赤の剣豪、異世界を流離う

奏一騎

第1話 人の道から外れしもの


 某がいる場所は魔法の概念がある世界、異世界だ。建物はどれも某の知っている物とは違う。黒い髪をした人間も皆無だ。

 某は数か月前、突如としてここに来た。

 なんの前触れもなく、落石事故に巻き込まれた某は、気が付けばこのメガス大陸に飛ばされていた。ここはメガス大陸でも年中温暖な地域で軍事国家トリステインの北部に位置する城塞都市アヴァロンだ。某はここで冒険者をやっている。


 あれはかれこれ数か月前、終の棲家となるはずだった出羽の片田舎を離れ、剣術修行の旅路だった。

 山越えをする最中、それは起こった。

 あの日は藩からお役御免を言い渡されてはや数か月が経とうとしていた。失意の底にあった心も癒え、これからって時だ。


 しがらみもなく、これからは剣士として腕を磨ける。他者を指導するのではなく、自身の道をゆくのだと、半ばあきらめていた最強への道を突き進むつもりだった。


『山崩れだ!! 逃げろおお!!』


 山道を歩いていた最中、不意にそんな男の野太い声が響き渡った。

 前方から大勢の人が逃げてくる。視線を走らせると前方に荷車が停まっており、その影に少年の足が見えた。

 ぐらぐらと地面が揺れ、ただごとではないと理解した。

 山崩れと言ったか、いかん。某は少年の元へと走った。見て見ぬふりはできない。荷車の影にいる少年に誰も気づいていなかった。某が行かねば助からない。

 走るのに邪魔だったので、腰に下げていた木刀を投げ捨てて走った。愛刀は路銀が必要だったので売り払い、護身用に手作りした木刀だ。多少の愛着はあっても背に腹には代えられない。


 山肌を大岩が転がりだした。いよいよまずい。

 だが迷っている暇はない。今更、引き返せないし、迷えば敗れる。真剣勝負と同じだ。心が負けてしまえば死に赴くだけ。ただでさえ分の悪い戦いでは、少ない勝ち筋を見逃してはならない。集中するのだ。

 勝負を挑んだのなら、いかなる可能性だって探り、諦めてはいけない。こういう勝負事には何度も挑戦してきた。ほぼ負けが確定している勝負でも、真剣勝負には逆転がある。


 聖人君主でもない自分がなぜこんな善行をと思う。人助けは確かに大事だ。だが某はこれまで幾人もの人間を真剣勝負と称して葬ってきた。人斬りだ。人を斬る目的が楽しみでない点以外、許されざる科を背負っている。その多くは挑まれて応じたもの、自身から挑んだわけではないのがせめてもの救いかもしれない。だが人斬りは人斬りだ。人を斬った手応えは、まだこの手に残っている。そんな手で人を救う。おごり高ぶった人間かもしれない。

 その罪を清算しようとでもしているのか。自身で自身がわからない。ただ勝手に足が駆け出していた。少年を救おうと赴いていた。自分でも浅はかな行動だと思っている。それでも。


 某の中で着実に脈打ち始めた疼き。今こそ運命に抗えと突き動す。

 今は落ちぶれ、ただの浪人に成り下がってしまった自分に何ができる。元会津藩、剣術指南役、芝原源之助、某に少年が救えるのだろうか。


 走馬灯が脳裏をよぎる。


 嘆願書を握り締めた某に、当時、某の上役であったご城代は告げた。

 『正道とは何か! 我らの道は殿の歩まれる道だ、民を制し、導けない己の未熟さを恥じるべきだろ、痴れ者め!』

『ご城代! せめて目を通すだけでも!』

『ええい、殿に訴え出てどうするつもりだ。己の未熟さをよりにもよって殿のせいにするつもりか、片腹痛いわ。殿の名代として告げる、芝原源之助、主に即刻、お役御免を言い渡す! 早々にわが眼前から去るがいい! 』


 生まれてこの方、剣術しかしてこなかった某が初めて味わった挫折だった。そもそもの間違いは、某がまつりごとに関わろうとしたからなのか。人付き合いが苦手で寡黙だった某に力を貸してくれる者はおらず、ご城代からの反感を恐れて誰も声をあげなかった。


 だから今一度、初心に還り、剣の道を極めたいと思ったのだ。ただそのためには路銀が必要だったので道場を畳み、なんとか捻出した金を門下生たちに手渡した。

 剣一本、身一つでの修行の旅だ。


 対戦相手には困らなかった。某はそれなりに名も売れていたため、真剣勝負を申し込まれるのは日常茶飯事だった。真剣勝負はまさしく死闘、木刀を使うのは相手を愚弄する行為だ。だから相手の命を奪っても誇りを守った。


