第9話 「……味見はしたんだろ?」

「……ねえ光輔くん。わたしって料理上手くなった?」

 ちょっと落ち込んでいるのか、俯いた沙織に聞かれた。

 僕は言葉を詰まらせた。それこそ、言えるわけがない。大学時代の沙織は自分に料理の才能が無いなんて信じられず、何度もチャレンジをしては僕の胃を破壊したのだ。その結果、僕が料理全般を請け負うようになったのだけど、今、真実を言えば、きっと彼女は料理を諦めてしまうのではないか。そうなると、更に彼女の世界は変わってしまう。

「えー。そんな顔されたら聞かなくてもわかるしー。ダメダメってことかぁ」

 僕が答えに窮しているのを見て、沙織は答えを察してしまった。

「いや、でも……未来は変えられるんじゃないか?」

 苦し紛れの言葉だった。でも、その言葉が自分の口から出たことで、ハッとした。

 そんなことをしたらこの世界は消えてしまうかもしれない。僕にとっては沙織のいない世界なんて色も味気もない世界だけれど、だからといってこの世界が消えてなくなってしまってもいいなんて、そんなことは思えない。

 職場の仲間や再婚して幸せに暮らしている父や義母、雫ちゃんや沙織のお母さんの顔が浮かぶ。

「ま、あんまり未来は変えちゃいけないみたいなんだけどね……」

 でも、料理が上手くなったくらいで未来は変わるだろうか。そのくらいなら誰に迷惑がかかるわけでもないし大丈夫ではないかな。

 わからないけど、自分の意思でもなくこんな未来に飛ばされてしまった沙織に少しくらい得をさせてやったって罰は当たらないのではないか。でも、肝心のタイタンからはいまだにメールは返ってこないし。どうしたらいいのだろう。


「おまたせしましたー。カレールウありましたー」

 雫ちゃんの声で思考は中断された。

 カレールウ片手に雫ちゃんが戻ってきた。

「では、カレーを作りますよー。でもあんまり煮込む時間ないから簡易的な奴ですけど」

「あ、わたしがやるっ! 」

 鍋を持とうとした雫ちゃんを遮り、沙織が立ち上がった。

「じゃ、一緒に作ろっか」

 雫ちゃんの指示を受けて沙織はキッチンに立った。二人でならんで野菜を切っている。狭いキッチンだからやりにくそうだけど、二人が並んでいる後ろ姿を見ると少しうるっときた。

「とはいえ、多少は煮込まないとね。テレビでも見てよっか」

 雫ちゃんがテレビのリモコンを取りスイッチをいれた。他愛のないバラエティ番組が写し出される。沙織にとっては知らない芸能人だらけだろう。

 三人でテレビを眺めているとどこかで携帯電話のバイブが鳴っているのに気づいた。

 そうだ、鞄のなかにいれっぱなしにしていた携帯電話だ。急いですぐに鞄をつかみ中を確認した。

 よかった、連絡が取れなくなっていたタイタンからのメールだ。

「ちょっと、仕事の連絡が入ったから、二人で話しててよ」

 立ち上がり玄関に出た。急いで携帯電話を開く。


『緊急事態です。すぐに返信をください。すでに彼女は目覚めてしまっていますね。』


 慌てた様子の文面だった。

『ああ。ここが未来だということもばれちゃったよ。てか話が違うぞ。起きないって言ってたじゃないか』

『申し訳ございません。本来あり得ない事態なのですが……。もし仮に万が一に、という事態が起こってしまいました。起こってしまったことは仕方がありません。こちらでも、状況は把握しておりまして、緊急対応として「大いなる意志」は忠実なる僕を使役しそちらの世界を我々から限定的に同期解除の処置を行っておりました。

 それにともない連絡ができない時間帯が続いたことを謝罪します。

 これまではそちらの世界の出来事をある程度広域な時間軸……要するに未来も過去も大まかに把握できていたのですが、現在は「パンクチュアル」な時間でしかそちらの世界に干渉できなくなってしまっています。そちらの世界の未来が我々にも観測できない状況です。』

『そっちの都合はよくわからないけど、僕はどうしたらいいんだ。彼女は一ヶ月で元の世界に戻れるんだろうな。』

『はい。一ヶ月で元の世界に戻ることに関しては変更はありません。ですが、彼女自身の未来や、現時点で彼女が知ることのない彼女の情報を開示することは避けてください。彼女の精神や身体の状態が転移時と大きく変わってしまい歴史を変えるようなことになれば、時空が崩壊するかもしれません。』

『ちょっとまってくれ。沙織は髪の毛を切って色も染めちゃったし、大学生で初めて知る料理の才能の無さも知っちゃったんだけど……。もしかして、やばい感じ?』

『いえ、その程度の変化ならば、まだ誤差範囲です。例えば、四肢を切断するレベルの状態変化を起こせば、あなたの知っている流川沙織の歴史に矛盾が生まれてしまいます。そうなった場合は過去と未来が繋がらなくなってしまい、行き場をなくした時間のエネルギーが膨張し破裂し宇宙が破壊されてしまう可能性が増します。』


宇宙が壊れる?

