第8話 「じ、地獄ですかコレっ!?」

「おかえりー!」


 扉を開けると女の子が元気よく僕を迎えてくれたが、それが一瞬、誰だかわからなくて面食らった。

「ああ、びっくりした。沙織か。誰かと思ったよ。ずいぶんイメージ変わったな」

 沙織は長かった髪をミディアムボブにして明るい茶色に変えていた。服装もどこで揃えたのか清楚系の淡い色のワンピースだった。最近の「なんとか坂」系のアイドルみたいだった。メイクも今風に変わっている。ここまで大きくメイクやら髪型やらが変わると、印象が全然違う。

「どうかな。似合う? 卒業したら染めてみようと思ってたんだけど、いい機会になったよー」

 鏡の前でくるくると回って髪型や服装をチェックしている。なかなか気に入っているようだ。確かに似合っている。沙織はずっと黒髪のイメージだったから、こうして髪の色を変えているのを見るのは新鮮だった。


 ……あっ、でも、なんか一回だけ染めた時あったなぁ。


 鏡の前で嬉しそうにしている沙織を見ていて僕は不意に思い出した。卒業式を間近に控えた頃、沙織がなんの前触れもなく髪を切ったことがあった。自慢の黒髪ストレートヘアを明るい色に染めてバッサリと切ったのだ。あまりに突然だったので周りの友人も僕もびっくりしたのを覚えている。

 あの時の沙織は髪型を変えた理由は特にないと言っていたが、周囲の評判はあまりよくなかったみたいで、その後はまた髪を伸ばして元どおりのストレートヘアになり髪を染めることもなかった。

 だから、本人的にもあのイメチェンは失敗だったと、思い出したくない過去にでもなっているのだと思って触れないようにしていた。そして、僕もそのままその出来事は忘れてしまっていた。

 だけど、目の前で新しい髪型に浮かれている沙織を見て記憶は一気に蘇った。

 あの時の沙織の髪型は目の前の沙織と同じ形だったのだろうか。

 もしかしたら、僕の世界の沙織も、あの時、どこか知らない未来に飛んでいて、そこで未来の僕に会って、同じように髪型を変えざるを得ない状況に陥っていたのかもしれない。……真実はわからないけれど。


「どうしたの? やっぱり変かな?」

 僕は慌てて表情を緩める。

「いや、全然! 似合ってるよ」

「やった! 光輔くんに言われるのが一番嬉しいっ」

「おじさんだけどな」

 ボソリと呟くと沙織は甘えた声ですり寄ってきた。

「でも、大人の光輔くんもカッコイイよ」

「いいよ、そういうのやめてくれ」

 腕に絡み付こうとする沙織を振り払う。

「あー照れてるー。照れ屋なところは変わんないんだね」

 からかってくる沙織を無視して、スーツのネクタイを緩めながらクローゼットに向かう。

 その時、独特な匂いが鼻についた。キッチンの方からだ。

「それよりさ。この匂いって何?」

「あ、ようやく気がついた? えっへん。できる女だからね。夕食を作って未来の彼氏の帰りを待っていたのだよー。ささ、早く着替えて食べよ!」


 夕食を?

 沙織が?

 目線をキッチンに移すと、鍋がコンロの上に置かれていて野菜の皮が流し台に散乱している。独特な匂いはあの鍋から湧き出している。

「う……」

 そうだ。この頃の沙織はまだ自分が料理ができないことを知らないのだ。

「ちなみに、何を作ってくれたの?」

「肉じゃが!」


 ……うわぁ来たよ。ピクっと眉が痙攣したが、そしらぬ顔でジャケットを脱ぐ。


「元の世界でさ、僕に手料理を振る舞ったことあったっけ?」

「え? まだないよー。チョコクッキーくらいならバレンタインにあげたけどね」

 ああ、そうだった。クッキーね……。

 思い出す高校三年生の二月のこと。初めての彼女からもらった手作りクッキーはおそろしく硬かった。前歯がかけて冬の風が滲みたのを覚えている。

 そうなのだ。沙織は勉強も運動も楽器もできるし明るくて社交的で、欠点なんかなさそうなのだが、一つだけ苦手なものがあったのだ。それが何を隠そう料理なのだ。


 でも。それは大学に入って半同棲になってから判明する事項だ。高校生の時の沙織は自分の殺人的料理テクニックの才能を自覚していない。

 僕はどうすべきか。命の危険を顧みず美味しいふりをして食べるべきか。それとも、大学時代に言ったように、君は料理の才能が皆無だからキッチンには立たないでくれと伝えるべきか。僕は悩みながら服を脱ぐ。