 口入屋では時に暗殺紛いの仕事を提示された。だがそれだけはできぬと断った。これまで正々堂々と某に戦いを挑み死んでいった好敵手たちが浮かばれないと思ったのだ。名を貶めている気がした。

 刀は売っても魂は売らぬ。それが某に張れる精一杯の虚勢だった。


 某は気合を入れ直し、思考を巡らせた。あらゆる感情を振り払い、人間の腰の高さほどもある大岩を躱し、なんとか荷車の影に滑り込む。

 童は膝を抱えていた、瞳を泳がせて某を見上げる。その眼には恐怖以外のどんな感情も浮かんではいなかった。

 どう励ましても焼け石に水か。

 かがみ込み、強引に童を抱え上げる。

 今は童の心情を慮っている暇はない。某も必死だ。一分一秒を争う、心細いだろうが我慢してもらうほかない。


 周囲を見渡すと、すでに某の立っている場所は激流の中州だ。後ろには戻れず、前にも進めない。ともすれば流れてくる岩石がここを直撃するのも時間の問題。


 いち早く高所へと逃れていた一団がこちらに向かって『でっかいのがくるど! 何かに掴まれ!』と口々に気休めを叫んでいた。どう転がっても岩石が直撃すればすべてが終わる。荷車は破壊され、ここも瓦礫と一緒に流されるだろう。


 冷静に考えれば二人とも助からない。そう考えるのが普通だ、だが二人共は無理でも一人ならあるいは……。


 この方法しか――。迷っている場合ではない。

 童には言っておかなければならない。某が助けた命を悪事には使うな、決して人を傷つけるな。

 今は伝える時間もない。だが将来、困っている人がいたら手を差し伸べてやって欲しい。命を投げ出せとまでは言わない、ただ悪人にだけはならないでくれ。

 それら万巻想いを込め、童を高く抱え上げた。怒りに我を忘れ、人を傷つけそうになった時、いつも命の儚さを想え。某に言えた義理ではないかもしれぬ、だが頼んだぞ。


「ぐ、おおおおおああああ!!」


 相手が強大であるのなら、全身全霊で、それを打ち崩す起死回生の一手を。

 日々の鍛錬で培った腕の筋肉を総動員して、常人ならば届かぬであろう距離まで童を投擲した。多少の傷は負うかもしれないが許してくれ。


 全力を出し切ったため、童を放った後、肩で息をつきながら崩れ落ちる。もう駄目だ、限界を超える力を一瞬で出し切った。もう歩けない。

 なんとか視線を上げ、対岸で大人たちの手によって救われた童を見届けた。

 やり遂げたか……。だが同時に鼓膜に荷車の押しつぶされる破壊音が響く。某は静かに瞳を閉じる。


「無念……」


 周囲から音の一切が消えた。視界は閉ざされ、上下がわかないほど転がる。

 全身を擦り潰す凄まじい痛み。

 脳みそをかき回され、もみくちゃにされ、この苦しみはいったいいつまで続くのかと絶望した。

 なまじ意識を保っているだけにその苦しみも一入だった。

 足掻けず、ただ流されるだけ、静かに死ねない孤独な死。

 人の力ではどうにもならない災害の前に、某の心は想像以上の闇の中へと沈んでいった。希望が抜け落ち、絶望だけが心の中を支配する。

 光の入り込む余地がない。これが死か、ありとあらゆる方向からこれまで某が歩んできた生きざまを否定し、ののしってくる声が聞こえてくる。


 ありとあらゆる無念が混じり合い走馬灯となって脳裏を駆け巡った。今になって乗り越えたはずの声が聞こえてくる。


『戦場では勇敢な者から死んでゆくのだ源之助よ、弱きを助け強きを挫く、武士道とは単なる理想よ。剣ですべての者は救えぬのだ』


 人の生を踏みにじってまで足掻いた人生だったのに、こんな簡単に負けるのか、初めから神には頼っていない。死ですら乗り越え進んでみせる。

 人でなしで結構だ。

 某は人でなし、ただの善人で終わるつもりはない。

 思考が働くのなら動ける、血が流れ出るなら死んではいない。今、身体は生きようと藻掻いている。

 あなたの言葉を思い出してわかった。あなたの言葉が某に響かなかった理由、父上、あなたは弱かっただけだ。運命に抗おうと最後まで藻掻かなかった、死ねばそこで終わり? 違う、死に抗った先に未来がある。

 幾人の人間、その一生を台無しにしたと思ってる。のうのうと死ねない。それは許されない。某ならできる、人を傷つけてきただけのこの腕で、悲しむ者を残さず抱き上げてみせる。


 そのときどこからともなく、くすくすと笑う声が響いた。なんだ?