それってやばいんじゃないか。


『ですが、現状ではそのような事態になる可能性は極めて低いと「大いなる意志」は予測を立てていますので、あまり神経質にはならなくても大丈夫です。ただ、今回、目覚めるはずがないはずの彼女が目覚めてしまったように、「大いなる意志」にとっても予想外の出来事が起こらないという保証はできません。ですので、流川沙織の状態には目を光らせておいてください。不安な点も多いでしょうが、よろしくお願いします。』


 よろしくって言われても困るんだけど。

 携帯電話を見つめたまま、しばらく動けなかった。

 誰にも打ち明けられない不安を抱え、アパートの廊下で、ひとり冷たい夜風に身を震わせる。

 五月とはいえ、まだ夜は冷える日もある。いつまでも外にもいられない。

 大きく吐いて、両腕をさすりながら部屋に戻った。


「遅かったねー」

 何も知らない沙織が僕を見て言った。堅くなりかけていた表情を無理やり解き食卓に戻った。

「深刻な顔ですけど、なにか問題でもあったんですか」

 鍋をかき混ぜていた雫ちゃんが僕の顔色を見て心配そうな顔をした。

「いや、大したことないよ。それより、そろそろカレーが形になったんじゃないか」

 煮込んだカレーは、雫ちゃんがほとんど作っただけあって美味しそうだった。

 僕がホッとしながら言うと、沙織は不満げに目を細めた。

「むう、絶対にここにいる間に光輔くんのほっぺたを落とすくらいの美味しいもの作ってやるんだから」

 余計なことを言ったせいで沙織の負けず嫌いなハートに火をつけてしまった。



 ☆


「料理初心者はまずはカレーでしょ!」


 次の日、仕事を終えアパートに帰ると待っていたのはまたしてもカレーだった。

「昨日、食べたじゃん」

「あれは雫が作ったんだもん。今日はわたしが作ったカレーだよっ。さ、召し上がれ」

「気合いが入っているのはわかったけど、着替えくらいさせてくれ」

 キッチンの鍋を横目で確認しつつクローゼットに向かった僕は沙織の視界から外れたところでため息をついた。

 これじゃ、大学時代の焼き直しだ。昔とおんなじ流れになっている。

 自分に料理の才能がないことに愕然とした沙織はなんとか上手くなろうと毎日のように料理に挑戦した。料理本を買い漁り、色々な料理にチャレンジした。けれど、腕はいっこうに上がらなかった。

 今の状況はあの時のそれとほぼ同じだ。努力家の沙織らしい行動だけど、それに対応しなきゃいけないのはなかなか辛いぞ。

 たしか昔も肉じゃがで失敗した次にカレーを作ったと思う。カレーなんて市販のルウを使えば誰が作ったって、食べられるものになるはずなのに、これが不味いものに仕上がるのだから才能だ。

