第終章 そして幕は下りた。

第終章 そして幕は下りた。

 

 

「……なんだ?」

 建物全体が揺れた気がした。

 男は背後を振り返り、しばし黙考する。それから手許のコンソールを操作して、建物全体のセキュリティ網へとアクセスした。

 その結果、侵入者があった事が判明した。

 場所は、在りし日の妹の部屋を模して作った空間。その上部に大穴が開けられていた。

 そしてその部屋に、一人の女の姿。可憐な妹とは似ても似付かない、秀美を讃えた女性。

 どうやら、侵入者は彼女で間違いないようだ。

「やれやれ……顔に似合わずずいぶんとお転婆な事だ」

 男はハッと息を吐くと、肩を竦める。それから、作業の手を止めて立ち上がった。

 ちらりと時計に視線をやる。作業開始から四時間が経過していた。

 彼には一時間程度とうそぶいてみせたが、やはり人間の脳内の解析などそう易々とできるものではない。加えて、ある特定の情報だけを抽出しようとしているのだ。時間がかかるのも当然と言えば当然だろう。

 などと言い訳めいた事を考えていても栓のない事だ。

 男はぐっと伸びをすると、パキッと肩を鳴らす。それから、侵入者を撃退するために部屋を出た。

 まだ、この部屋に近付いてもらうわけにはいかなかった。少なくとも二十二時間。

 モニタに表示されていた解析完了予定時刻を思い出しながら、男はニッとわずかに笑みを浮かべた。

 

 

                  ◇

 

 

 どこかで音がする。何かを貫くような音だ。

 足下が揺れる。いや、足下だけではない。建物全体が揺れていた。

 震えている、と言い換えてもいいかもしれない。

「何が……起こっているんだ?」

 浩一郎は足を止め、振り返る。けれど、そこにいるのはただのプラスチックの箱。

 他にこれといって、何も見当たらない。

 そもそも、こんな場所に何があると言うのだろう。光すら届かない漆黒に。

 足下を照らすのは、ケイトの発するライトの灯だけ。他にはないのだから。

「なあ、今のは一体何だったんだ?」

「何者かが、侵入したようです。巨大な機体があります」

「巨大な機体? まさか、警察が来たのか?」

 いや、それはないだろうとすぐに思い直す。

 もし警察だったとして、そんな巨大な機械を連れ立ってくるはずがなかった。

「警察ではありません。……女性? が一人で乗り込んできた様子です」

「女性? それは一体……?」

「ここからでは詳しい事はわかりませんが、おそらくはあなたの知り合いかと推察します」

「なぜそう思うんだ?」

「他に、この場所に乗り込んでくる理由がないからです」

 ケイトはわずかに浩一郎を見上げた……気がした。

 もちろん、ケイトの今の体は単なるプラスチックの塊だ。そんな事ができるはずがない。

 それに、今はそんな事に気を取られている場合ではない。

「女性で知り合い……まさか」

 浩一郎にとって、知り合い自体がそれほど多くはない。女性の知り合いともなればなおさらだ。

「……リンダ?」

 彼女だろうか? 脳裏にリンダの顔が浮かぶ。

 と同時に不可解だった行動が蘇った。シャワー室での一件だ。

 あれは、一体何が言いたかったのだろう?

「まあいいか。助けに来てくれたというのならとりあえずリンダと合流だ」

 目標は定まった。ただ漠然と歩いているという状況からはとりあえず脱する事ができそうだ。

 ちらりとケイトを振り返る。

 相変わらず何を考えているのか、何を思っているのかわからなかった。

 が、だからといって、彼女がただのAIだからといって感情がないという事にはならない。

 彼女は生前の人間を模して作り出され、そして学習を繰り返す。

 浩一郎が作り上げた、ひまわりとは少し違う存在だが、本質の部分では同じ事だろう。

「……なら、人間とは一体何だ?」

 誰かの模倣をして、学習を繰り返す。それがAI。

 けれども、それは人間の成長の過程とほとんど同じだ。

 だとしたら、人間とは一体なんだ? なぜ、人は生まれて来た?

 成長するとは、大人になるとは、誰かを愛するとは……いや。

「今はそんな事を考えている場合じゃあない」

 変な事に気を取られるな。やるべき事に集中しろ。

 浩一郎は頭を振り、脳裏に過ぎったその考えを追い出した。

「リンダ……侵入者はどこにいる?」

「以前、あなたがいた部屋の隣。かつてわたしが暮らしていた部屋に似せて作られた、あの部屋です」

「……あの部屋か」

 浩一郎は頭の中に、ここまでの道筋から予想される建物の見取り図を思い描く。

「戻ろう。そして、一刻も早くここから脱出するんだ」

「……そうですか」

 ケイトは何かを察したのだろうか。一瞬言いかけてから、しかし口を噤む。

「……すまない、ケイト」

 謝罪の言葉を口にしたが、ケイトは応えなかった。

 くるりと踵を返すと、浩一郎はプラスチックの箱を乗り越え、元来た道を戻る。

 この先に、リンダがいるはずだ。もしいるとするなら、彼女は何らかの脱出の手立てを用意しているに違いない。

 そうなれば、ここから出られる。出られさえすれば、後はどうとでもなるだろう。

 浩一郎は脳裏にそうした予測を組み立てながら、我知らず早足になっていた。

 少しでも早く、リンダの元にたどり着きたい。その焦りが、彼から徐々にではあるが、冷静さを奪っていた。

 リンダのところへたどり着く。そうすれば、家に帰れる。

 家に帰れれば、サラが待っている。サラに会いたい。あの小さな体を抱き締めたい。

 ごめんねって言ってあげたい。

 浩一郎は込み上げてくるものをぐっと堪え、足早に戻っていくのだった。

 その背中を、ケイトはじっと見詰めるようにして、その場にとどまっていた。

 

 

                 ◇

 

 

 サラの姿が見当たらない。

 ひまわりはハッキングした監視カメラの映像を頼りに、サラを探していた。

 しかし、カメラのレンズがずっとサラを追っている事などありえない。

 途中で見失ってしまう事は明白だった。とはいえ、これほど足取りが掴めないとは想定外だ。

 渋滞に巻き込まれていた搭乗者たちに話を聞きたかったが、みなそれどころではなかった様子だ。何か得体の知れない巨大な物は見ていたが、小さな女の子の行方など誰も知らなかった。

 はらだたしいとは思わない。というより、そんな気持ちは存在しない。

 ただ、一刻の早くサラを見つけ出さなければ。その焦りが、ひまわりの足を速める。

 もう何度も見たはずの監視カメラの映像を繰り返しチェックする。

 サラの姿を探して、何度も、何度も。

 しかし、サラの姿はおろか、手がかりになりそうなものすら発見できなかった。

「サラ……一体どこへ行ってしまったのですか?」

 もはや、体中が熱かった。もしかしたら、このまま発火するのではないかとさえ思われた。

 幾度となく、監視カメラにアクセスしたのが原因だろうか。それとも、ずっと動き回っているのが原因だろうか。

 おそらくは、両方だろう。どちらかが原因という事はないはずだ。

 もし仮にオーバーヒートを起こしてしまったとしても、実際に発火する事はないだろう。周りの人々に迷惑をかけないよう、浩一郎は設計してくれていたはずだ。

 だから、何も心配はいらない。ただ、ひたすらにサラの姿を求めてさまよえばいい。

 そう、思っているのだが、段々とひまわりの足が鈍重になる。

 このまま、見付からないのではないかと思えてくる。そんな事はないはずだと自分に言い聞かせるが、それでも頭の中を言い知れぬ不安が駆け巡る。

 サラは事故になったのだろうか。それとも小さな子供をさらわれた?

 いずれにしても、重大な事件だ。そして、それはひまわりの過失でもある。

 浩一郎に対して、申し訳が立たなかった。せっかく造り出してくれたというのに、その恩に報いる事ができない。

「……恩?」

 恩……今、自分は彼に対して恩義を感じているのだろうか?

 よくわからなかった。しかし、彼に喜んで欲しいという気持ちは本当だ。

 だからこそ、サラを探しているという一面も確かに存在する。これが、恩を感じるという事なのだろうか。

 考えてもわからなかった。そして、今はその事は後回しにするべき事だ。

 サラを探さなくては。ひまわりはそう思い、頭を振る。

 それから、再び歩み出した。じっとしているわけにはいかない。

 とはいえ、だ。手がかりはなく、向かうべき場所もわからない。

 となると、どこへ向かって行けばいいのか見当も付かない。そうなった場合、どうするか。

「とりあえず、あのロボットの向かった方向へ」

 他に指針もない。ただ闇雲に走り回ったところでサラが見付かるとも思えなかった。

 ならば、望みは薄くとも一抹の希望にかけるより他にないのではないだろうか。

 ひまわりは自分にそう言い聞かせ、説得を試みる。

 そうして、自身を納得させ、記憶領域を呼び起こした。もう一度、あの映像を再生する。

「……こちらですね」

 巨大ロボットが向かった先。そちらの方へと爪先を向ける。

 この方向転換がどう出るか、ひまわりにはまだ、わからなかった。

 

 

                ◇

 

 

