ニヒルクラブ

無名

ニヒルクラブ

「君は生きることに対してもう少し懐疑的になったほうがいいかもね」

 そう口火を切ったのは、窓際にたたずむレナだった。

「懐疑的に、ですか? うーん……」

 放課後。夕日の差し込む教室にはレナとタカヤ以外の人間はおらず、二人の会話以外には校庭からの部活の喧騒と音楽室からの吹奏楽部の演奏音だけが存在していた。

 さほど興味もなさそうな表情で椅子に座るタカヤは、レナの提案にいちおうは耳を傾けた。

「ふむ、君には少々難しかったか。そうだな……、君にとって生きることとはなんだい? まずはそこから始めよう」

「そうですねぇ……。飯食ったり、授業受けたり、先輩とこうやっておしゃべりすることですかね?」

「ははは、実に君らしい答えだな」

 生きることとは何か、という問い自体に明確な答えはないが、レナは元より答えなど求めていない。ただ、それを思案するという過程に意味を見出しているのだ。

「先輩はどう思ってるんですか?」

「私か? 私は生きることとは欲求との闘いだと考えているよ」

「欲求ですか」

「そうだ。食欲、睡眠欲、性欲、金銭欲に知識欲……。それら様々な欲求との闘いだ」

「面倒ですね、闘うの」

 本当に面倒に思っているのだろうか。そう思えるほどにレナにとって彼の声は果てしなく無関心であるように響いた。だが、レナはなるべく平静を保ったまま話を続けようと努めた。

「ああ、面倒だ。しかし、この面倒臭さの根幹にあるものは一体何だと思う?」

 根幹、つまりは何故それを面倒だと感じるのかという原因。そんなものは分かり切っているが、科学では明確に証明することができていない、解らないものでもある。つまりは、

「心ってやつですかね」

「いかにも。心、感情があるから闘いは複雑化する。それがなければ、私たちは本当に忠実に、それこそ世界が求める『自由』の中に生きられるのではないか?」

「そうですね。欲求の解消には当然、手段を伴いますけど、心が無いならそれを選択するという過程を無視することが可能ですし、結果的に僕らは単純化され、何も考えずに生を享受するだけの存在になれる」

 食いついた。

 彼が能動的に饒舌じょうぜつになるということ。それは彼のわずかな好奇心を揺さぶることに成功したことを示す最も分かりやすいシグナルである。

 レナは少しだけ笑みを宿して彼との「会話」を始めた。

「うん、やはり君もそう思うか。では、ここで少し質問を変えよう。君が生きる理由とはなんだい?」

「特にないです」

 即答だった。

「ほう。実は私も生きることに対する明確な理由など持ち合わせていないんだ。おそらく、君や私と同意見の者たちは他にもたくさんいるのだろう。そういった点では、既に私たちは単純化されているのかも知れない」

「へぇー。じゃあ、ちなみに先輩にとって死ぬことってなんですか?」

「死、か……。これは実際に死を体験しなくてはわからないことなのだが、仮にそれを無だとした上での個人的な見解としては、それは究極の自由だな」

「『究極の自由』ですか。言いたいことは大体分かりますよ。生きながらに『自由』を獲得するならば、心を捨て去らなくてはならない。しかし、僕ら人間にとってそれは不可能なことです。『人間は考える葦である』というように、人間は思考する生き物。思考など本能を遮る可能性を持つノイズでしかないのに。だが、死を迎えた瞬間、無へと到達した瞬間に『自由』は無条件で僕らに与えられる。そういうことですよね?」

「ああ、そうだ。まあ、このヘタクソな演奏音が私たちの会話に水を差しているような感じだな。……はっ、我ながらくだらない例えだな」

自嘲の後、会話は数秒途切れた。

心は生きるためには不要。レナの考えにタカヤも同調するかのように、その空間は茜色に溶けていた。

レナは彼の無感情な、それこそ心を欠いたような瞳をじっと見つめていた。

 そして、沈黙を崩さぬまま、レナはタカヤに口づけをした。

「なあ、私とセックスしたいか?」

「いや、昨日したじゃないですか」

「またしたいとは思わないのか?」

「うーん……」

「曖昧な態度はとらなくていい。したいか否か、だ」

「したくないです」

「それは何故だ?」

「…………」

「黙るな」

「いずれ分かると思います」

「いずれ?」

「はい。近いうちに」

 ああ、なんて素晴らしい人間なのだろう。

 レナは彼をそう評した。彼は本当に同じ人間なのかと思うほどに、「自由」の近くを歩いている。周囲には奇異に映るだけかも知れないが、レナは彼のずれた本能に惹かれていた。