 胃腸薬を買ってきてよかった。ジャケットの内ポケットから瓶入りの胃腸薬を取りだした。食べる前に飲む。コレ重要。

「そうだ、雫も呼んでるから。もうすぐ来ると思うよ。あの子に美味しいって言わせないと姉としてのプライドが許さないんだよねー」

 雫ちゃんも大変だなぁ。

 雫ちゃんは沙織の手料理なんか食べたことがなかったと思うけど、まさかこうして時を越えて姉の地獄料理を味わうことになるとはね。

 もちろん、僕の家にいる女子大生もどきが過去からやって来た自分の姉だとは気づいていないけれど。


「むむむ。なるほど。見た目はカレーカレーしてるね。でも、さやかちゃん。問題は味よ!」

 部屋に来た雫ちゃんは沙織特製カレーをにらむように唸った。

「……味見はしたんだろ?」

「あ、忘れた。でも、カレーだよ? 大丈夫でしょ!」

 だからなんで味見をしないんだよ。雫ちゃんと顔を見合わせて躊躇してしまう。

「ともかく食べてみてよ。きっと大丈夫だよ。カレーなんて小学生だって作れるもん」

 味見もしないでよくそんなことを言えたものだ。

「まったく、こんなに緊張感のある食事も久しぶりだな」

 テーブルの上に並んだカレーライスを見て、ごくりと唾を飲む。

「せーので、食べましょ。せーので」

 雫ちゃんも昨日のことがあったので及び腰だ。

「……わたしの料理は罰ゲームなの?」

 ちょっと不満そうな沙織がぶつぶつ言ってるが、その通りで罰ゲームみたいなものだ。

「いくぞ、せーのっ」

 三人同時にスプーンを口に運び……

「ぐえ!!」「んぐ!!」「づわ!!」

 三者三様の悲鳴をあげてひっくり返った。

 じたばたと数分のあいだ悶えて、ようやくおきあがった三人だが、全員が涙目であった。

「し、死ぬかと思った」

「さやかちゃんの腕前は本物だね。地獄の料理人の称号を与えたくなっちゃう」

「うう、反論したいけど、できない……」

 さすがに二日連続で地獄のような料理を作ってしまったので、沙織も意気消沈だ。でも、なんだかおかしくなってきて、みんなで笑った。

「ま、人には向き不向きがあるからさ、あんまり気にしないでいいよ。僕も昔付き合ってた彼女が料理が苦手でさ。でも、そのおかげで僕が料理を作るようになって、けっこう料理好きになったんだよ。だから、気にしないでいいよ」

 ひとしきり笑ったあとで、落ち込む沙織の肩に手を置いて、慰めの言葉をかける。タイタンのメールの通り、あまりショックを与えないようにと考えての発言だったけど、

「うー。でも嫌だ。絶対にできるようになってやる」

 沙織は確固とした決意で顔をあげた。

「雫さん! 恥を忍んであなたにおねがいするわ! 料理を教えて!」

「え、ええ。いいけれど……」

 うなずいた雫ちゃんだったけど、「なんで恥を忍ぶ必要が?」と僕に訊いてきた。

「き、聞き間違いだよ。さあそれより、もうこのカレーはダメだから、もったいないけれど厳重に密封して破棄することにして、今日はピザでも取ろう」

 なんとかはぐらかして、その日は出前をとることにした。

 沙織は雫ちゃんの仕事の予定を聞いて次の土曜日に一緒に料理をする約束をした。

 ひとまず、食事は僕が作るか何か惣菜を買ってくることにして、今週いっぱいはもう沙織の料理を食べなくていいことにした。ひと安心だった。


「あーあ。ショックだなぁ。まさか雫がわたしより料理ができるようになってるなんて」

 雫ちゃんが部屋に帰ったあと、シャワーを浴びた沙織が髪の毛を乾かしながら呟いた。

「仕方ないよ。雫ちゃんだってもう社会人なんだから。今の沙織より年上だぞ。そりゃ料理くらいできるようになるだろ」

「でも、あの子、包丁で指を切ってから刃物を怖がるようになって、全然お母さんの手伝いもしないんだよ。そんななのに未来ではわたしに料理を教えようなんて。姉としては複雑だよー」

「それ小学生時代の話だろ。人は成長するもんだよ」

「うー、そうだけどー。雫も大人になるんだね。あ。大人ってことは、彼氏とかいるの? 手料理とか振る舞ってんのかな?」

「恋人ねぇ……。そういえば聞いたことないなぁ」

「いるんなら顔とか見てみたいものだけど。そもそも、なんで光輔くんちの隣に雫が住んでるの?」

「ああ、雫ちゃんが大学生になるって時にたまたま空いていた隣の部屋に引っ越してきたんだよ」

「わざわざ光輔くんちの隣に?」

「知り合いが近くにいた方が安心だと思ったんじゃない? お母さんと一緒に挨拶に来たもん」

「お母さんと一緒に? わたしじゃなくて?」

「あ、いや……もちろん沙織もいたさ」

 危ない。気をつけているつもりでも、ボロが出そうになる。もうその時には沙織はこの世にいなかったのだ。

「ふーん。まあ光輔くんなら安心ってのもわかるけどね。なんか人畜無害な感じだもんね」

 会社でもよく言われる。

「ふん、どうせ草食系男子だよ」

「草食系? 何それ」

「え。ああ、草食系って言葉、僕たちが高校の頃ってなかったっけ?」

「ベジタリアンなの?」

「違うよ。えっと、草食系ってのはさ……」

 ぽかんとする沙織に草食系男子のなんたるかを説明しようとしたが、うまく口で説明できないので、スマホを取り出してWikipediaに頼った。

「新世代の優しい男性のことで、恋愛をガツガツ求めたりせずに、心が優しく、男らしさに縛られず、って意味で草食系って名付けられたらしいけど、マスコミとか広告代理店にネガティブな意味で使われてそっちの方が広まっちゃったんだってさ。あ、やっぱり2006年に初めて使われて2009年に流行語大賞にノミネートされたって書いてあるな。ってことは沙織の時代にはまだ出たばっかの言葉だったんだね」