 どうやっても、壁を登れそうになかった。

 サラの小さな体では、目の前にそびえる巨大な壁を超える事は到底不可能だ。

 一応、正規のゲートはあるのだが、その前には二人の衛兵が一人と警備ロボがいた。

 きっと、サラのような子供が通る事を許してはくれないだろう。この先は危険だから。

 以前、ニュースで見た事があった。新市街と旧市街を隔てる巨大な壁の事を。

 この壁の向こうとこちらとでは、経済的な格差が云々されていた。

 ニュースの内容自体はサラにはよくわからなかったが、きっとよくない事なのだろうという事だけは直感的に理解できた。

 そして、この壁を越えたのだという。巨大な機械が。

 なぜ、その機械がこの壁を越えたのか、細部に渡り理解しているわけではない。

 ただ、ここに来なければならない。そんな直観があった。

「でも……一体どうやって中に入ればいいの?」

 もちろん、この中に浩一郎が――義父がいるという確信はない。言ってしまえば、ただの勘が働いただけに過ぎないのだから。

 とはいえ、他に手がかりもない。ここは、一つ賭けてみるのも手だろう。

 などと考えながら来てみたはいいものの、しかしだからといってこの後の事を考えていたわけではなかった。

 どうしたものだろう。

 サラが壁の前であごに手を当て、むーんと唸っていると、守衛と思しき人物がこちらに近付いて来るのに気付いた。

「どうしたんだい、君? 迷子か?」

 守衛の男は膝を折り、サラと視線を合わせてそう声をかけてくる。

 五十歳手前くらいの年齢だろうか。黒く日に焼けた肌と低い声。そこに似合わない、人の好さそうな笑顔。

 きっと、これまでの人生を相当苦労して歩んできたのだろう。そう感じさせる人物だった。

「えっと……その」

 サラは返答に困り、視線を泳がせる。

 この向こう側に浩一郎がいるとは限らない。ただのサラの勘違いという可能性も多いにある。

 というか、そちらの方が可能性としては大きい。

「この先は君のような小さくて可憐な女の子が入る場所じゃあないよ。早くお帰り」

「でも……ええと」

 守衛がやんわりと帰宅を促してくる。しかし、サラとしてはこのまま帰るわけにはいかなかった。

 このまま帰ってしまえば、きっと浩一郎との再会は遠のいてしまう。そんな予感があった。

 どうにかして、この中に入れないものだろうか。

 サラは乱れる思考を何とか繋ぎ合わせ、まとめ上げようと懸命に努力する。

 恐怖が、焦りが、不安が、どこからともなく湧き出てくるようだった。

 じわりと額に汗が浮かぶ。カタカタと全身が震え出した。

「え? ええと、ごめんよ……まさかそれほど怖がられるとは」

 守衛の男は頭の後ろに手をやり、困ったように眉間に皺を寄せた。

 違う、と頭を振りたかった。そんな理由じゃあない。

 けれど、サラの頭の中と口から出る言葉は、全く別物だった。

「……怖い、怖いよ……」

「ああ、まあそうだよな。自分で言うのも何だが、俺って顔怖いもんな」

 守衛の男は必死で笑顔を繕っていた。しかし、困った様子は隠せていなかった。

 違う、と言いたかった。けれど、サラの口からその一言は出ない。

 小さく、ゆっくりと首を振る。何度も何度も。

「まあ、とりあえずこんなところにいてはいけないよ。さ、帰りなさい」

 男は帰宅を促す。が、サラもこのまま帰るわけにはいかなかった。

 どうしても、この中に入らなければならない。そんな予感が、胸中を満たしていたから。

「わたし……どうしてもこの中に入らないと」

「はあ……一体何を言っているんだい、君は?」

 守衛はわけがわからないというように眉間に皺を寄せた。

 それはそうだろう。なぜと問われても、サラ自身にも説明のしようがないのだから。

 彼からすれば、それこそ頭のおかしな子供と思われても仕方がない。

「あの……」

 サラはきょろきょろとあたりを見回した。どうしよう、と必死に思考する。

「とりあえず、親御さんに連絡するから連絡先を教えてくれるかい?」

 守衛の男が優しく手を差し出してくる。サラはその、大きな手をじっと見ていた。

 それから、ほとんど考える間もなく体が動いていた。

 するりと彼の脇を通り抜ける。まるでダンスでも踊るかのように華麗なステップを踏む。

 守衛はびっくりしたように目を見開き、サラを振り返った。

「なっ……」

 二の句が継げずにいる守衛をちらりと振り返り、サラは駆け出す。

 その背を、数秒遅れで守衛が追いかける。

「待って、そっちはだめだ!」

 守衛の野太い声が耳に届く。ごめんなさい、と心の中で呟く。

「……でも、わたしはこの先に行かなくちゃいけないの」

 サラは呟き、それまで守衛が立っていたであろう正門の前で立ち止まる。

 元来た道を見やる。と、守衛がこちらに走って来ていた。

 サラは思案する暇もなく、門に手を伸ばす。が、開かない。

 ここから先は、IDと指紋認証が必要なようだ。サラでは進めない。

「どうしたら……」

 途方に暮れるサラ。一秒を追う事に近付いて来る守衛。

 焦りだけが、彼女の中で膨れ上がる。どうしら、どうしたら――。

 と、その瞬間だった。正門が開いた。

「あーくそ、余計な仕事を増やしやがって……」

 中から、先ほどの守衛と同じ制服に身を包んだ男が現れた。

 年の頃は、サラを追う彼と比べて十歳前後若いだろうか。どうでもいい情報だ。

 とにかく、ラッキーだと思った。咄嗟に中に滑り込む。

「うわっ……なんだ、今のは……?」

「馬鹿野郎! 何やってんだ、お前!」

「ええ……そりゃないですよ……」

「いいから、追え! 何かあったら俺たちの責任だぞ!」

「り、了解!」

 男が二人、サラを追って門の内側へと入って来た。

 再び、彼らを振り返るサラ。

 ここから、どうしよう。焦る気持ちをどうにか抑えながら、サラは目の端の涙を拭った。

 

 

                  ◇

 

 

「何……ここ?」

 リンダはその異様な部屋の模様を見て、眉間に皺を刻んだ。

 いや、別段おかしなところはない。普通の、可愛らしい女の子の部屋だ。

 こんな状況でさえなかったら、今のような感想を抱く事もなかっただろう。

「……写真。家族写真かしら?」

 今時珍しい。こうして現物にプリントアウトされているタイプの写真は。

 写真立て、なんて物はリンダが小学生の頃には絶滅危惧種同然の扱いだった。

 よほど写真に凝った友人や友人の両親のいる家庭でなければ見かけない代物。

 リンダ自身も(よっぽどの事がない限りはそうそうとらないが)写真を撮る際は全てデジタルデータとして保存している。

 そもそも、資源やスペースといった観点から言って、写真を印刷するというのは無駄以外の何でもないと思っている。これは、本や他の物でも同様だ。

 だというのに、後生大事にこうして写真を飾っているのは、どういうわけだろう?

 可能性としては二通り考えられる。

 まず第一に、手許に残しておくべき写真がこれしかない。

 しかし、それだって別段デジタル化できない理由にはならない。

 なら、別の理由がありそうだ。それは一体何だというのだろうか。

「……今はそんな事はどうだっていい事」

 リンダは首を左右に振り、頭の中に浮かんだ疑問を振り払った。

 今、考えるべき事は他にある。まして、関係のない事に時間を割いている余裕はない。

 早く、浩一郎を見付けなくては。

 そう思い直し、リンダはくるりと身を反転させる。

「浩一郎……一体どこにいるの?」

 呟きながら、リンダは扉の前に立つ。この先に、いるのだろうかと期待してしまう。

 ドアノブを回す。がちゃりと音がして、扉が開いた。

 ゆっくりと押し開けていく。もし、浩一郎がいたらどんな顔をしたらいいだろうか。

 そんな事を考えながら、ゆっくりと、ゆっくりと開いていく。

 けれど、その先に浩一郎はいなかった。あるのは、がらんどうとした無味乾燥な空間。

 まるで、牢獄か何かのようだと思った。今時、刑務所だってここまでではないだろう。

 リンダはきょろきょろと周囲を見回しながら、慎重に歩を進めた。

 まるで、生まれたての小鹿のように、慎重に。

「――あなたが、彼を助けに来た人ですね」

 唐突に、背後から声がした。ビクンッと体が跳ね上がるかと思うほど、驚く。

 どくどくと心臓が鳴り響く。咄嗟に周囲を見回した。

「……どこから?」

 どこから、声が聞こえたのだろう。それがわからず、リンダはうろたえた。

「落ち着いてください。わたしはどこにでもいます。同時に、この世にはいません」

「……あ、あなたは……誰?」

 誰何の声は震えていた。恐れているのか、焦っているのか、驚いているのか。

 あるいは、その全てかもしれなかった。ともかく、姿の見えない相手に対して、警戒はしていた。

「あなたは……誰?」

 返事がない。再度問うも、返答が戻ってくる事はなかった。

 しんと静まり返る室内。問いかけて来た相手は何を言う事もなく、姿も現さない。

 これでは、迂闊に動く事もできない。早く浩一郎の許へ行きたいのに。

 どうするべきか。

 リンダは次の自分の行動を決めかねていた。それもこれも、見えない敵のせいだ。

「……あなたは、彼を助けに来たのですね」

「……そうだけれど、そちらばかり質問するのはアンフェアだわ」

 こちらの質問には答えない。でも、自分は質問し、返答を強要してくる。

 敵の素性もわからないままで、どうしてそんな事をしなければならないのか。それがわからず、ストレスだった。

「あなたたちこそ、わたしの家に勝手に踏み込んで来ました。天井に穴を空けてまで」

「あら? それは悪かったわ。ごめんなさい。ところで……」

 リンダはすうっと息を吸いながら、視線を鋭くする。

「こちらからも質問していいかしら? もちろん答えて欲しいわ」

「……わかりました。わたしで答えられる事ならお答えします」

「ありがとう」

 肩を竦め、形ばかりの返礼を口にするリンダ。

 こほん、と咳払いした後、問う。

「あなたは……この家の人? どこにいるの? 浩一郎……彼は無事?」

「……ずいぶんと矢継ぎ早ですね。それほど一辺に答えられると思っているのですか?」

「質問しているのはこっちよ」

 見えない敵に対しても、リンダは強きの態度を崩さなかった。

 ごくりと唾液を飲み下す。

 もし、相手が凶悪な人間なら、リンダのこの態度は癪に障るものだろう。

 何かしらの実力行使に訴えてきたとしても、不思議ではない。そうなった場合、リンダに抗う術があるとは思えなかった。

 あのロボットも、ここに着いた瞬間からだんまりだ。他にどんな機能があるのかホフマンからは聞かされていない。

 仮に何らかの攻撃的手段を持っていたとして、果たしてこの連中に対して効果のあるものなのだろうか?

「いいでしょう。一つずつ、お答えします」

 まるで機械音声のようだ、と思った。

 抑揚がない。起伏がない。息遣いが感じられない。

 それはつまり、生きていないという事だろうか。それとも、もっと別の要因がある野だろうか?

 今、会話をしている相手は実は人間ではないという可能性も、十分にありえる。

 なぜなら、最早そういう時代だからだ。人ではない、機械とともに愛を育むという行動を取る人々も、今の時代少数ではあるが存在する。

 それを踏まえて考えると、全くない話ではないだろう。

 リンダはそんな事を考えながら、じっと視線を動かさなかった。

 目の前に正体のわからない相手がいる、という事を思っているわけではない。

 これは、ただの恐怖心からの行動に過ぎなかった。もしかしたら、振り返ると背後に立っているかもしれない。

 もしくは、いないかもしれない。

 とにかく、理論ではなく感情の面で、リンダは視線を固定させたまま、動かせずにいた。

 それは幼い子供が理由もわからずに得体の知れない気配に恐怖を覚える感覚に近いのかもしれない。

「……日本では確か、ハブに睨まれたなんとかって言うんだっけ?」

「何の……話ですか?」

「こちらの話よ。それより、あなたは一体どこにいるの?」

 リンダは眼球だけを動かし、声の主を探した。

 けれど、彼、もしくは彼女の姿は見当たらない。正体が掴めないというのは、かなりのストレスになる。

 背筋を、嫌な汗が伝う。仮に危害を加えられたとして、ちゃんと対応できるだろうか。

「それで、あなたは私に何をさせたいの? というか、姿を現しなさい」

「……ええ、わかりました」

 直後に、ぶつりと何かが途切れる音がした。

 その後、至る所から機械音があふれ出てくる。それはまるで、不協和音のオーケストラのようだった。

 リンダは思わず両耳を塞ぎ、その場に跪いてしまう。体調に影響しそうだった。

 しばらくして、機械音が鳴り止む。と、今度はモーターの駆動音が耳に届いた。

「……何?」

 リンダは眉間に皺を寄せ、音の方へと視線をやる。

 睨み据えるように、音の出所を探る。と、闇間の向こう側から、何かがこちらへと現れた。

 それは四つの車輪を備えた箱に見えた。一昔前の、まだロボットが出始めた頃のようなデザインだ。

 プラスチックの箱のような姿形をしたそのロボットは、真っ直ぐにリンダの方へと近付いてくる。

 そして、ぴたりと彼女の前で止まった。何となくだけれど、視線を上に向けたような気がした。そんなはずはないが。

「こんにちは。わたしは、ケイトといいます」

 プラスチック箱は言い添えると、再び沈黙した。

 このタイミングで現れたという事は、このプラスチック箱を操っているのが、先ほどまで彼女と会話をしていた相手なのだろう。

「私は……姿を現しなさいと言ったはずよ」

「ごめんなさい。しかし、これが今のわたしの姿なのです」

「は? それは一体どういう事?」

「詳しい説明は省きますが、ケイトという人間は既にこの世にはいません」

「は?」

 何を言い出すのだろうか、このプラスチック箱は。

 リンダは眉間に皺を刻みつつ、彼女(彼女……と言っていいのかわからないが)を睨み据える。

「あなたは……人間?」

「人間……というその問い対する答えをわたしは持ち合わせていません」

「……そう」

 リンダは胃袋の底からふつふつと湧き出してくるような、どす黒い何かを感じていた。

 それは明らかな嫌悪だったかもしれない。もしかしたら、もっと別の、憎悪だったかも知れない。

 明らかに、浩一郎を浚った連中の関係者だった。だからこそ、まだ顔も見えない相手だというのにこれほど嫌いだと思ってしまうのかもしれない。

 リンダはぎりっと奥歯を噛み締めた。そして、更にプラスチック箱に対して問う。

「あなたたちの目的は何?」

「目的……さて、何だと思いますか?」

 プラスチック箱はどこか相手を嘲るような調子で、そう返してくる。

 リンダには、それが苛立たしかった。馬鹿にされているような感じを覚えたからだ。

 いや、実際に馬鹿にされていたのかもしれない。相手は姿を現さないような人間なのだ。

そういう事もあるのかもしれなかった。

 ともあれ、今はプラスチック箱との不毛な言い合いをしている場合ではない。一刻も早く浩一郎を見付け出さなければならない。

 リンダは踵を返し、部屋を出ようとする。

 しかし、ふと彼女の足が止まった。

 もしも、このままこのプラスチック箱と別れてしまってもいいものだろうか?