 僕の記憶が正しければ、初めて沙織が肉じゃがを作ってくれたのは大学入学直後だった。僕は初めての彼女の手料理に喜び、大口を開けて肉じゃがを頬張り、その地獄を煮詰めたような出来栄えに悶絶し、でも笑顔の彼女の眼差しを裏切れず「美味しい」と嘘をつき、全てをたいらげ、体調を崩し、寝込み、一週間で五キロ痩せたのだ。

 その後、何度か沙織は料理にチャレンジしたが、その度に僕は体調を崩した。結果、料理の一切を僕が担当することになったのだが、そんな過去を思うと悩んでしまう。


 料理の才能がないことは早めに伝えたほうが良いのだが、ここで沙織に自分の才能が絶望的なことを気づかれてしまうと、歴史が変わってしまうかもしれない。それは多分よくないことだ。

 こまった。

 どうしたものか。

 こんな些細なことで過去を変えてしまうかもしれない決断を迫られるとは思わなかった。なぜタイタンはメールを返してくれないのだろう。


「ちなみに……味見とかした?」

 恐る恐る聞いてみる。

「あ、そういえばしてないや。でも大丈夫だと思うよ。早く着替えてよー」

 なぜ味見をしないのだ。それが原因だ。根本的に楽天家なのだこの娘は。それで痛い目にあったし、救われたこともあったけど。

 どうしよう。

 着替えるのも自然に遅くなるが、これは本能が忌避したがっているのか。

 もぞもぞ着替えていると、玄関からインターホンが鳴った。

「あ、光輔くん。なんか来たよ。わたし出ようか?」

「いや、僕が出るよ。沙織はちょっと奥の部屋にいてよ」

 沙織が首を伸ばして訊いてきたけど断った。誰かに沙織の姿を見られて面倒なことになるのは避けたかった。急いで着替えて玄関に行く。

 こんな時間に誰だろう。

 少しだけ警戒しつつ覗き穴を覗くと、廊下に立っていたのは隣の部屋の雫ちゃんだった。

 なんだ、雫ちゃんか。わざわざチャイムを鳴らすなんてどういう風の吹き回しだろう。いつもはどかどかと勝手に入ってくるのに。

 ホッとしながら扉を開けると、雫ちゃんは珍しくスカートなんか履いて背筋を伸ばしていた。

「光輔さん。こんばんはっ。えっと、さやかちゃんいます?」

 さやかって誰だっけと一瞬思ったが、沙織が昨日名乗った名前だとすぐに思い出して慌てて頷いた。

「いるよ、どうしたの?」

「あの、光輔さんって買い食いばっかじゃないですか。さやかちゃんは若いんだからちゃんとしたもの食べさせてあげないとって思って。料理してあげようかなーって来たんですけど……」