「くっ!」


 だが某は怯まず、臆せず進んだ。消えかけた生存本能をひたすら掻き集め前へ前へと岩を掻きむしりながら藻掻いた。声の主が誰か、不気味とすら思わなかった。爪が割れても顔面に石礫を受けても、その先になにが見えたわけでも助かると確信したわけでもない漆黒の中。生を掴み取ろうと藻掻き続けた……。すると初めからなにもかもわかっていたのか、それは現れた。


『ともに参りましょう殿……神を殺し悪を斬る、悪鬼羅刹の神髄を今こそ――あちきの銘を呼んでくりゃれ――』


 鬼人のごとく歪んだ顔……某の顔はひどく傷つき誰も近づきたがらない人相をしているに違いない。片目は潰れ声も出ない。もはや顔はぐちゃぐちゃだ。こんな人間を誰が愛し誰が手を差し伸べてくれる……。

 だがこの声のなんとも心地よい響きか、不安や杞憂は過ぎ去り、そこにあるのは真の平穏。

 手繰り寄せた光を握り締めるとまばゆい閃光があたりを包んだ。すると嬉々としてなにかを嬉しがる、不気味な声が響く。


『おいたわしや殿……そのお姿……あちきと似合いになりましたね。ふふ、もう心配はいりませぬ、殿に近づく死神はあちきが斬り捨てました……。殿の魂は永遠にあちきのモノ……キ~ヒヒヒヒヒヒッ……もう誰にも……渡しませぬよ……』

『あか、つば……き……』




 軍事国家トリステンの北部、城塞都市アヴァロン近郊のサンジョルジュ砦。

 現在、砦は厳戒態勢が敷かれている。

 アヴァロン近隣の村々から巨獣が接近しているとの一報が領主の耳に入り。巨獣を迎え討とうと、現在、砦にはアヴァロン兵たちが集っている。ただ彼らは巨獣を退けるための主力ではない。あくまで彼らが担っているのはサポート役。主力は、ギルドから派遣されてきた冒険者たちだ。魔物に関してなら彼らの右に出る者はいない。

 アヴァロン近郊には周辺の地域を見張るための砦が四方に配置されている。アヴァロンの周囲は森、沼地、山脈と、特殊な環境下に置かれている。そこに巣食う魔物の数々を警戒するため、砦は最高の立地で築かれている。

 サンジョルジュ砦は国境沿いの山側に位置し、街道の監視も担う場所だ。

 魔物だけでなく、隣国の動きにも敏感で、サンジュルジュ砦の担っている役目は多い。

 四方の砦には、それぞれが警戒すべき魔物の種類があり、魔物の分布図に沿った兵器が配備されている。

 サンジュルジュ砦は主に飛行敵。空からの急襲を想定しているため、ワイバーンを撃ち落とすためバリスタが多く配備されている。だが地上を攻撃するための兵器はない。

 そもそも切り立った地形を無視して破壊力の高い兵器を使えば、街道が岩石で埋まってしまい、街道の封鎖を余儀なくされる。また元通り人が行き来できるまで、復旧には数週間はかかるだろう。街道の整備にかかる手間暇を考えれば威力の高い兵器は必要ない。ただ今回はそれが裏目に出た。

 その魔物は本来なら森側で猛威を振るっていたため、サンジュルジュ砦では無警戒だった。

 山側に生息している代表的な魔物と言えば、ワイバーンのほかにはコボルトが当たる。

 コボルトは二足歩行の犬型の魔物で脅威度は低い。街道を行く荷馬車が落とした荷物を拾って散らかし、景観によろしくない行動をとる。だが人が大声を上げただけ逃げていき、滅多に人は襲わないため、わざわざ討伐する必要のない無害な生き物とされてきた。

 そういう観点から砦は対空を見据えており、地上への対処は砦に常駐している兵士たちで十分だったのだ。だが今回の相手は巨獣だ。生半可な相手ではない。

 よって今回の巨獣には肉弾戦のプロであり、魔物に詳しい人間に頼る必要があった。それが冒険者だ。


 そもそもこの都市は、魔導貴族として最高の権威であるサイラス家の支配地域である。彼の者が出張ってくれば山岳地帯どころか砦すら消し飛ぶ可能性がある。アヴァロンはトリステインを守護するうえで必要不可欠な要所だ。そんな重要拠点を、サイラス家の力を使って一時的とはいえ使用不能にするわけにはいかない。