 何か、浩一郎に繋がるヒントを持っているかもしれないのに?

 そう考え、リンダは首だけで背後を振り返った。

「ねえ、あなたの目的については今は保留しておくわ」

「それはそれは。ありがとうございます」

「だから、私の条件も飲んで欲しいのだけれど」

「……なんでしょうか?」

 一瞬の間が気になったが、無理矢理に気持ちを切り替えて、リンダは言う。

「浩一郎……あなたたちが攫った男のところへ連れて行きなさい」

 プラスチック箱が息を飲んだ。……ような気がした。

 実際にはそんな事は不可能なのだから、それこそただの気のせいなのだが。

 それでも、リンダにはそう思えた。やはり、この要求は無謀だっただろうか。

 何せ相手は拉致の犯人の一派だ。素直に彼の許へ連れて行ってくれるとは思えない。

 むしろ、騙し討ちに会う可能性の方が断然高い。止めておいた方がよかった加茂野かもしれない。

 とはいえ、他に手がかりもないのだから、仕方がないのだと自分に言い聞かせる。

 もし相手が騙そうとしているのだとしたら、こちらから先に牽制してやればいいだけだ。

 リンダはそう思う事で、自らを鼓舞するのだった。

 

 

                ◇

 

 

 入ってみたはいいものの、一体どこへ向かえばいいのだろうか。

 サラは不安に苛まれながら、慎重に物陰から顔を出した。

 ほとんど骨と皮だけの人々。薄汚れた人々。

 瞳には生気が感じられず、それこそただ漫然と日々を過ごしている彼ら。

 今まで、考えた事もない光景だった。想像する事すらなかった。可能性を思い浮かべた事もない。

 貧困、という言葉が頭の中に過ぎった。格差が広がっていると浩一郎が観ていたニュースでやっていたような気がする。

 しかし、それらは自分たちとは関係のない世界の事だと思っていた。仮に関係があったとしても、サラのような子供にはどうしようもなく、浩一郎やリンダのような大人が解決すべき問題だと思っていた。

 ――この人たちには、わたしはどう映るんだろう。

 きっと、お金持ちの家の子供に見えるに違いない。豪邸に住んでいて、ハウスメイドがいる、そんなお金持ち。

 実際には、サラの家はそれほど裕福というわけではない。おそらく、社会全体から見れば中の下くらいの位置にいると思われる。

 そんなサラの生活も、おそらく彼らからしてみれば、天上世界の事のようなのだろう。

 取り留めもなく、そんな想像が頭の中を駆け巡っていた。

 そういう理由から、サラはこの人たちに見付かってはいけない、とこそこそと隠れていた。

 もし見付かったら、きっとつらい気持ちにさせてしまうだろうから。

「……それに、巻き込むわけにはいかないしね」

 ただでさえ苦しい生活を強いられている彼らに、サラの事情に巻き込むのは気が引けた。

 できる事なら、誰にも見付からずに浩一郎を連れ戻したいところだ。

 そのためなら、何でもやろう。サラはそう決意し、一人で頷く。

「でも……一体どこへ行ったらいいんだろう? 何をしたらいいんだろう?」

「何が? どうしたの?」

 唐突に背後から声をかけられ、サラは悲鳴を上げそうになった。

 何とか両手で口許を抑え、我慢したが、心臓はばくばくと音を立てている。

 この音で周囲の人々に気付かれるのではないかと思ってしまうほどだ。

 サラはゆっくりと、ぎこちない動きで背後を振り返った。

 そこには、汚い身なりをした一人の少年がいた。サラと同じように身をかがめている。

「ええと……誰?」

「俺はライチ。君こそ誰?」

「わたしは……」

 思わず答えそうになって、口を噤む。

 ここの人たちと関わり合いになってはいけない。先ほど、そう決心したばかりだというのに。

 早速、関わってしまった。不覚。

 とはいえ、相手はまだ年端もいかない少年だ。年はサラより二つか三つほど下だろう。

 ライチと名乗った少年は身なりもみすぼらしく、痩せている。

 まさに、サラとは対照的だ。

「君は、だぁれ?」

 ライチは小首を傾げると、その大きな瞳を更に近付けてくる。

 サラはライチの視線から逃れるために、とっさに立ち上がった。

「あっ……だめだよ」

 パッと、ライチの小さな手がサラの手を掴む。そのまま手を引いて、座らせられてしまう。

 地面に尻餅を突いていた。痛くはなかったが、服が汚れてしまう。

 しかし、サラのその思考は一瞬にして掻き消えてしまった。

 ライチの大きな瞳がきらきらとサラを見詰めていたからだ。

「君、壁の外の人だよね?」

「え? ええと……まあ」

 ライチの迫力に圧され、サラは頷いてしまっていた。

 きらきらと輝く相貌に、思わず見とれてしまう。

 どうして、彼はこんな状態で暮らしているというのに、これほど楽しげなのだろう。

「それで、君の名前は?」

「名前……ええと、サラ」

「サラ……いい名前だね!」

 ライチはにっこりと微笑むと、サラの名前を何度も口の中で反芻していた。

 どうしたものだろう。サラがそう考えていると、ライチは不思議そうに首を傾げた。

「ところで、サラ。どうしてこんなところにいるの?」

「え? それは……」

「自分で言うのもあれだけれど、ここは君のような外の人がいる場所じゃあないよ?」

「……実は」

 心細かった、というのもあるのだろう。サラはライチに、自分がここにいる理由を語った。

 父親が浚われた事。今、彼を大切に思っている人全員が浩一郎を探している事。

 そして、この場所のどこかに、浩一郎がいるかもしれないという事。

 話を聞き終えると、ライチは眉間に皺を寄せ、むむうと唸った。

「なるほどね。それは大変だ」

 本当にそう思っているのだろうか。彼の口調はすごくあっさりしたものだった。

 まあ、まだ年端もいかない年下の男の子に話したところで、こんなものだろう。

 サラはライチから視線を外すと、じっと通りを見詰める。

「ええと、ライチ。わたしはこれからどうしたらいい?」

 それは、ライチに対して、というよりは自分に対する問い掛けだった。

 言葉にして、そして次の行動を考えるための。

「ねえ、サラ。君が何を言っているのか、正直俺にはわからないんだ」

 ちらりとサラの視線がライチに向く。が、すぐに戻した。

「でも、君はここいちゃいけない。すぐに帰った方がいいよ」

 サラの思考に、ぴしりとその言葉が響いてくる。

 思案が乱される。彼女なりに考えていた事が、まるで穴が空いたかのように流れ出る。

「……どう、して?」

 何とか絞り出したのは、それだけだった。

 まさか、この少年もサラには不可能だと思っているのだろうか。

 浩一郎を――父親を助ける事はできないと。そう言いたいのだろうか。

「ここの人たち、ちょっとおかしいんだ。ずっと閉じ込められてるから当然だけれど」

 ライチはサラの向こう側へと視線を送る。その顔を、少女はぎこちない動作で振り返る。

 どこか慈しむような、それでいて悲しんでいるような、そんな表情だった。

 子供でもなく、けれど大人でもない――サラはそう思った。

「外の人の事が……たぶん嫌いなんだよ」

 自分たちはこんな生活をしているのに、なぜあいつらだけって。

 ライチは一瞬だけ、笑顔を失くしていた。しかし、それもほんの一瞬のできごとで。

 もしかしたら、見間違いか幻だったのではないかと。そう思わせられるようで。

 サラはライチから、目を逸らせなかった。

「サラ、君は……」

 言いかけたライチの言葉を遮って、サラは首を振った。

「ライチはわたしに帰れって言うんでしょ? わたし、帰らない」

 サラはライチに視線を向けたまま、力強くそう宣言する。

 自然と、二人の視線がかち合う。

 ライチの大きな、どこか虚ろな瞳に見詰められて、サラはきゅっと息を飲んだ。

 これまで、経験してきた事が違うのだろう。ライチの方が、つらい人生だったのだ。

 だから、彼の言葉には言外の説得力があった。彼の態度は、サラより大人びいていた。

 きっと、ライチの言う通りにした方がいいのだろう。その方が賢明なのだと思われる。

 それでも、サラはライチの言う通りにするつもりはなかった。例え、何と言われようと。

「……わかったよ。こんなところまで来たという事は、何か事情があるみたいだしね」

 ライチは肩を竦め、小さく息を吐く。その仕草はあまり子供らしくなかった。

 とはいえ、一先ずはほっとした。きっと、本気で彼が説得を試みれば、サラは屈していただろうから。

「それで、君はなぜこんなところに?」

「……わたしのお父さんがここにいるの」

「君の、お父さん……?」

 ライチは眉間に皺を寄せ、小首を傾げた。

「まさか。だってここは……」

 言いかけて、口を噤む。サラがここにいる現状を考えれば、ありえないとは思えなかった。

 彼女が嘘や勘違いをしているとは、思えない。であるならば、本当なのだろう。

 少なくとも、この少女にとっては。

 ならば、多少付き合ってやってもいいかもしれない。

 ライチはふぅっと息を吐き、微笑んだ。

「わかった。なら、俺も手伝うよ」

「え? でも、関係のない人を巻き込むのは……」

 サラが言い淀んでいると、ライチはトンッと自分の胸を叩いた。

「そんな事はないだろう? 俺とサラはもう知り合いだ。無関係じゃあない」

 ライチのその言葉に、サラは返答できなかった。

 感動、したのだろうか。それとも、もっと別の何かが?