 雫ちゃんはどこか言い訳っぽく言う。視線が泳いでいるような気がした。

 困ったな。できるだけ雫ちゃんと沙織は会わせたくないのだが。

「あー。雫さんだ。こんばんは!」

 どう応対しようか悩んでいると、奥から沙織が顔を出した。

「今日はわたしが夕食を作ったんですよー。どうですか、一緒に食べませんか?」

 いいこと思いついちゃった♪ みたいな顔をして沙織が誘う。

「あ、さやかちゃん。こんばんは。あれ。なんだか昨日の印象と違う? 昨日は薄暗くてちゃんとお顔を見れてなかったからかな」

 雫ちゃんが不思議そうに首を傾げる。

「そうですか? 気のせいですよ。それよりどうぞ上がってくださいっ。いろいろお話し聞きたいです」

 雫ちゃんの疑問をさらりと受け流し沙織は嬉しそうにキッチンに向かった。

「さやかちゃんは料理ができるんですね。若いのにスゴいですね」

 雫ちゃんが僕に耳打ちをした。美味しい料理が作れるのなら凄いけれど、沙織の料理はとんでもないのだ。すごくはない。

 でも、その事は今の段階では沙織には言えない。指摘しては未来が変わってしまうかもしれない。ここは耐えるしかない。

「なあ雫ちゃん。実は……。あの子、料理の才能が皆無なんだ。地獄なんだ。びっくりするぞ。だけど、あまりその事は指摘しないであげてほしいんだ」

「え。なんでですか? せっかくならわたし、料理を教えますよ?」

「いや、それは……ダメなんだよ」

「どうして?」

「えっと……それはあとで説明するよ。とりあえず、今日は耐えてくれ。厳しい戦いになるかもしれんが、ともかく耐えてくれ。今度埋め合わせはする。頼む」

 僕が真剣な顔で手を合わせて頼み込むと、雫ちゃんは腑に落ちない表情ながらも了承してくれた。

「わかりましたよ。でも料理を作るってだけで偉いですよ。それに、いくら料理が下手だからって食べられないほどじゃないでしょ。大丈夫ですよ」


 なにも知らないというのは恐ろしいことだ。雫ちゃんはニコニコと部屋に上がる。僕は憂鬱な気持ちのまま雫ちゃんの後を追った。

「ささ。狭い部屋ですが」

 奥で待っていた沙織はエプロンをつけて言う。

「悪かったな」

「ふふふ。光輔さんって本当に女の子に弱いですよね」

 雫ちゃんに笑われる。

「うるさいなぁ、もう。いいから座ってよ。ほら、さお……、ごほん。さやか。お前が雫ちゃんを入れたんだから、ちゃんともてなせよ」

「わかってるーって。じゃ、準備するから待っててね」

 ワンピースを翻しエプロンをつけ準備をする沙織の姿を横目に僕は冷蔵庫を開けた。

「雫ちゃんも飲むでしょ。ビール」

 こんな状況、酒でも飲まなきゃ、やっていられない。

「いただいていいんですか? わあ嬉しい!」

 目を輝かせる雫ちゃん。

「え!? 雫っ……さん。ビール飲むんですか!?」

「なになにさやかちゃん。なんでそんなびっくりしてんの。わたしだって大人だよー。お酒くらい飲むよー」

 沙織は口を開けて驚いている。まあ沙織にしてみれば小学生の妹が酒を飲んでるってことなので驚くのも無理はないか。

「そ、そうなんだ……。でも、あんまり飲みすぎちゃダメだよ」

「うふふ、さやかちゃん。なんか若いのにお母さんみたいだね。大丈夫よっ。わたし、お酒結構強いんだから」

 雫ちゃんはえっへんと胸を張る。すぐ調子に乗るんだから。

「まったく、そんなことないだろ。この前だって泥酔して帰ってきたじゃないか。扉が開いてるからって僕の部屋に間違えて入ってきて、玄関で寝てたろ」

「ちょちょちょっ! やめてくださいと光輔さんっ! さやかちゃんに誤解されちゃうでしょ」

「どこらへんが誤解なんだよ。そのままだよ」

「ふふふ。仲良いんだね。二人は」

 オタマで肉じゃがを器に盛りながら沙織が笑う。その様子を視界の端に捉えて、僕は人知れず冷や汗を垂らした。

 ついに肉じゃがが僕らの食卓に運び込まれてしまう。和やかなムードで楽しい食事タイムって感じの状況だけど、問題は何一つ解決していない。この地獄肉じゃがをどう処理するかって話だ。

「おまちどうさま。ささ一緒に食べましょー」

 炊き立てのご飯と、味噌汁。そして肉じゃがが食卓に並んだ。

 米は大丈夫だろう。味噌汁に関しては少し不安だが、見る限り具材は豆腐だ。ならばそこまでとんでもないことにはならないだろう。塩辛いか味がしないか、ともかくある程度は我慢できる。

 しかし、問題はこの肉じゃがだ。

「うわあ美味しそう!」

 雫ちゃんは歓声をあげパチパチと手を叩いている。確かに雫ちゃんのいう通り、美味しそうな見た目ではある。見た目だけは。僕は雫ちゃんに視線で気をつけろ、と伝えたかったのだが、全然気がつかない。知らないぞ。

「じゃあみんなで、いただきまーすっ」

 沙織が僕のとなりに座ると、手を合わせて食事が始まった。

 雫ちゃんは肉じゃがを小皿に取った。僕は味噌汁のお椀を持ったまま、雫ちゃんの様子をうかがう。

 雫ちゃんがジャガイモを箸でつまむ。大きめにカットされたジャガイモだ。

 もっと小さいのにしないと大変なことになるぞ。僕は慌てて目線でジェスチャーを送るのだが、雫ちゃんはそんな僕の顔を見ても、本気にしていない様子でそのまま開いた口にジャガイモを放り込んだ。