 性欲とは人間の三大欲求にも数えられる抑止しがたい感情だ。だが、タカヤは違った。抑止など必要としない、本能がそれ自体を否定するのだ。

「やはり、君はおもしろいよ。昨日は私が無理を言って性行為に及んだわけだが、正直に言うと、君はそれをきっかけに人間らしくなってしまうんじゃないかと心配したよ」

「はあ。快楽は得られましたが、セックスの本質とは異なりましたよね?」

「というと?」

「そのままですよ。あれは快楽を目的としたただの遊戯に近かった。子を産むための過程とは異なった」

「たしかにな。避妊具を使用したわけだし。子孫繁栄、種の保存とは生物の最終的目標であるはずだが、人間はなぜこうも面倒なプログラムを植え付けられているのだろう」

「それは、恋愛感情を指しているんですか?」

「もちろん。それさえなければ、日本は少子高齢化という事態に見舞われなかったのではないか? いや、男女共同参画社会化も一因と言えるが」

「先輩、僕はあなたに一度救われているんですよ」

 唐突だった。

 実はレナとタカヤの出会いというのは、タカヤが放課後の教室で首を吊って自殺しようとしたのを助けたことから始まったのだ。

「急にどうした?」

「何故、助けたんですか?」

「それは、咄嗟とっさにそうしなくてはと思ったんだ」

「それは何故ですか?」

「…………」

「いえ、先輩以外の人間であっても、同じことをしたと思いますよ。ただ、僕が同調できそうな考えの持ち主が、なぜ『究極の自由』への旅立ちを祝おうとしてくれなかったのかと、少々疑問に思っただけです」

「そ、それは……」

「今日はもう解散にしましょう」

 レナの答えを追求することなく、タカヤは会話に終止符を打った。

「先輩、さよなら」

「あ、ああ。またな」

 ひとり教室に残されたレナは、ノイズの中でしばらく動くことができなかった。


 翌朝。

 タカヤは自殺した。

 校庭の真ん中で焼身自殺を図ったらしい。

 校内は激しくざわめいていた。悲鳴のような、狂気を帯びた声が飛び交っていた。

 生徒たちは各自の教室で待機するように言われていたが、もちろん誰一人として落ち着いてなどいなかった。

 レナは、窓際で校庭を眺めている生徒たちの群れを離れ、廊下にうずくまっていた。

佐久間さくまさん、これ……」

 すると、担任教師が現れ、「佐久間レナ先輩へ」と書かれた封筒をレナへと手渡した。宛名の文字は何故かすべて定規を使って書かれており、それが無機質さを増し、中身を読む前にこれはタカヤからの手紙なのだと理解できた。

 丁寧に糊付けされた封筒を開けると、中からA4紙が一枚出てきた。そこには、ワープロソフトで作成された彼からの最期の言葉が横書きでずらずらと綴られていた。

 手紙にはこうあった。



 レナ先輩へ

 僕は先輩の心を理解してしまいました。あなたは紛うことなき人間でした。正直に言いましょう、先輩と僕は決して交わらないのだと思います。肉体面においても、精神面においても、です。あなたは人間には心など不要だと言いました。僕もそう思います。しかし、先輩は「自由」には程遠い人間でした。すいません、本当は先輩が無意識のうちに演技をしていたことに気付いていました。なんだかんだと言っていましたが、先輩は詰まるところ人間であることに満足していたのでしょう? だから、僕を愛してしまったことにも割と忠実だったのでしょう。気持ちよかったですか? よかったのなら幸いです。実はあの行為の後、僕は帰宅してからすぐに妹を犯してみたんです。避妊具は使用せず、彼女の膣内で射精しました。だって、そこが人間にとっての最終目標でしょう? ですが、僕はそれをほぼ達成したにも関わらず、人間であるという実感が湧きませんでした。どうやら僕は限りなく「自由」に近い存在だったようです。しかし、0と1、つまり無と有は決定的に違うのです。限りない0でも、決して無ではないのです。なので、やはり僕は死をもって人間をやめてみたいと思ったんです。そうすることで、やはり僕は完全なる無へと到達できるのですから。言うなれば、これが僕の最後の「人間らしさ」です。

 先輩、あなたは生きるべきなのだと思います。僕は死を選ぶことで満足しますが、先輩は違うのでしょう。できれば、一緒に逝きたかったのですが、残念です。先輩にも、「自由」を反芻はんすうしてほしかったです。僕だけが得てよいものなのかと、思案していたのです。

 それでは、さようなら。


 追伸

 焼身自殺を選択した理由は、最期の感覚を激しいものとして味わいたかったからです。

 それから、僕の筆跡が残ることを避けたのは、先輩が避妊具を僕に付けたのと似たような理由です。

 これで、本当に終わりです。

 さようなら。



「うっ……うう……っ!」

 泣いたのはいつぶりだろうか。レナは担任教師の前だろうと躊躇うことはなかった。

 レナは悲しみに忠実だった。

「たぁ、タカヤぁ……!! あぁ……っ」

 決して二人が交わらないこと。そんなことは分かっていたことだが、レナは愚かだった。

 人間であることに懐疑的だったレナは、心を排した世界を望んだ。しかし、タカヤはレナが完全なる人間であることを知っていた。

 レナは表面的には彼と似ていたが、本質はひどく違っていた。いや、表面上は彼に似せようと装っていたのだ。

「タカヤぁ……私は、き、君が……君のことが……」

 性善説や性悪説というものがある。

 人それぞれに見解は異なるが、レナはこの日、人は潜在的に、あるいは先天的に善なのだと感じた。

「……大好きだったんだ」

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ニヒルクラブ 無名 @kei304

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