 サラはきゅっと己の胸を締め付けてくる感覚に、戸惑いを覚えた。

 何と言い現わしていいのかわからないその感覚。不思議な、でもすごく優しく、心地いい。

「それで、君のお父さんはどこ?」

「わからない。……ただ、この辺りである事は間違いないと思うんだれど」

「なるほど。だったら、あそこへ行ってみよう」

 ライチは一瞬の躊躇もなく、そう提案した。

 彼のその言葉に、サラは即座に頷く。どこへ行くつもりなのかわからなかったが、少しでも浩一郎を発見する可能性が高まるのなら、願ってもない事だ。

 サラは何度も頷いた。それから、小さく吐息する。

「……お願い、します」

 まぶたを伏せ、精一杯の懇願を口にする。と、ライチはニコッと微笑んだ。

「任せて。この辺りは俺の庭みたいなものだから」

 ライチの言葉は、サラにはすごく頼もしく思えた。

 ともかく、これでもう一歩前進したと考えていいだろう。

 じわりとサラの瞳の端に、涙が滲む。その姿を、ライチは微笑みながら見詰めていた。

 

 

                 ◇

 

 

 ともかくも、何を置いてもサラを探し出さなくてはならない。

 でなければ、きっと自らをスクラップにしてしまうだろう。

 立ち止まり、乱れた呼吸を整える。

人間ではない彼女には、不要な機能のはずだった。

疲れはない、苛立ちもない。でも、人間らしさを表現するためには、必要な機能。

走り続ける事が困難になるこの機能は、ひまわりにとって現状、邪魔でしかなかった。

瞳を閉じる。視界が暗くなる。その中に、いくつかの映像が浮かび上がった。

先ほど、ハッキングをした監視カメラの映像だ。そこに映る、大勢の人々。

映像の解析を開始。先刻から、何度も繰り返している作業だった。

どれほど走っただろうか。息を切らせながら、ひまわりは大きな壁の前で立ち止まった。

「……ここに、サラが」

 監視カメラは至る所に存在する。その全てが、行き交う人々や車両やロボットを監視しているわけだ。

 当然、サラのような一人で出歩く少女をマークしないわけがない。何か事件に巻き込まれた事を確認されれば、すぐに警察や保護者、つまりは浩一郎に連絡が行くような仕組みになっている。

 それがなされていない、という事は、サラはまだ無事と考えていいのだろう。

 希望的観測だと言われれば、その通りなのかもしれない。

 それでも、ひまわりとしてはそう信じる以外になかった。ただ、サラの無事を祈る以外には。

 祈る……とは、ずいぶんとおかしな話だ。彼女は人間ではない。

 祈りとは、人間にのみ許された行為ではないのだろうか。

 わからない。が、おそらくはそうなのだろうと思う。なぜなら、神を創り出したのは人間なのだから。なのだとしたら、祈る事もまた人間にのみ許された行為であるはずだ。

 人間ではないひまわりが祈るのは、おかしな事だ。

 わかっている。わかっているだが、他にやれる事がない。

 今は、ただ祈るより他になかった。

 何に祈ればいいのか曖昧なまま、彼女は走り続ける。

 細い細い、サラへと繋がる糸を頼りに。全く頼りない糸を手繰って。

 そうして、二時間も走り続けた頃だろうか。目の前に、巨大な壁が現れたのは。

 ひまわりは立ち止まり、その壁を見上げた。

「ここは……?」

 ここから先、サラらしき人影の消息は掴めなくなっていた。

 この奥には、おそらく何もないのだろう。ハッキングを試みるが、情報は得られなかった。

「おい、なんだあんたは」

 横合いから、男の声でそう問われた。

 ひまわりはそちらを振り返り、小さく後ずさる。

 が、すぐにその歩を止めた。むしろ、男性に向かって数歩踏み出した。

「この辺りに女の子が来ませんでしたか? 十歳くらいの」

「女の子? ああ、そう言えばうろうろしていたな。あんた、あの子の保護者?」

「え、ええ……まあ」

「だったら、ちゃんと見ていてもらわないと。今、俺の同僚がこの中を探しているよ」

「この中……」

 くいっと、男性はあごで壁の方を指し示す。ひまわりもそちらへ顔を向けた。

 巨大な壁。この奥に一体何があるのか、情報統制がなされているためわからなかった。

 それでも、きっとろくでもない事なのだろう。そんな予想は簡単に立つ。

「あの、私もこの中に入りたいのですが……」

「だめだよ。探しに行きたいんだろうけれど、この中は危険だから」

「危険……とは?」

「危険は、ええと……危険だ」

 男性は言い淀んだ後で、何とか言葉を繋いだ。

 けれど、彼の態度からはこの中の事をよく知らないようだった。

 ひまわりは男性に視線を向け、それから再び壁の方へと戻した。

 巨大な壁。まるで何か、見たくないもの、見て欲しくないものを覆い隠すかのような壁。

 ひまわりは一瞬の躊躇の後で「わかりました」と言って男性に背を向ける。

 そのまま、とぼとぼと歩き出す。

 壁から少し離れた場所の路地を曲がる。すると、もう男性の方からはひまわりの姿は見えないだろう。

 そこで立ち止まり、様子を窺う。

 男性はひまわりの姿が見えなくなると、自分の持ち場に戻っていた。

 その姿には、苛立ちは募っていたようだった。

 それはそうだろう、とひまわりは男性に同情する。

 女の子を壁の中に入れてしまうという失態を演じてしまったのだ。お咎めなしとはならないのではないだろうか。

 だとしたら、ここで更にひまわりが強硬手段に出てしまえば、あの人の立場を殊更悪くしてしまう可能性も多いに在り得る。

 サラに続いて、ひまわりまでもがそうする事はできなかった。

 それに、変に事を荒立ててしまった場合、自分が人間ではないと暴かれる恐れもある。

 そうなってしまった場合、サラや浩一郎に迷惑が降りかかるのは避けられないだろう。

「……その事態だけは、絶対に避けたい」

 とするなら、ここは秘密裏に事に及ぶ方がいいだろうか。

 そんな事を考えていると、ひまわりの脳裏にふとある光景が思い浮かんだ。

「あのロボットはどこへ?」

 サラを探して監視カメラをハッキングした時に見た、あのロボット。

 あれは一体、どこへ消えてしまったのだろう? あれだけの巨体がポンと消えるとは思えなかった。

 しかし、実際に消えてしまっている。霊的なスピリチュアル現象というものの存在を否定するつもりはなかった。

 が、ロボットと霊的現象がうまく結びつかない。とすると、だ。

「まさか……あの中に?」

 サラは壁を、その向こうへと視線を送る。

 ロボットの目的地は壁の中だった? そう仮定するなら、とりあえず辻褄は合うだろう。

 なぜなのだろうか。壁の中に、一体何があるのか。

 壁の中は原則として市民は立ち入る事ができない。よほどの事情を抱えた人の場合は許可がなされているが、それ以外の一般人は先ほどのように止められてしまう。

 そして、間違いなく件のロボットはそうしたルールを無視して壁の中に入っている。

 それほどの何かが壁の中にあるという事だ。

 ひまわりは瞳を閉じ、ネットへと接続する。

 ニュースサイトやまとめサイトでは、何か重大な事件が話題に乗っているわけではない。

 人の口にふたは出来ない。特に、ここ数十年はそうだ。

 政府による介入・改竄がなされている可能性も否めないが、それを確かめる術はひまわりにはなかった。

 ともかく、重要な事は、だ。件のロボットが侵入できたのなら、ひまわりにも可能性は多いにある。

 何を置いても、その事実だけが重要だった。

「……あれに出来て私に不可能な事なんてない」

 それは、全く根拠のない自信、というわけではなかった。

 確かに、ひまわりはただ家事や育児を目的として作られてはいる。が、人間よりも格段に身体能力が高く設計されている。

 そうでなければ、万が一にでもサラが危険な目に遭った場合、助ける事ができない。

 それは確かなのだが。その身体能力を持ってして、あの壁を超える事はできるだろうか。

 予想が付かない。なぜなら、そんなデータは存在しないからだ。

 きっと、浩一郎も設計、製作の段階でこんな事態に陥るなどと予想はしていなかったのだろう。その手の似たようなデータすらなかった。

 つまりは、これはひまわりにとって未知の事例。

 うまくいけば壁の中に入り込める。けれど、失敗すればそのままスクラップだ。

 死は……誰にとっても怖いものだ。それは、ひまわりにとっても同じ事である。

 ひまわりがスクラップに――すなわち死すれば、それによってサラが悲しむだろう。

 その事態を頭の中に思い描く。それも、かなり詳しく。

「……それはいけない」

 ぼそりと一人呟いた。それはおそらく、最悪の事態、という事なのだろう。

 サラが悲しむような事だけは、したくなかった。

「私が壊れず、なおかつサラも見付け出す」

 一番いいのは、そのままの勢いで浩一郎も救う事だ。けれど、これは難易度が高い。

 もし、それが可能なのだとしたら、今頃はリンダや他の人たちが見付けているはずだ。

 そうなっていないという事は、つまりは発見が難しい状況にあるという事。

 ひまわりは脳回路の中で、侵入方法をシュミレートする。

 まず、あのロボットが侵入した経路を算出。

 おそらく、彼ないし彼女は運動性能という点ではひまわりをはるかに凌駕する性能を誇っている。故にあの経路でも侵入できたものだと思われる。

 同じ事をひまわりがしても、きっと侵入は出来ないだろう。

 なら、違う手段を用いる必要がある。違う、手段……それは、何か。

 ネット回線に接続し、使えそうな手段を片っ端から探る。と、いくつか候補があった。

 その中の一つ。古典的だが、アナログ故に効果が高そうなものをいくつかピックアップ。

 実行に移した場合の成功確率を算出。およそ三十五パーセント。

 決して高いとは言えない。けれど、低くもないという数値。

 悪い見方をすれば、失敗する可能性の方が高いとも言える。だけれど、今のひまわりにはこれしか方法がなかった。時間があるかないのかすらわからない状況では、即断できてなおかつ即行動に移せる事が必要だった。

 ひまわりは数秒、その実現可能性について吟味する。

 成功、失敗を問わずやるしかない。そう、自らを奮い立たせる。

 やらなければ、きっとサラや浩一郎を助ける事などできないだろう。

 なら、やるべきだ。

 ひまわりはぐっと拳を握ると、じっと壁の門のあたりを見詰めていた。

 守衛は現在一人。ネットで拾った話では、通常は二人から三人いて、それぞれ交代で警備に当たっているという。

 何かあったのだろうか? 例えば、侵入者があったとか。

 何にしても、一人と言うのは都合がいい。

 ひまわりはなるべく足音を立てないようにして、守衛に近付く。

 ボーッとしている守衛の背後に周り、首を締め上げる。

 頸動脈を圧迫する。数十秒間、ずっと。

 その間、守衛は何が起こったのかわからなかったようだ。バタバタと手足を激しく動かしていたが、やがてだらりと垂れ下がり、動かなくなった。

 ひまわりは守衛の体をその場に横たえると、胸ポケットからIDを取り出した。

 それを門のリーダーにかざす。と、パスワードを求められた。

 どうしたものか、と思案する。それから、ふとネットにあった情報を思い出した。

 公的機関等でパスワードを入力する際には、手袋などをはめて入力するのがよい。でなければ、指の油分がボタンに付着してしまい、プロはその油分からパスワードを特定してしまう、と。

