「お」


 不意に、ぼっとした森田の声が上がる。


「どうした?」

「今さっき、むこうに何か見えたで」


 囁くような声で、言葉を交わす。少しの声でも、この場では反響する。

 立ち止まる。目をこらす。あ、と今度は松崎が声を立てる。


「……うんそうだ、あれだ。一度広いところに出るんだ。その向こうに、採石場跡があったはず……」


 暗闇の中で、うなづきあう。さらに慎重に足を進める。

 やがて、足に少し安定感のある地面の感触がする。壁に手をついたまま、とんとん、と片方の足で、あちこちを探る。大丈夫、どうやら平地についたようだ。すこしつるつるするけれど。

 壁から手を離す。その時やっと、自分が遠山の手をずっとあれから握ってたことに気付いた。

 気付いて慌ててその手を離す。周囲が暗いから、彼がどんな表情をしているのか判らない。

 ただ、このひとと手をつないでいるのは、良くない。そんな気がしたのだ。彼のためにも、自分のためにも。


「こっちだ」


 手招きする気配。松崎の声だ。そのあとに、それでも体勢を崩さないように気を付けて、足を進める。

 やがて、ぼんやりとした光が向こう側から見えてくる。松崎の身体の線が闇の中に浮かび上がる。

 ほっ、と一息つく。光があるということがこんなに安心できるものとは思わなかった。

 光はだんだんその強さを増してくる。光源が近づいてきているのだ。


「今、何か聞こえなかったか?」


 かすれた声で、高橋がささやく。聞こえた、と森田も答える。あたしの耳にも、それは届いた。

 人の声だった。それも一人ではない。複数の声だった。

 しっ、と遠山は口の前に指を立てる。人の気配は、次第に近づいてくる。

 息を詰めて、あたし達は陰に身を隠す。大勢の人々の足音、疲れた声、そんなものが次第に耳に飛び込んでくる。

 あ、と微かな声がその中に混じった。


「松崎くん?」


 微かな声で問いかける。視界には、どこか薄汚れた人々がぞろぞろとうなだれて歩いてくるのが映る。

 彼の視線は、その中の一団に向けられていた。


「……親父…… 母さん……」


 思わず彼は飛び出そうとする。

 慌ててその身体を遠山が、口を高橋がふさぐ。今見つかってはいけない。あたしはその耳にそそぎ込む。判ってはいる。彼もまた、判ってはいるのだ。

 それでも、身体は正直なのだ。

 村人の一団が通り過ぎてしまうまで、あたし達は松崎を押さえつけていた。

 決まりだな、と遠山はつぶやいた。あたしもうなづく。

 誰かが、ここの村の人々を、絹雲母を採掘するために狩りだしたのだ。


「だけど何で」


 あたしはつぶやく。


「わざわざ人々を今、集めることはないと思うのよ」

「今やないとあかん理由があるんやないか?」


 ぼそ、と森田は言う。今でないとならない理由。


「遠山、セリサイトって、何の原料やったっけ?」

「化粧品とか。……ああ、あとは溶接棒とか、あとは電磁波フィールドとか…… よくわからん」

「わからんやろ。やから、俺等の知らないことができるとこで必要なんやないか?」

「知らないとこ」

「外国や、って言ってたやろ?」


 それは予想していたことだった。


「それはそうかもしれないけれど、何で今、なの?」

「今ちょうど、その船が来てるとかあるんやないか? 豊橋港とかに」


 はっ、とあたしは久野さんがここにいる理由を思い出した。彼がこの管区にいるということは。

 仕事の内容を詳しくは話してはくれなかった。けど彼の仕事上、その可能性はあった訳だ。

 そして今、彼は名古屋にあるはずの管警本部にはいない。


「急ぐ、ってことか」

「別に素人でええんならな」


 そのあたりはわからんわ、と森田は手を挙げる。


「でも、それはあるかもしれない」


 あたしも口をはさむ。


「じゃあ今、俺達にできるのは」

「安全で確実な道としては、今すぐ引き返して、管警に電話することだな」

「けど若葉が! 親父や母さんが!」


 松崎は思わず声を上げてしまう。ああああああ。


「誰だ!」


 ちっ、とあたしは舌打ちをした。ぱん、と一発松崎の背をはたく。じっとしてろ、とその手を遠山が取る。首を横に振る。そうなのよね。音がしてはいけないのよ。唇を噛む。息を詰める。


「何だ?」

「や、何か向こうで声がしたから」

「ここのあたりは、残響も大きいからな。きっと村の連中があくびでもしたんだろ」

「そうですかねえ」


 言葉の調子が、名古屋あたりの連中のものに近い。おそらく皆の方がそれに気付いてるだろう。

 管区どころか、その中の地区の中ですら、言葉については、深い溝があったりする。そこに住んでいる者は、それにひどく敏感なのだ。


「どうする?」


 皆で顔を寄せ合う。


「管警を呼びに行った方がいいのは確かだけど、皆で一度に行くのは危険じゃねえの?」


 高橋は半ば自分に言い聞かせるように言った。


「それはあるかもね。手分けして行った方がいいかもしれない。それに、中の人々に状況も聞きたいわ」

「状況」

「それが判ってから、第二弾が行く、というのもありじゃない? それに若葉が心配だわ」

「つかまっている、という可能性もある」


 松崎は低い声で言った。表情は見えないけれど、何となく予想がつく。声が少し震えている。


「お前足速かったよな、高橋」

「早弁と早足は俺の十八番よ」

「じゃあお前、先に出てみてくれないか?」

「俺が?」


 何を考えているのだろう。それを遠山に提案されたことで、嫌だと言ったところでおかしくはない。

 それはだから、ほんの数秒の間だったのかもしれない。けれどあたしにはずいぶん長い間に感じられた。


「判った。行ってくる。電話はどこにあるんだ? この村では」

「若葉の家にはあったわ。それに役場や試験場にもあっておかしくはないはずよ」

「わかった」


 じゃ、と高橋はそこにいた他の四人の手を一気に掴み―――離した。

 一人分の体温が消えた空気は、どこか薄ら寒い。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る