 物流を止めず。アヴァロンの経済に大打撃を与えないよう今回の件を解決するには地道な人海戦術が必要だ。

 優秀な冒険者を雇うために領主は金を工面し、大々的に呼びかける。

 だがそんな領主の努力もむなしく集まってきたのは、あまりに場違いな下級冒険者ばかり。

 上級職の冒険者は見当たらず、いるのはぶかぶかの魔物の骨で出来た不格好な装備を身に着けた目つきの悪い冒険者。

 または錆びついた斧を必死に研いで、久しぶりの戦いに緊張している様子の冒険者もいる。皆、装備のランクを見ただけで実力はたかが知れている。

 それは単にアヴァロンの冒険者の質が悪いわけではない。

 むしろアヴァロンは大都市で、特異なフィールドに囲まれ、優秀な人材が集まりやすい。むしろ人材には恵まれている。ただ今回に限っては、あまりに多くの冒険者がこぞって参加を表明したため、頭割りの報酬が激減し、上級職の冒険者たちが次々に依頼を降りたのだ。

 今回の敵は強敵だ、雀の涙しかない報酬で命は賭けられない。リスクばかりで割に合わないと、そう思った実力者が一人減り、また一人減りと、最後には一人しか残らなかった。依頼を選り好みしない、報酬には興味がない。実力者でありながら人格者としても有名な冒険者。

 その冒険者の活躍を見るために、高みの見物を決め込むために集まった総勢三十名を超す推奨戦力を度外視した冒険者たち。

 上級冒険者たちとて街が破壊される事態ともなれば報酬がどうのと言っている場合ではない。ただ彼らにとっても最後に残った冒険者は信頼に足る人物だった。あいつが出るなら俺たちが危険を冒す必要はない……と。


 下級冒険者たちの前に十二匹のコボルトが姿を現した。コボルトが人前に、それも冒険者の前に堂々と現れるのは珍しい。

 それは巨獣の影響だった。普段は大人しいコボルトたちも、巨獣が後ろ盾とあって今回は強気だ。コボルトは脅威度が低いと言っても知能がないわけではない。自分たちの有利不利は冷静に判断できる現金な魔物だ。

 コボルトの相手は下級冒険者たちがする手はずになっている。下級冒険者たちはようやく出番が来たかと各々が武器を構える。

 彼らの狙いは初めから巨獣の取り巻きであるコボルトの討伐だ。ただ巨獣が率いるコボルトたちは、本来持っている野性的な本能を目覚めさせている。下級冒険者でも手古摺る相手だ。


 ぐらぐらと地面が揺れ、この作戦においての討伐対象、その元凶が現れた。

 百戦錬磨の冒険者たちですら恐れおののく緑の巨体。砦から合図を待つまでもなくその体躯を見れば誰もが理解する。只人が勝てる相手では到底ないと。

 街道を覆いつくすほどの影。

 そいつの名はトロールフォレスト。

 大木と見紛うこん棒を右手に持ち、数十人の冒険者を一度に吹き飛ばす怪力を持つ、動く森とまで称される巨人だ。


 トロールフォレストも本来ならコボルトと同じで普段は大人しい魔物だ。だがひとたび暴れ始めると近隣の村や集落を襲うカテゴリーBに分類される魔物だ。カテゴリーBとは上級冒険者が数人がかりで初めて相手となるほどの魔物で、下級冒険者では話にならない。

 下級冒険者たちが布陣を変え、コボルトの相手をしながらトロールフォレストだけを街道の先へと行かせる。


 互いに目配せしながら連携し、冒険者たちはトロールフォレストを見送った。

 トロールフォレストも、彼からすれば小さな虫と変わらない冒険者を気にも止めない。

 コボルトの群れが都市に向かうのは防げた。後は――下級冒険者たちの視線が向かう先には。


 普段は大人しいトロールフォレストがどうして砦に進攻してきたのか。人間が推し進める森林の伐採や開墾事業に怒り狂っているとの情報を聞き及んでいた冒険者は、それでも腰を屈め、居合斬りの態勢へ。

 冒険者はどちらかしか選べない。人間と魔物、意志の疎通の難しい方を切り捨てるしかない。己の無力さを実感しつつ左足を一歩前へ、袴から筋肉質な足が覗く。

 相手はトロールフォレストだ。下手に傷を負わせて怒り狂ったら手が付けられない。一撃で倒す必要がある。


 トロールフォレストの進行方向に立ち塞がった一人の男。西洋と日本の文化が融合した、彼がいた時代には考えられなかった近未来風の恰好。動きやすく設計された着物の上にオーダーメイドの装備を数点、そして刀を一振り。