「もしかしたら、同じような事ができるかもしれない」

 ひまわりにはそうした機能は存在しなかった。とはいえ、似たような事はできる。

 自分の中に存在する、全ての機能を検索する。

 サラの具合が悪い時に仕様する温度感知センサー。

 サラがよそ見をしていた時に障害物や飛翔物を避けるためのモーションセンサー。

 サラの内臓機能や脳機能などを図る簡易FMRI。

 サラから暖かさを感じるための温度検知装置。

 他にも、色々。たくさんの機能が、ひまわりには詰め込まれている。

 それは、浩一郎がひまわりに与えた役割を物語っていた。

 サラを守って欲しい。導いて欲しい。彼には果たせない役割を、ひまわりに担って欲しい。そういう気持ちがあったのだろう。

 彼は不器用だから。彼はある意味では、サラと同じくらいの年齢をした子供のようなのだから。子供に子供の面倒を見ろ、と言うのは酷だろう。

 それでも、彼なりに父親らしい事を考えた結果生まれたのが、ひまわりという存在。

「……大丈夫、大丈夫」

 ひまわりは自分に言い聞かせるように、きっかり二度、呟いた。

 スッと、入力キーの前に手をかざす。

 ひまわりは自分の中に存在する機能を全て使い、パスワードの解析を試みる。

 あれを試して、失敗したらこちらを試す。それでも失敗したら、また別の方法を。

 そうして、幾通りもの方法、機能の組み合わせを試していく。

 あれもだめ、これもだめ。それでも諦めずに、続ける。

 諦めてしまったら、そこでお終いだ。サラと再び会えないかもしれない。

 ふと自分の中に湧いた、嫌な想像を振り払う。

 何度も何度も。幾十通りもの番号の組み合わせを試していく。それは、ひまわりの機能の全てを集めて収集された情報を許に行われた。

 しかし、幾度試してみても一向に門は開く気配がない。

 なぜ? とひまわりはまゆを寄せる。眉間に皺を刻みながら、じっと思案する。

 もしかすると、暗証番号は少しずつ変わっているのかもしれない。

 例えば、昨日使えたはずの番号は今日は使えず、全く別の番号に切り替わっている。

 そう考えれば、これほど試してみても何も起こらないのは納得だった。

 けれども、もしそうだとするなら、ひまわりにはお手上げ、という事になる。

「いいえ、ちょっと待って」

 ひまわりは背後を振り返る。足下に横たわる男の巨躯に、視線を落とした。

 もしかしたら、その日使うナンバーはその日に通知されるのかもしれない。

 だとしたら、今の男の手持ちのどこかに、暗証番号を示す何かがあるはずだ。

 ひまわりは男の側に膝を突き、その懐を探る。

 上着のポケット。パンツ。色々な場所に手を入れ、目的の物を探す。

 そうして、見付けたのは一枚の板だった。そこに、五桁の番号が記されている。

「これだ……!」

 ひまわりは早速、立ち上がってその番号を入力する。

 と、門が開いた。やった、と思わず叫び出しそうになった。

 まだ、助かったわけではない。ぐっと堪えて、門の中にへと入っていく。

 門の中は、まるで別世界だった。とはいえ、そこにはメルヘンチックな要素は一つもない。

 外とは違い、一見しただけで文化レベルの違いを感じる事ができる。

 それほど、ここはひどかった。おそらくは、格差が生んだ貧困層を隔離、管理しておくための場所なのだろう。

 確かに、ここなら隠れ家を用意するにはうってつけだ。何せ外との連絡手段はあまりなく、それでいて物陰や空き家も多い。加えて壁の中の人間は外の人間を快く思っていないのだろう。それはひまわりを見る住人の視線も感じ取る事ができた。

 ひまわりはきょろきょろとあたりを見回す。もしかしたら、サラを見付ける事ができるかもしれないからだ。

 向けられるのは、嫉妬、敵意、無気力。

 自分たちをこんな場所に閉じ込めた連中への怨嗟。もしできる事なら、一人残らず外の人間を根絶やしにしたいと思っている、そんな表情だった。

 ひまわりはサラを守るため、そして自らを守るために、それなりの戦闘スキルはインストールされている。それでも、一整に襲いかかられたら、果たして対処できるかどうか。

 不安が、彼女の胸中に渦を巻く。

 今はまだ、住人のほとんどはひまわりを遠巻きに見ている状態だ。

 しかし、いつ襲ってくるとも限らない。彼らは一日に一度、最低限の食事を与えられているだけだ。常に空腹と戦っている。

 外の人間への不満、収まらない空腹感、なぜ自分がこれほどみじめな目に遭わなくてはならないのかという絶望感。

 それらを視線に乗せて射殺せたなら、きっと今頃ひまわりの四肢は粉微塵に吹き飛んでいた事だろう。

 そうなっていないのは、やはり助かったと言うべきか。

 足の一本でもなくしていたら、サラの捜索どころではなかっただろうから。

 ひまわりは内心でホッとしつつ、その様子を表に出す事なく、進み続ける。

 右に左に視線を飛ばしながら、それでも歩む。

 すると、通りの向こう側から悲鳴のような甲高い声が聞こえてきた。

 声の質からして、おそらく十代。切羽詰まったような、大きな声。

 一瞬にして、サラの姿がひまわりの回路を駆け巡る。

「サラ!」

 ひまわりは駆け出した。サラを助けるべく。

 またたく間に、声のした場所へと到着する。けれど、そこには誰もいなかった。

 否――誰もいない、という事はなかった。

 ひまわりの体温感知センサーに複数人の人間の反応があった。

 一、二、三、四、五人。五人分だ。

 体温や脈拍、体格などから女性だとわかる。残りの四人は男。

 抑え込むように女性に覆いかぶさっている。その様子から、何をしていたのか用意に想像ができた。

 この場に、サラの生体反応はないようだ。

 しかし――、

「そこにいるのはわかっています。大人しく出て来なさい!」

 ひまわりは物陰に隠れていたごろつきに向かって声を張った。

 男たちはのっそりと一人、また一人と姿を現す。その顔は、一様にべたついたにやつき面を晒していた。

「……姉ちゃん、ずいぶんと勇ましい事だなァ」

「俺たちが何をしていたか、わかってんだろう?」

 にやにやと、粘着質な視線がひまわりの全身を舐め回す。その視線に、けれどもひまわりは臆する事なく立ちはだかった。

「ほう……こりゃ肝の据わった姉ちゃんだ」

「人のお楽しみを邪魔してくれやがったんだ。何されたって文句は言えねえよなァ」

「……た、助けて」

 僅かに、縋るような声を絞り出してくる。

 ひまわりはその光景を冷めたような心地で見詰めながら、どうしようかと思案する。

 一刻も早く、サラを探しに行きたい。ここはこのまま、見て見ぬ振りをするべきだろう。

 が、しかしだ。

 ちらりと背後を振り返る。と、ひまわりのすぐ後ろに、二人の男がいた。

 気配はあった。回り込まれたところで、ひまわりとしては些末な事だ。

 だからこそ、放っておいたのだ。けれど、これはいけない。

 退路を断たれてしまった。それだけならまだしも、きっとこの男たちはひまわりも手籠めにしようとしているはずだ。

 万が一サラに危害を加えていた場合、殺害もやむなしと思っていたのだが。

 ちらりと物陰で押さえ付けられている彼女の方を見やる。

 襲われていたのは、サラではなく別の人物だった。おそらく元々ここの住人だろう。

 なら、このまま知らん顔をしてもいいのだが。

「なァ姉ちゃん。アンタっていい体してるよなァ」

 ごろつきの一人が、下卑た笑いとともにひまわりを上から下まで見詰めてくる。

 別段、何とも思わなかった。ただ、一刻も早くこの場を離れなければいけない。

 ごろつきの腕がひまわりの方へと伸びてくる。

 ひまわりはその腕を思い切り払った。ゴキッという音が響き、次いで苦悶の唸り声が聞こえてくる。

 不愉快、というほどではなかったが、耳障りではあった。

 男はその場に蹲り、呻く。

 へし折られた腕はあらぬ方向に曲がっていた。

 その様子を僅かに視界に入れ、次のごろつきへと視線を向ける。

「な、何しやがんだテメェ!」

 答える義理はない。

 さすがに人を殺す事はできないが、あの程度の手傷を負わせる事は可能だ。

 それくらいできなければ、いざという時にサラを守る事などできないのだから。

 じりじりとにじり寄ってくる男たち。

「おりゃあぁぁ!」

 飛びかかってくる男たちを次々にさばいていくひまわり。

 その様子はさながら、武術の達人といった様子だった。

 ものの数分で男たちは地面に伏し、後にはひまわりだけが立っていた。

 苦しそうに呻く男たちに視線を送りながら、襲われていた女性はおずおずとひまわりに声をかける。

「あ、あの……ありがとうございました」

「いえ、無事で何よりです」

 乱れた服を直しながら、女性はひまわりに頭を下げる。

「わ、わたしはミラといいます。あなたのお名前をお聞きしてもいいですか?」

「私? ええと……私はひまわりといいます」

「ひまわり……?」

「ええ。日本に咲く花の名前だそうです」

「日本! 素敵ですね!」

 ミラと名乗った女性はぱぁっと表情を明るくした。

 素敵……かどうかはひまわりにはわからなかった。日本になどもちろん行った事がなかったからだ。

「ありがとうございます。それでは」

 ひまわりはミラに頭を下げ、踵を返す。そのまま、歩き出そうとしたところで、呼び止められた。

「待ってください」

「まだ、何か?」

「あなたは、壁の外の人ですか?」

「……ええ、まあ」

 一瞬の躊躇を見せた後、ひまわりは頷いた。

「なぜ、このようなところに? わたしが言うのもおかしな話ですが、ここはひどいところですよ」

「……そのようですね」

 ひまわりは倒れ伏しているごろつきどもに視線を落としながら、首肯する。

「人を探しているんですよ。小さな女の子です」

 言うべきか、刹那の時間思案した。

 しかし、このまま何の手がかりもない状態で探すのはさすがに無理がある。ので、だめもとでミラに訊ねてみた。

 ミラはむむう、と眉間に皺を寄せ、唸る。が、すぐに首を横に振った。

「ごめんなさい。わたしにはわからない」

「そう……いえ、大丈夫です」

 元々それほど期待してはいなかった。もしかしたらと思っただけだ。

 そうして、ひまわりがその場を去ろうとした、その瞬間だった。

「でも……もしかすると」

「? 何か心当たりが?」

「え、ええと……間違っているかもしれませんが」

 そう前置きしてから数瞬の後、意を決したようにミラは口を開いた。

「外れの方にあるお屋敷に不思議な物が現れたとか」

「不思議な物? それは一体何でしょう?」

「わたしもわかりません。でも、こんな事今までになかった」

 ひまわりは思考を巡らせる。

 もしかしたら、そこにサラに繋がるヒントがあるのかもしれない。

 そう思うと同時に、駆け出していた。背後からミラの声が聞こえてくるが、何を言っているのかわからなかった。

 とにかく、今はサラの身が何より心配だった。

 早く、サラのところへ行かなければ。気持ちばかりが、そう急くのだった。

 

 

                  ◇

 

 

 何が起こっている?