「そのスマホってやつ、なんでも調べられるの?」

「Wikipediaだよ。僕たちが高校の時くらいからなかったっけ?」

「あ、Wikipediaはあるよ。ふふふ。面白いね。新しいものもあれば今のままのものもあるんだね」

「まあそうだよね、料理ができるようになる人がいれば、全然上達しないままの人もいるからな」

「あー、それわたしのこと? 絶対うまくなってやるから。歴史、変えちゃうもんねっ!」

 沙織はふふふと笑った。

「まったく、気楽なもんだよな。あんまり未来のことを知ったりすると、歴史が変わって、大変なことになるかもしれないんだぞ」

 タイタンから注意されたことを指摘するも、沙織はけろっとしている。

「そんときゃそんとき!」

 あきれながらも羨ましい気持ちだ。もし、交通事故で死んだのが沙織ではなくて僕だったら、きっと沙織は悲しむだけ悲しむだろうけど、いつまでも恋人の死を引きずったりしないのだろうな。


「せっかく未来に来たんだもん。もうそろそろ家にいるのも飽きたよ。外を色々見て回りたいよー。光輔くん。明日、仕事早く終わんないかな?」

「いやいや、だから今言ったろ。あんまりこの時代のものに触れない方がいいって」

 昨日、タイタンからのメールでも言われている。あまり刺激を与えるな、と。自身の未来を知って精神的なショックを受けたり、この世界で大怪我なんかしたら、宇宙に新たな歪みができて、宇宙が崩壊するかもしれないのだ。随分と乱暴な話ではあるが、そうならないためには、できるだけ沙織には大人しくしてもらいたい。

「なによー、ビビりなんだからー。いいよ。じゃあ雫を誘うもん」

「雫ちゃんを? それはダメだ」

 それはまずい。なにも知らない雫ちゃんだ。沙織の未来について話してしまう可能性は無いと言えない。

「なんでよー。いいでしょ姉妹なんだから。それがダメっていうなら、光輔くんが付き合ってよね」

 僕は彼女のためを思っていっているのに。なぜ責められなければいけないのだ。

「ねえ。いいでしょ。そんなにわがままは言わないからぁ」

 今度は猫なで声で甘えてくる。まったく、彼女には敵わない。

 僕は渋々了承するしかなった。

「わかったよ。でも、平日は忙しいよ。土日にしてくれよ」

「はーい。わっかりましたー。じゃ、あと休みになるまでは家でのんびりしてることにするよ」

「そうしてくれ。パソコンとかテレビとか自由に見てていいから」


 なんとか宥めて静かにしてもらうことにした。

「まったく、若い沙織といると疲れるよ」

……なんて、本当は嬉しかったりするのに。

 そんなやりとりをしていると、タイタンからメールが来た。

 本来目覚めるはずがない沙織が目覚めてしまったことで、新たに大きな揺らぎが時空に発生したらしいのだが、それは『大いなる意志の僕』とやらによって対策は取られたという。その報告だった。

 だが、時空は不安定になっていて、再びイレギュラーが起こらない可能性がないとも言えず、状況を注視しなければならないという。

沙織になにか変化があれば連絡をして欲しいと言われた。



 ……が、そう言われてもなあ。

 朝になり、穏やかな五月の青空を見ながら出社していると、宇宙規模で大変なことが起きているなんて実感はないし危機感も持てなかった。

 注視しろと言われても、つきっきりで彼女を見ているわけにもいかないし、平日は会社にいかなければならない。

 沙織は好奇心旺盛な猫みたいな女の子だ。未来の世界に来たとなったら、黙って部屋にいるような子じゃない。最初の一日二日は髪を切るくらいで遠出はせずに部屋にいたが、もうどこかに遊びにいきたくて仕方がないようだ。

 

 このままじゃ、ふらっとどこかに行ってそのまま消えてしまいそうで怖かった。

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