 もちろん珍しい恰好なのでこの土地に住む人間にとっては目立つがトロールフォレストが気にする大きさではない。

 だから当然、障害物とすら見ておらずトロールフォレストは一切、速度を緩めず突き進む。

 迎え撃つ男が足に力を込めると筋肉質の腿に筋が入る。それは厳しい鍛錬によって培った人間の限界。

 親指で鍔を押し上げ鯉口を切ると、スーっと息を吐きだした。前方のトロールフォレストを睨みつける。


「おぬしに恨みはないが……ここを通すわけにはいかぬでござる」


 せめてもと弔いの言葉を口にし、なお止まらないトロールフォレストに向かって男は駆け出した。

 鯉口から覗いた刀身が黒く煌めく、だがそれが陽の光を浴びて赤く染まる。彼が使うのは赤椿と呼ばれる妖刀。まったく勢いを殺さず、男はトロールフォレストの脇を走り抜け――次の瞬間、刀を一閃させた。


「御免っ!! 」


 傍から見れば斬ったとすら見えない呆気ない幕切れだった。あまりの呆気なさに、それを見ていた者たちは何が起こったのかすらわからず放心している。誰かがごくっと喉を鳴らす。

 男が前傾姿勢だった上半身をゆっくりと起こした。鞘に戻しかけた刀を、少し抜かれた状態から、キン……と甲高い音を響かせて鞘に収めると。

 一陣の風が吹いた。そんな余韻をかき消しトロールフォレストは数歩ほど歩いたのちに膝をつく。トロールフォレストは自身の身に何が起こっているのかすら理解していなかっただろう。走っていたはずなのに足の力が抜けて倒れ込む。あまりにも早く命の灯火が尽きかけている、息が荒くなっているのはなぜか。

 トロールフォレストの肩口からすさまじい勢いで血しぶきがあがる。

 トロールフォレストはようやく自身が斬られたと気づく。

 巨体をぐらつかせ白目を剥き、地鳴りを響かせて倒れ込む。

 その音を聞きつけたコボルトたちがぎゃっぎゃぎゃっぎゃと騒ぎだし我先にと敗走を始めた。


 冒険者たちは山に逃げ帰っていくコボルトたちを見送って口々に歓声を上げた。互いに肩を叩き合って喜びを享受している。もしかしたら、よくわからないからこそ興奮しているかもしれない。

 だが侍は下級冒険者たちとは対照的に倒れたトロールフォレストに悲し気な視線を向けていた。トロールフォレストの傍に転がった巨大なこん棒が真っ二つになっている。

 トロールフォレストは森が壊され、住処を追われたから怒っていただけだ。ただ闇雲に人間の拠点を攻撃してきたわけではない。

 意思疎通のできない人間相手に、どうしていいかわからず暴挙に出るしかなかったのだ。

 その直向きさを想うと冒険者たちと一緒になって笑えなかった。果たしてどちらが悪いのだろう。栄華を極めたいと森を開拓する人間と、住処を追われる魔物、どちらも本能にしたがって生きているだけだ。どちらも足掻き、藻掻いているだけ。


 うまくいかないな。

 昔から相も変わらない、命を刈り取って物事を解決する。男の悩みはいつも同じだった。複雑な表情を浮かべたまま、アヴァロンへと踵を返す男の背中には哀愁が漂っていた。後ろで歓声を上げている冒険者たちとは対照的に。


 今は喜べる気分ではない。男の妻も半分は魔物の血が入っている。まったく無関係ではないからだ。

 男の妻もトロールフォレストと同じく昔から森に住んでいる古代種族として生きてきた。森がなくなれば生きていけない。彼らにとって自然はあるのが当たり前、だから今回の件を聞けば悲しむだろう。許しはしても、某が無事でよかったと心の底から喜べはしない。そんな優しい女性だから傍に置くと決めた。彼女の顔が曇るのは不本意だ。今回の仕事は満足のいく仕事ではなかった。


「南無三宝……」


 心の中でそう唱え、青く澄み渡る、なんとも皮肉な空を見上げた。

 青い空を眺めていると、不意にキュルル……と、なんとも間の抜けた音が響く。

 武士は食わねど高楊枝とはいかぬな……。男はしみじみ思ってほくそ笑む、 嫌な出来事があっても陰鬱な雰囲気を抱いていても腹の虫は関係なく鳴く。


 人は生きるために飯を食う、どんなときでも腹は減る。悲しい気持ちなんてなんでもないと笑い飛ばす。

 チャリン……男の腰に差した刀がなんとも涼し気に、男の葛藤に同情したのか、すがすがしい音を発した。



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