 三十分ほど前に起こった地鳴りのような音。その音に、男は眉根を寄せた。

 彼はスーツに着いたほこりを払うと、眉間に皺を寄せたまま音のした方角を振り返る。

「……何が起こっている?」

 今度は口にしてみた。けれど、だからといって答えが得られるわけではない。

 数秒、思案してから、男は目の前のモニタに視線を戻した。

 今は、集中しよう。

 現在、彼の眼前にあるのは、あのメカニックの頭から抽出した形を成さない資料だ。

 これを解析している。残り時間はおよそ十五分といったところだろう。

「その間に何もなければいいが、まあ大丈夫だろう」

 ぼそりと呟いてから、解析を続行する。

 元来、人間の脳に蓄積されたデータを解析するのは非常に困難な業だ。

 それは、人間の脳には今だもって解明できていない部分があるからである。

 本人にとっても、とても全てを把握できているというわけではない。

 それを解析しようというのだ。難しくて当然というものだろう。

「それでも、やり遂げなければならない」

 目的のためには、このプロセスは絶対に必要だった。

 目的――そう、最愛の妹をこの世に蘇らせる。そのためには。

 

 

                  ◇

 

「ここだ」

 ライチは立ち止まり、前方を指差す。サラも、そちらへと目を向けた。

 言葉に詰まるとはこの事なのだろう。目の前のそれを、サラは呆けたように見ていた。

「何……これ」

「俺が知るはずもないけど、まあ大体の予想は付くね」

 ライチはあきれたように嘆息する。何、とは言ったものの、サラにもこれが何なのかは予想が付いた。

 問題は、なぜこれがこの場所にあるか、という事だ。

「一体誰がこんなものを……?」

 サラは眼前で蹲る巨大な鉄隗を見上げながら、不思議に思った。

 けれど、そんなサラの気持ちなど知らずにいるのか、ライチはスタスタと鉄隗の側を通り抜けようとしていた。

「え? ちょっと待って」

 危険だよ、と言おうとして、しかしサラは言えなかった。

 なぜなら、ライチはサラの言葉を待たずに、さっさと鉄隗の下に空いた大きな穴の中へ潜ってしまったから。

「……だ、大丈夫?」

 サラは穴に近付いて、呼びかける。あなたの中はほんのりと暗かったが、全く見えないと言うほどでもなかった。

 ライチは曲げた膝を伸ばして、足下に着いたほこりを払っていた。

 それから、スッとサラに向かって顔を向け、親指を立てる。

「大丈夫。サラも降りて来なよ」

「で、でも……」

「俺がここで受け止めるから」

「…………」

 サラは一瞬、逡巡を見せた。が、すぐに意を決して、飛び降りる。

 もし、目測を誤って瓦礫の上に落ちたりすれば、一たまりもないだろう。

 絶対に受け止めてもらわなくてはいけない。でないと、死んでしまうかもしれない。 

「……ほっ」

 お尻から背中にかけてが痛かったが、それだけだった。

 死んでいないところを見ると、ライチが受け止めてくれたのだろう。

 そう思い、あたりを見回す。と、サラの下でライチが目を回していた。

「ど、退いてくれ……」

「ああ、ごめん!」

 サラはビクッと体を跳ねさせると、慌ててライチの上から退いた。

 ライチは目を回したまま、数秒間動けない様子だった。さすがに大袈裟だろう。

 サラは何だか自分が重たいと言われているような気がして、頬を膨らませた。

 しばらくしてから、ようやくライチが起き上がる。いてて、と頭を押さえていた。

「それにしても、ここはどこだろう?」

 ライチは見た事もない空間に、首を傾げていた。その様子につられ、サラも周囲を見回す。

「……女の子の部屋?」

 そこは、言っては何だが、可愛らしい部屋のように思えた。

 まるで、女の子の部屋という印象だ。が、その事が更に違和感を加速させる。

「どうしてこんなところに?」

 ライチの呟きに、サラは頷いた。

 確かに、どうして、と言いたくもなるだろう。

 あの巨大な鉄の塊といい、この部屋といい、これはどういう事なのだろう。

 サラにも、ライチにもその答えはわからなかった。

 ただ、一つだけ予感があった。おそらくこの先に、浩一郎がいる……という予感が。

 

 

                  ◇

 

 

 リンダは小さく嘆息した。

 侵入に成功(と言っていいのかわからないが)したのはよかったけれど、これから先をどうしたものだろうか。

 浩一郎が捕らえられている場所に心当たりなど、もちろんあるはずがなかった。これ以上の手がかりはなく、従って捜索は運任せという事になる。

 それでも、浩一郎を見付けるのは時間の問題だろう。だが、その前に件の誘拐犯の一味と鉢合わせになったらどうしよう。

 リンダの目下の不安はそれだった。冷静さを欠いていたつもりはなかったが、それでもここまでの自分は冷静さを失っていたのだろう。

 今になって、その事に思い至るとは。

「せめて武器になるものを持ってくればよかったかなぁ」

 独り言ちる。とは言ってみたものの、仮にあったとしても扱える自信はない。

 実験機材なら、きっと余裕だろうけれど。

 リンダはもう一度嘆息して、前を向く。

「言ってても始まらないか」

 ここまで来たのだ。後戻りなどできるはずがなかった。

 リンダはふーっと息を吐くと、キッと前方へ視線をやった。

 ここから先は、何が出てきても不思議じゃない。それこそ、殺人も厭わないような人間が出てくる可能性だってあった。

 だからといって引き返すわけにはいかない。今こうしている間にも、浩一郎が酷い目に遭っているのかもしれないから。

 どうにかして、彼を見付けなければならない。そのためには、あの妙な少女の言う事に耳を傾けてはいけない。

「……そう言えば、あの子は一体どこへ?」

 不意に思い立って、振り返る。ケイトと名乗った少女(というかプラスチック箱)はいつの間にか姿を消していた。果たして、どこへ消えてしまったのだろうか。

「ま、いいか」

 そんな事より、今は浩一郎だ。リンダは自分の中で気持ちを切り替える。

 彼を見付けて、連れ戻さなくては。サラのためにも。

 そして、自分のためにも。

「……私は何を考えているの?」

 リンダは場違いにも体が熱くなるのを感じて、首を振る。

 今はそんな事を考えている場合じゃあない。とにかく前に進まなくては。

 自分に言い聞かせ、軽く頬を張る。

 ――と、その時、リンダは背後に気配を感じて振り返った。

「…………何?」

 けれども、そこには何もなかった。もちろん、誰もいない。

 ぞわぞわ、と背筋を冷たい感触が駆け巡る。

 こんな場所だ。何が出てきても不思議ではない。

 リンダは自らの立場を忘れ、非科学的な妄想に囚われそうになった。

 その妄想を頭の中から追い出そうと、首を振る。それから、毅然と前を向いた。

「だめだ、弱気になっているわ、私」

 ふーっと息を吐く。深く吸って、また吐く。何度か繰り返している内に、体が軽くなったような気がした。

 それにしても、何だって今頃、浩一郎を浚ったのだろう。

 リンダはそもそもの疑問を考えていた。

 浩一郎は確かに優秀なメカニックだ。だからといって、ただそれだけでしかない。

 彼を浚ってまで、犯人は何がしたかったのか。そこにはどういった意味があったのか。

 リンダは眉間に皺を寄せ、考えていた。けれど、何がどうなっているのか見当も付かない。

 そうして考えながら歩いていると、ゴッと額を何かにぶつけてしまった。

「……ってえ」

 その場に蹲り、悶えるリンダ。顔を上げ、一体何があったのかとぶつけた箇所を見る。

 そこはドアだった。それも、かなり厳重なセキュリティを施されている。

 指紋認証や顔認証はもちろんの事、アナログ式の鍵を差し込む穴まである。

 つまり、電子的セキュリティを突破しても、最後は鍵がなければならないという事だ。

「……ええと、これはつまり」

 ――私、ここから出られない?

 リンダは背後を振り返り、首を傾げる。数瞬の後、その事実が彼女の中で現実感を持つ。

「ど、どうして……いや、一体どうしたらいいのよ!」

 リンダは慌てて、歩き回った。見える範囲にある物を片っ端から手に取る。

 鍵が、どこかに仕舞われていないだろうか。落ちてはいないだろうかと思ったからだ。

 もちろん、鍵があったところで、指紋認証や顔認証がある。開ける事は叶わないだろう。

 どうしたらいいのか、皆目見当も付かない。

「そうだ、電子セキュリティを突破すれば……」

 鍵がない。思考は堂々巡りを突ける。

 いずれにしても、どうしようもない事だった 。

 リンダは途方に暮れ、天井を見上げた。

 どうするべきだろう、こういう場合。ここまで乗ってきたロボットに戻るべきだろうか。

 ぐるぐると頭の中で思案が巡る。けれど、答えは出ない。

「……ああ、もう!」

 リンダはその場にしゃがみ込み、ガシガシと頭を掻いた。

 どうしよう、という問いかけが何度も何度も脳内を駆け回る。しかし回答はない。

「浩一郎……私は一体どうしたらいいの?」

「お手伝いしましょうか?」

 不意に聞こえてきたのは、少し前に聞いた声とモーター音。

 リンダは顔を上げ、声のした方へと顔を向ける。

「……あなたは」

 そこにいたのは、プラスチックの箱だった。

 ケイト。ちょっと前にいなくなったと思ったら、どこへ行っていたのだろう。

「あなた、一体どこへ行っていたのよ?」

「いえ、お困りだと思いまして。これを探して来ました」

 ケイトは三本の指のアームを器用に使い、何かを差し出してきた。

 もはや、そういうシーンには驚かない。ケイトという存在そのものが稀有なのだから。

 それよりも、重要なのは彼女が差し出してきたそれだ。

「これは……鍵?」

 リンダが受け取ったのは、まごう事なく鍵だった。

 ずいぶんと質素な作りの、それこそ一昔前に使われていたものだ。

「もしかしてこれって……」

「はい。その扉の鍵です」

「どうして……いえ、どこから?」

 リンダも、隅々まで探したつもりだった。それでも見付けられなかったのだ。

 それを、このプラスチック箱は一体どこから手に入れて来たのだろう。

「あなたは……彼を連れ去った連中の仲間ではないの?」

「仲間……どうなのでしょう?」

「どうなのでしょうって……」

 こちらが質問しているのだが。

 リンダは数秒、じっとケイトを見ていた。どう判断したものか、わからなかった。

 とはいえ、このままここで立ち止まっているわけにもいかない。

 ケイトから差し出された鍵を鍵穴に差し込み、回し込む。と、暗証番号を求められた。

「今度はナンバーね」

 リンダはじっくりと、数字の並んだキーを睨んだ。

 ゼロから順番に、数字の列を追っていく。何か、ヒントになるような痕跡はないだろうか。

「ねえ……あなたはこれってわかる?」

 プラスチック箱に声をかけ、訊ねてみる。

 結局、一人の力ではわからなかった。ただ、このケイトという少女ならあるいは。

 味方になってくれる保障はない。けれど、先ほど鍵を探し出してきてくれた。

 その事だけでも、縋るには十分な糸だった。

 ケイトは駆動音を響かせながら、リンダの隣に来た。

 それから、例のアームを伸ばして、ナンバーの表面を撫でていく。

「ワン……ワン……ゼロ……エイト……ゼロ……ツー」

 ケイトは呟きとともに、その数字を押していく。

 なぜ、わかったのだろう。あのアームの先に何か便利な機能でも付いているのだろうか。

 腑に落ちないものを感じながら、リンダは最後の鍵を要求する。

「最後は……顔認証か。これはどうしよう?」

 プラスチック箱は考え込むように、じっと微動だにしなくなった。

 さほど時間も経たずに、次の行動に移る。

「……どこへ行くのよ?」

 ケイトはさっと振り返ると、どこかへと行ってしまった。

 どこへ行ってしまったのだろう。リンダはその場に立ち尽くしたまま、呆然とする。

 もしかすると、このまま扉は開かないかもしれない。それは困る。

 それでは、浩一郎を探しに行く事は叶わないからだ。とはいえ、彼女一人では何もできないのも事実。

 自分の無力さにほとほと呆れてしまう。

 この事件が起きてから、ずっとそうだ。これまでの人生、自分は優秀な女だと思っていた。

 しかし、不測の事態が起こってしまえば、ずっと無力だ。浩一郎を助ける事すら容易にできない。

 ひまわりやケイトなど、誰かの手を借りなくては何もできないのだ。

 それが、悔しかった。一人で何でも出来る、と思っていたわけではない。しかし、ここまで自分が役立たずだとも思ってはいなかったのだ。

 今だって、もしこの扉が開いて、向こう側から犯人の一味が出て来たら、と思うと足下が震えてしまう。

 それくらい、弱い人間だったという事だ。

 その事に、少なくない憤りを感じる。

 リンダはじんわりと視界が歪むのを覚えた。目許に手やると、自分が泣いているのだとわかった。

 ――なぜ、泣いているのだろう。辛い思いをしているのは、私ではないのに。

 リンダは目尻に溜まった涙を拭う。こんな姿、あのケイトとかいうプラスチック箱には見せられないな。

 サラやひまわり。もちろん、浩一郎にも。

 リンダはふっと息を吐くと、軽く頬を張った。

 そうして、リンダが自分を奮い立たせていると、ケイトが戻って来た。

「どこへ行っていたの?」

「ええ、まあちょっと」

 ケイトは言葉を濁して、扉の前へ移動する。

 それから、件のアームを伸ばし、カメラの前にかざした。

 かちりと音がする。同じような音が、何度となく繰り返された。

 その後、扉は一人でに開いた。

「なぜ? どうやったの?」

「……それを聞いて、どうするのですか?」

「え? ええと……ええ、そうね」

 取り乱しかけた自分を恥じ、リンダは居住まいを正す。

 一度まぶたを閉じ、それからまた開いた。

「なぜ、あなたは協力してくれるの?」

 ここまで、このプラスチック箱の意図がわからなかった。

 おそらく、リンダに協力してくれるつもりは十分あるのだろう。それは信用に足る。

 しかし、ではなぜこれほど協力的なのか。その裏にあるものはなんなのか。

「あなたは……一体何がしたいのよ」

 リンダは振り返る。――しかし、そこに既にケイトの姿はなかった。

 ぞわり、と背筋に冷たいものが走るのを、感じた。

 

