証明傷

無名

証明傷

 人生は有限であるから、それを如何にして豊かにしていこうかと悩むのは、人間にとっては当然のことだろう。実際、私もそれを思案している。

安積あさかさん、おはよう!」

 「安積」というのは、私のことだが、私は苗字で呼ばれることが好きではない。しかし、名前で呼ばれることのほうがもっと嫌いだ。だから、とりあえず「まあ、よし」として返事をしておこう。

「おはよう、芦原あしはらさん!」

 芦原はヘラヘラとうるさいものだから、それに合わせるのは疲れる。だが、私は作り笑いが得意であるから、彼女にとっては私のような造花も生花に見えるようだった。

「いやぁ、今日の英語の小テストだけど、全然勉強してないよー。安積さんはどう?」

「んー、いちおう先週やったところは復習したよ」

「ええっ!? そう言われると焦るなぁ……。ねえ、阿部あべ君は? やった?」

「あはは、実は俺もなーんもしてねえや!」

「だよねっ!!」

 どうやら関心は阿部に移ったようだ。ひとまず安心した。何しろ彼女は私に疲労しか与えないのだから。


 気付けば放課後。高等学校の授業というのは、どうしてこうもつまらないのだろうか。充実感を持って迎えた放課後など一度も経験したことがない。中学生の時分は、できる者とできない者の差が大き過ぎて、それを見ているのがとても愉快だった。

 まあ、それは過去のことであるから語るのも不毛だろう。現時点で語るべきは、未来のことだ。それ以外に意味は無い。

 人間は必ず死ぬ。私はおそらく人間だ。ゆえに、私もいずれは死にゆく……のか? 演繹によっても帰納によっても、私が死ぬことを証明するには、実際に私が死ぬ必要がある。とは言っても、「私が死んだこと」を「私が確認すること」は不可能だ。なぜなら、死んだ私が私の死を認識することはできないのだから。

 話がだいぶ逸れたが、私が言いたいのは、「限りある人生をどうやって充実させようか」ということだ。

 仕事や趣味などの生きがいを見出すことで、人生は豊かになると聞いたことがある。たしか、国語教師の我孫子あびこが言っていた。その考え方は正しいのだろう。そう思うが、私は高校生であるから働いているわけではない。趣味なども特に無い。

 しかし、このままでは無味乾燥なまま幕を下ろすことになるだろう。正直、私は満ち足りた心持ちでそれを迎えたいと常々思っている。

 そこで、実は先週から「あるルーチン」を設けた。ただの思いつきであっても、毎日繰り返すことで、そこに意味が伴うような気がしたからである。

「じゃ、始めよっか」

 ちなみに、この文句を口に出すこともルーチンに含まれる。

 出発点は、クラスメートが部活動へ向かい空になった教室。そこの黒板に白いチョークで任意の文字を一文字だけ書く。今日の文字は、「て」にしておこう。

 次は、あらかじめ用意してある手紙を自分の下足箱に入れる。この手紙は、毎朝登校する度に自分の手で回収する。

 次は、屋上へ向かい夕日を眺める。屋上は閉鎖されているのだが、私はその合鍵を持っている。以前、警備員が落としたものを拾い、それを返す前に合鍵を作成したのだ。とても「悪い子」になった気がして、ドキドキしたことを覚えている。

 夕日は昨日と同じ色のまま、私を迎え入れた。

 とりあえず、深呼吸をしてみる。

 そして、屋上の出入り口の方へと振り返る。

「誰かいますか?」

 昨日と同じように問い掛けるが、誰からの返事も無い。

 次は、スカートのポケットからカッターナイフを取り出す。

 次は、その刃を左手首に当てる。

 次は、それを手前に引く。

 次は、流れる血を眺める。

 いつもなら、次に止血してルーチンは完了する。

 だが、今日だけは続きを用意してあるのだ。

 上履きを脱ぎ、それを綺麗に揃え置く。そして、夕日の方へと歩き出す。

 次は、

「安積さんっ!!」

 私を呼ぶ声。それは、勢いよく開け放たれた屋上の出入り口から聞こえた。

「……芦原さん?」

 そこには芦原が息を荒くして立っていた。

「安積さん、待って! 死なないで!!」

「…………」

 私はただただ彼女の上下する肩を見つめていた。

「安積さんが黒板に文字を書いてたの、知ってたよ。部活が終わってからね、教室に忘れ物を取りに行ったときに気付いたの。なんとなく、次の日も見に行ったら別の文字が書いてあってね。それを書いてるのが安積さんだって知ったのは、おととい。今日はさすがに気になってこっそり追いかけたの。それでね、下駄箱の手紙、読んじゃって、もしかしてって思って……!!」

「そっか、読んじゃったんだ。そうなんだ……」

 気付いていたのか。それに、遺書も読んだらしい。どうやら、予定調和となったようだ。そう、これは予想出来ていた展開なのだ。

「安積さんは、待ってたんでしょ? だって、『わたしをすくって』って、書いたでしょ?」

 予想に難くない展開なのに、なぜだか涙が止まらない。いや、理由はわかっているのだ。だが、いざ現実となった瞬間に張り詰めていたものが解けてしまったようだ。

「ありがとう、芦原。おそらく君が私の『意味』であり、『充実』を与えてくれる存在なんだ」

「リスカ……」

 私は自分の左手首を見たが、彼女がこの傷を指してその言葉を口にしたわけではなかった。私の名を呼んだのだ。

 「安積」という苗字は、「浅はか」に似ていて嫌いだったし、「リスカ」という名は、「リストカット」の略称と同じで疎ましかった。

 自暴自棄になり、名を体で現す結果となった。

 だが、私はこの結果に満足できた。

「さよなら、芦原」

 そのとき私は、私の最期を認識する役目を彼女に任せてもいいと思えた。

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証明傷 無名 @kei304

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