 僕は思わず顔をそらした。雫ちゃんはもぐもぐと、ジャガイモを数回咀嚼したようだが、すぐに鳩が豆鉄砲を食らったみたいな顔をして固まった。

「うぐ……!?」

 むせるような息づかい。雫ちゃんの顔がみるみるうちに青ざめていくのが横目にも分かった。ほら、いわんこっちゃない。

「雫ちゃん、水、水」

 コップに水を注いで押し付ける。雫ちゃんは涙目になりながら震える手を伸ばしコップを受け取った。

「……ど、どうしたの? 雫さん? 喉につまっちゃった?」

 沙織が心配そうに見つめるが、違う、そうじゃない。

 雫ちゃんは顔をくしゃくしゃにして悶えながらコップの水を飲み干すと、

「うへぇぁ~」と魂が抜け出しそうな情けない声をあげて天を仰ぎ、そして食卓に突っ伏した。

「お、おいっ。雫ちゃん! 大丈夫か」

「ど、ど、どうしたの!?」

 二人で駆け寄る。僕が雫ちゃんを抱き起こすと、雫ちゃんはぶるるっと肩を震わせた。

「うう、地獄……口に地獄…死霊がぁ……ああ」

 悪夢でも見ているのか、青白い顔でどこか虚空を見つめたまま呟いている。

「大丈夫か、雫ちゃん」

 肩を揺すると首がぐあんぐあんと前後に揺れる。

「な、なんなの? どうしたの雫さん……」

 自分の料理のせいで大変なことになっているなどとは露とも知らず、沙織は緊迫した状況におろおろとしている。水で飲み込ませたのは失敗だったか。吐き出させた方がよかったかもしれない。

「あ……あ、あぇ……おえ……あ」

 雫ちゃんは虚ろな瞳でされるがままになっていたが、僕が背中をさすると、ようやく意識が戻った。

「はう!? びっくりしたぁ! ごほっごほっ。し、死ぬかと思った……」

 跳ね起きた雫ちゃんは叫んで咳き込んで、深呼吸を繰り返した。

「あ、あの……雫さん、大丈夫ですか?」

 沙織が恐る恐る声をかけた。雫ちゃんは心配そうにしている沙織の方を向いて、手を伸ばし、両肩をがしっとつかんだ。

「さやかちゃん! ヤバイ。これはヤバイ。殺人的だよっ」

「え? ええっと……」

「これさ、味見はしたの?」

「い、いえ……。その、なんとなく大丈夫だろうって」

「ちょっとー! それはダメだって! 次からは味見もきちんとしましょ! ってか、自分で食べてごらんなさい。飛ぶわよ!」

「……ど、どこに?」

 戸惑う沙織に押し付けるように肉じゃがの入った器を渡した。

 促されるまま箸を取り、肉じゃがを口に運ぶ沙織。そして。

「ぐ、ぐはべらっ!?」

 のけぞってそのまま倒れた。

「み、水……」

 喉をかきむしる勢いの沙織に水を与える。

 ゴクゴクと飲み干して、なんとか復活した沙織は肉じゃがを魔物でも見るような目で睨み付けた。

「じ、地獄ですかコレっ!?」

「自分で作っておいて、それはねえだろ」

 僕はやれやれと首を振った。やはり、こうなったら料理の腕前を隠すことは不可能だった。

「わ、わたしこんなに料理の才能がないなんて……驚いた」

 生前の沙織からも聞いた台詞だった。

 大学生になって一人暮らしを始めた僕の部屋に遊びに来た沙織がはじめて肉じゃがを作ったとき、僕が倒れ込むのを見て同じようなことを言った。

「ね、さやかちゃん。もしよかったら料理を教えてあげよっか。料理なんてコツさえつかめば誰だってできるんだよ。才能とかが必要なのは高級料理とかのシェフくらいだよ。家庭料理なんて誰でもできるって」

 雫ちゃんに慰められた沙織は肩を落としていた。

「あの、雫さんはお料理得意なんですか?」

「得意ってほどでもないけど、それなりになんでも作れるよ」

 その言葉に、姉である沙織はプライドを刺激されたみたいだ。

「わかった。わたし頑張る。雫さんにできるんだもん。わたしにもできるよね!」

「うん、そうだよ! ……ってあれ? なんかわたしバカにされませんでした?」

 僕の方を向いて首をかしげる雫ちゃん。慌てて否定する。

「そ、それより、この肉じゃがをどうにかしよう。厳重に密封して破棄しよう。野良猫なんかが口にしたら毒殺と疑われるかもしれない」

「……うう、そこまで言われるとは」

 沙織がショックを受けているが、そこは無視だ。

「雫ちゃん。カレールウとか部屋にない? 野菜とかは残ってるから、カレーを作ろうよ」

「あ、はい、確かちょっと残ってるはずです。とってきますねー」

 僕に背中を押されて、雫ちゃんは自分の部屋に戻っていった。

 残されて沙織と二人になる。

「うーん、完璧な見た目なのにね、なんでこんなに酷い味になったんだろ」

 沙織は腕を組んで考えている。

 僕はそんな沙織を見ながら、この出来事が過去を変えてしまったことになるのだろうか、と内心はらはらしていた。

 だって、沙織は高校生の時には自分の料理の才能のなさには気づいていないわけで、大学生になってからはじめて自分の料理の腕を知ったはずなのだ。


 些細な出来事だとしても、こういう出来事が後々の歴史を変えてしまうってのはよくある話だ。

 でも、こんなことで世界がやばくなるなんて、情けなさすぎるぞ。


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