 

                ◇

 

 

 ケイトの姿が見えなくなって、数十分が経過していた。

 浩一郎は歩を進めながら、ちらりと背後を振り返る。

 なぜ、いなくなってしまったのか。もしかすると、この先に何か罠が待ち受けているのだろうか。

 嫌な想像が、浩一郎の頭の中を充満していく。

 最悪の場合、死が待っている。死ぬ事自体、というよりは、サラに会えなくなる事が辛かった。

 だからこそ、簡単には死ねない。否や、絶対に死ねない。

 浩一郎はそう自分に言い聞かせながら、歩き続ける。

 すると、ふと眼前が明るくなってきた。

 煌々とした明かりに、浩一郎は思わず目を細めた。視界がぼんやりとしか見えなくなる。

 その場に立ち止まり、しばらく待っていた。段々と目が慣れて、周囲の状況がわかった。

 広い空間に出たようだ。ここも、あの男の拠点の中なのだろうか。

 浩一郎は周囲を見回しながら、慎重に進んでいく。――と、背後で物音がした。

「――だめですよ、勝手に出歩いたりしたら」

 バッと慌てて振り返ると、そこには件のあの男がいた。

 浩一郎を連れ去った主犯格。

「ロドニー……」

「ああ、僕の名前を知っているんですか? 名乗らなかったのに」

「……妹という人から聞いたんだ」

「ケイト……全く余計な事をする子だ」

 男――ロドニーはくすくすと笑って、余裕たっぷりな表情を浩一郎へと向けていた。

「であるなら、僕の本当の目的も知っているのでしょうか?」

「あ、ああ……お前は、妹の復活を目論んでいる」

「まあ、概ね正解です」

「概ね?」

 浩一郎は怪訝そうに眉根を寄せた。

 生前を模した高高度な人工知能による故人の模倣。

 そして、浩一郎が作り上げたひまわりの存在。

 その二つを掛け合わせれば、死んだはずの人間とそっくりな存在を創り出す事は可能だ。

 それを、人は蘇りと呼ぶはずだ。

「……勘違いですよ」

「何を……言っているんだ?」

「死んだ人間は蘇らない。死人はどこまでいっても死人です」

 ロドニーはゆっくりと、しかしはっきりとそう言った。

 瞳を伏せ、顔から笑みを消して、悲しげに。

「あなたは、僕が身勝手な理由からこんな事をしていると思っているのですね」

「……まあ」

 身勝手、と思っていたわけではない。が、言われてみればその通りだ。

 家族が亡くなるのは、悲しい。誰だってそうだ。

 しかし、ほとんどの人はその悲しみを乗り越えて生きていく。多くの場合は事件など起こさずに、静かに、強く。

 けれど、目の前の男はその悲しみを受け止められなかった。だからこそ、こうして浩一郎を浚い、ひまわりの秘密を探ろうとしている。

 それを、我がままだと罵る事はできた。お前は身勝手な奴だとなじるのは簡単だ。

 実際、浩一郎はこうして誘拐されている。暴力も受けたし、それ以外の被害にもあった。

 だから、それらを口にする権利は有しているだろう。

 だが、浩一郎はロドニーに対して、罵倒を浴びせる気にはなれなかった。なぜかは、自分でもよくわからない。

「俺は……お前を許さない」

「……まあそうでしょうとも」

 ロドニーは両手を広げ、自嘲気味に笑んだ。

 その表情には、余裕、というよりはどこか諦めに似た感情が読み取れたような気がした。

「しかし、お前の悲しみはわかる……と思う」

「わかる? 僕の気持ちが?」

 ロドニーは瞳を見開いて、小首を傾げた。

「……あなたに何がわかる? 大切な妹を失った僕の気持ちが」

 彼の声は、少しだけ震えていた。その震えを抑えようと、必死になってる。

 それが、浩一郎には辛かった。苦しかった。痛かった。

 自分に危害を加えた男。大切な人に悲しみを撒き散らした男。 

 とても許す気にはなれない。きっと、一生かかっても変わらないだろう。

 それでも、浩一郎は彼に……ロドニーに報復したいとは、微塵も思わなかった。

「俺も……妻を亡くしているんだ」

「…………」

 ロドニーは答えず、ただ黙っていた。

 両手を下ろし、視線を伏せる。その姿は、まるで子供のようだった。

 体の大きな子供だと浩一郎は思った。かつての、孤独だった自分のようだ、と。

「妹は僕にとって、かけがえのないものでした。たった一人の家族だった」

「……ああ」

「妹を取り戻すためなら、僕は何だってする。あなたを殺す事も厭わない」

 厭わない――その言葉を紡ぐ声は、震えていた。

 嘘だ、と浩一郎は思った。厭わないはずがない。

 何でもする、という彼の言葉は本当だろう。そこに偽りはないと思われる。

 けれど、彼の言葉の全てが真実だとも思えなかった。

 まるで、自分を偽るために、自らを騙すために語っているかのようだ。

「……死んだ人間は蘇らないんだ。何をしても」

 どれだけ姿形を模倣しても、どれだけ声を近付けても。

 そこにあるのは、よく似た別の何かだった。ひまわりは、かつて愛した女性ではない。

 彼女は、既にこの世にはいない。蘇りはしない。

 もう、彼女の暖かい肩を、柔らかな髪を、抱く事はできないのだ。

「わかっています……わかっている!」

 ロドニーは声を荒げ、地団駄を踏んだ。

 我がままを通そうと、躍起になっているように、浩一郎には思えた。

 子供だ。本当に、子供だ。

 文字通り、彼の時間は止まったままなのだろう。

 ただ一人の家族を奪われた、哀れな少年。それが、目の間にいる男の正体だ。

 それに気が付いた瞬間、浩一郎は彼に対するあらゆる敵意を失っていた。

 彼の妹が望んだように、彼を助けたいと、そう思えた。

「君は……まだ過去にいる。まだ、妹が生きていた時代を生きている」

「何を言っているんだ、貴様は! 僕は今ここにいる。知識を身に付け、計画を立て、資金を得て、そして自分の望む未来のために行動を起こした!」

「……いいや」

 ロドニーの言葉に、しかし浩一郎はゆっくりと首を振った。

 一歩、また一歩と彼に近付いていく。

 浩一郎が一歩近付く度に、ロドニーは一歩後ずさった。

「止めろ……来るな……僕は、僕の目的を果たすんだ……!」

「俺は頼まれたんだ。君を救って欲しいと」

 無論、最初は断るか無視するつもりだった。あんな茶番に付き合ってなどいられない。

 そうだ。これ茶番だ。この少年に、何がったのか、これまでの人生を浩一郎は知らない。

 知らないままに、助けようなどとは、茶番以外の何であろうか。

 浩一郎の歩に合わせて、少年は後ずさる。けれど、すぐに足をもつれさせた。

 そのまま、倒れ込む。浩一郎を見上げる瞳は、どこか恐怖を抱いているようで。

 けれど、その恐怖は浩一郎に向けらえたものではない。現実に向けられたものだ。

 現実。妹の、たった一人の家族の死を受け入れなければならないという、現実。

 どれほど世界が変わろうと、どれほど人類が歩みを進めようと、克服できない死。

 ロドニーは……少年は恐怖する。大切な人の死という現実を。

 だからこそ、復活を望んだ。それが理に反する事だったとしても、だ。

「来るな……来るなって!」

 パァン! と乾いた音が響く。何が起こったのか、浩一郎には理解できなかった。

 ただ、右の肩のあたりがじんわりと熱くなっていくのがわかった。熱は徐々に、広がっていく。

 ゆっくりと、視線をそこへと向けた。赤い染みが、広がっていた。

「何……を」

 それから、視線をロドニーの方へと向けた。彼の手には、拳銃が握られている。

 表情は恐怖に歪んでいた。彼にとって、今の浩一郎は死神のように見えたのかもしれない。

 本当の意味で、愛する妹を奪っていく死神。

 だからこそ、打ったのだろう。

 そこまで考えて、浩一郎の思考は途切れた。

 打たれた場所を中心に、痛みが駆け巡ったからだ。

 嫌な汗が全身から噴き出す。膝を突き、その場に蹲る。

「あ、ああ……うう」

 嗚咽とも呻きとも取れる微かな声が浩一郎の口から洩れた。

「ぼ、僕は自分の目的を果たす。貴様の脳内データはもうすぐ解析が完了する。そうなったら、貴様は用済みだ!」

「……なら、なぜ俺を殺さない?」

「何?」

 浩一郎の絞り出すような声に、少年は眉根を寄せる。

 眉間に深く刻まれた皺が、彼の疑問を明確に表しているようだった。

「なぜ……俺を殺さない。もうすぐ用済みなのだろう? だったら、今殺しても同じだ」

「それは……万が一の保険だ。解析が失敗に終わって、もう一度データが必要になった時、あんたが生きていないとデータが取れないだろう」

「……なるほど」

 彼の言葉に、浩一郎はそう呟いた。

 もちろん、納得したわけではない。少年のその言葉は、事実の一部でしかないのだろう。

 実際の彼はきっと心優しい人物だったはずだ。

 だからこそ、妹のためにここまでの事をする事ができた。そして、妹もまた、兄を慕っていたのだろう。

 彼女も、兄を救って欲しいと願った。双方ともに、お互いを思っているのだ。

「あんたはただのデータだ。あのアンドロイドを作ったあんたの技術があれば、僕は妹をもう一度……」

「本当に、そう思っているのか?」

「…………うるさい」

 浩一郎の持つ技術があれば、もう一度妹を呼び戻す事ができる。本気でそんな事を考えているはずがなかった。

 不可能なものは不可能だ。どれだけ努力しても、どれだけ願っても、叶えられない事は多々ある。

「願ったものは同じだ。俺も、君も」

 額を、頬を、汗が伝う。絞り出す声が弱々しく、空虚に溶けていく。

 撃たれるのは生まれて初めての経験だった。凄く痛かった。

 熱い。熱い。熱い。でも、同時に冷たい。

 右肩が酷く重かった。それまで、普通だったのに。撃たれた瞬間から、重かった。

 ああ、君も死を前にして、こういう気持ちだったのだろうか。

 浩一郎はサラの母親。かつての最愛の人を思い出していた。

 ロドニーが立ち上がり、怒りとも悲しみとも付かない、混乱した表情で浩一郎を見下ろしていた。

 銃口が、浩一郎の額に押し付けられる。この科学とテクノロジーの発展した世界で、拳銃という前時代の兵器によって殺傷される。

 それのなんと皮肉な事だろう。何と悲しい事だろう。

 浩一郎は両の瞳を閉じ、すうっと息を吸った。

 心は穏やかだった。ただ、痛みのために頭を冴え、けれど鎮静していた。

「何を……笑っている」

「笑って……俺は、笑ってるか?」

「死ぬのが怖くはないのか?」

「君は……俺を殺さないのだろう?」

「それも、解析が終わるまでです」

 ロドニーはニッと、口の端を釣り上げた。

 けれど、それは不敵な笑み、というよりは、何かを噛み殺しているように浩一郎には見えた。

 彼の抱えているものを、浩一郎は知らない。だから、偉そうな事は言えない。

 でも……と目の前の少年を前にして、浩一郎は考える。

 もはや、彼は浩一郎を浚った犯罪者には思えなかった。

 ずいぶんと都合のいい考えをしていると自分でも思う。でも、そうなってしまったのっだから仕方がない。

 人は機械のように何でもすぐに割り切れるものではない。

 そこが、機械と人の境目なのだろう。


「彼から離れないさい!」


 二人の耳に、凛とした声が聞こえてきた。

 ロドニーは背後を振り返る。と、そこには、一人の女性がいた。

 凛々しい面立ちをした、賢そうな女性だ。

「……なぜ、ここに?」

 浩一郎は呆然と呟いた。まさか、リンダがここにいようとは思ってもみなかったのだ。

「もちろん、あなたを助けに来たのよ、浩一郎」

 リンダは浩一郎に視線を向けると、怒鳴るように声を張り上げた。

 ここまでの恐怖や困惑。その全てを、まるで浩一郎にぶつけるかのように。

 その行いは理不尽だと、理性ではわかっていた。しかし、自分ではどうしようもない。

 ただただ、今は自身の感情のコントロールが利かないのだ。

「……あなたは一体誰ですか? そしてどうやってここに?」

「ホフマン教授から知恵を授かってね」

「ホフマン教授? ……それはあの、権威、ドクター・ホフマンか」

「ええ。そして彼女のお陰でもある」

「彼女? ……お前」

 ロドニーは背を向けていて、浩一郎からは彼の表情を読み取る事ができなかった。

 だけれど、その声音は怒気を含んでいて、明らかに苛立ちが伺える。

「なぜ、お前がこんな事をしている?」

「お久しぶりですね、兄さん」

「兄さん……ケイトか」

 聞き覚えのある、合成音声が耳に届く。

 浩一郎はフッと表情を弛緩させた。どこへ行っていたのかと思えば、リンダと一緒だったとは。

「何をしているんだ、お前は」

「兄さん。わたしは、兄さんを止めたいと思っています」

「僕を……止める、だと?」

 ロドニーの肩が僅かに震えている。内心の怒りを我慢しているのかもしれなかった。

 いずれにせよ、ここにケイトが現れた事は願ってもない事だった。

 もし、彼女がロドニーを、兄を説得できれば、全ては終わる。仮にできなかったとしても、彼女の協力があれば、きっとうまくいくだろう。

 それは、浩一郎にとってだけではない。ロドニーにとっても、いい方向に転ぶ可能性が高い。いや、そうなるように努めなければならない。

 でなければ、あらゆる事が無に帰してしまうのだから。

「僕はお前のために、全てを投げ打ってこうして行動している」

「わたしは、そんな事を望んではいません」

「……だが、お前はまだ若い。このまま成長できないなど、そんな不憫な事……」

 数瞬、沈黙が降りる。その静寂は、まるでロドニーの言葉を否定しているかのようだった。

「……いずれにしても、わたしが成長をする事はあり得ません。それは、兄さんもよく知っているはずです。なぜなら……」

「止めろ! それ以上言うんじゃない!」

 ロドニーは頭を抱え、絶叫する。

 まさしく、悲痛の叫びだった。たった一言で、これほど心情を表しているのも珍しいだろう。

 よろりとロドニーの体が揺れる。その様は病を得た人のようだった。

 病……体の、ではなく心の病。死んだはずの妹を想うあまり、彼を蝕み続けている病。

 ロドニーはバッと浩一郎を振り返る。その表情は苦悶に歪んでいて、痛々しかった。

 これまでの彼の行動や言説から掛け離れた、痛々しい蒼白な顔面。

 己の存在理由を根こそぎ否定されてかのような、鎮痛な面持ちが、正面から浩一郎を捉える。

「貴様! ケイトに何をした!」

 ヒステリックに叫び声を上げるロドニー。けれど、そんな彼を浩一郎は哀れみすら抱きながら、見詰めていた。

「……何だ、その表情は、その顔は! 僕を憐れんでいるのか、馬鹿にしているのか!」

 銃口が、浩一郎に向けられる。引き金に欠けられた指はいつ引かれてもおかしくはない。

 そんな兄に、ケイトは言う。おそらく、ロドニーが聞きたくないであろう言葉を。

「彼は……何もしていません。彼女も。これは、わたしの意思です」

「ふ、ふざけるな! ケイトが……僕のケイトがそんな事を言うはずがないだろう!」

 ロドニーは両目を見開き、叫ぶ。カタカタと銃口が震えていた。

「嘘ではありません。これはわたしの意思です」

「何を言っているんだ、ただのプログラムだろう、お前は!」

 口にして、ハッとロドニーは背後を振り返った。

 生前の妹を模して作ったはずの、プログラムされたまがいもののそれを。

「……そうです。わたしはただのプログラム。兄さんの妹ではありません」

「違う……今のは、違うんだ、ケイト」

 果たして、彼女はどんな表情をしていたのだろう。

 浩一郎はケイトの心が、プラスチック箱の中に閉じ込められている事を不憫に思った。

 もしも、彼女に表情があれば、きっと悲しさを讃えていただろう。

 同時に、もっとわかり合えたかもしれない。兄妹は互いの絆を知れたのかもしれない。

 しかしそれは、叶わない事だ。これからもずっと今のケイトはケイトのままで。

 ロドニーも、自らの思い出の中の妹を想いながら、一生を過ごしていくのだろう。

 それが、悲しい事なのかはわからなかった。けれども、少なくとも、二人はそうして過ごしていく。

 ロドニーの望通りになったとしても、ならなかったとしても、その先の未来は、悲しみに満ち溢れたものになっていただろう。

 リンダはロドニーが膝から崩れ落ちるのを見ると、おそるおそる動き出した。

 彼のすぐ側を通り抜け、浩一郎の許へとゆっくりと歩み寄る。

「大丈夫?」

「あ、ああ……うん、大丈夫」

 浩一郎はリンダの手を借りて、立ち上がった。

 それから、兄妹へと視線を向ける。

「彼らは……どうする?」

「もちろん、警察に引き渡すさ。こんな事になったのに、何もない、というわけにはいかないだろう?」

「ええ、そうね」

 リンダは悲しみに暮れるロドニーを見詰めながら、頷いた。

 その時――だった。

「パパ!」

 どこからともなく、声がした。どこからだ?

 浩一郎は周囲へと視線を巡らせる。と、すぐに声の主はいた。

 サラだった。小さな体躯を精一杯広げ、大きく手を振っていた。

 隣には、見知らぬ少年がいた。みすぼらしい格好をした、小柄な少年だった。

「サラ!」

 浩一郎は目を見張り、手を振るサラを眺めた。サラは浩一郎と会えたのがよほど嬉しかったのだろう。にっこりと白い歯を見せて笑っていた。

「……今、なんて言った?」

「パパ、待ってて。今行くから!」

 サラは手を振るのを中断して、きょろきょろと周囲を見回した。

 それから、一目散に浩一郎の許へと駆け寄ってくる。

 親子は再会した。勢いよく浩一郎の胸に飛び込むサラ。その背中を、少年は微笑ましそうに眺めていた。

 リンダも、サラと浩一郎の再会に心の底がジンと暖かくなるのを感じた。

 ただ一人、その光景をぼんやりと眺めていた者があった。

 ロドニー。彼だけが、二人の親子の再会を虚ろな瞳で眺めていた。

 絶望の最中。何もかもが崩れようとしている自分。

 そして、抱き合い、再び会えた事を喜んでいる親子。

 彼らの姿は、ロドニーにとって神経を逆撫でする目障りなものでしかなかった。

「……何を、やっているんだ、貴様らは」

 ぼんやりと呟き、取り落としていた拳銃を拾い上げる。

 銃口を、再会の喜びに浸る親子へと向ける。

 引き金に指を掛け、一瞬の躊躇もなく引いた。

 乾いた音が、リンダの耳朶に響く。数秒遅れて、体が反応した。

 けれど、その数秒の遅れが、命取りだった。いや、引き金を引かせた時点で事は終わっていたと言っていいだろう。

 弾丸は抱き合う浩一郎たちの許へと、一直線に向かっていた。その勢いを止める事は、できない。

 全てがスローモーションに思えた。サラと浩一郎の声、少女が連れていた少年がこちらへ向かってくる様子。

 そして、リンダ自身の動き。

 声も体も、ゆっくりと動いている。その最中にあって、彼女の脳内だけが高速に思考を巡らせていた。

 しかし、どれほど高速に思考しようとも、弾丸の速度には敵わなかった。

 だめだ――リンダの心が、絶望で埋め尽くされる。

「……ああ」

 けれども、弾丸が放たれたと同時に、浩一郎とサラの前に何かが飛び出してきた。

 人の姿をしたそれは、弾丸が当たると、その勢いのままに後方へと倒れ込んだ。

 サラと浩一郎の上へと、その体を投げ出す。浩一郎は咄嗟に、サラへと覆い被さる。

「……あなたは」

 リンダは呆然と、そう呟いた。驚きと絶望感に声を震わせる。

 そこにいたのは、誰あろうひまわりだった。彼女は倒れたまま、ぴくりとも動かない。

 まさか、死んでしまったのだろうか。リンダは胸の内を恐怖が満たしていくのを感じた。

 だめだ。死人が出てしまった。このままでは済まされないだろう。

 頭を抱えているリンダ。彼女浩一郎たちには、彼女を気遣う余裕もないのだろう。

 すぐさまひまわりを抱き起していた。

 と、そこで違和感をリンダは覚えた。一体、どういう違和感なのだろうか。

 ちらりとロドニーを見やる。彼は脱力したように、その場に座り込んでいた。

 リンダはすぐに彼に駆け寄り、その手から拳銃を蹴り落とす。素早く拾い、浩一郎に元へと駆け寄った。

「大丈夫!」

 ロドニーを警戒しながら、リンダはひまわりの方へと視線を向ける。

 そこで、リンダは違和感の正体を知った。

「あなたは……」

 実際に弾丸が当たったのであろう、左胸に穿たれた小さな穴。

 しかし、その穴からは一滴の血も流れてはいなかった。それどころか、そこから僅かに覗く彼女の体内は、硬質な何かで出来ている印象を与えてくる。

 まるで、人ではないかのようなその様子に、リンダは大きく目を見開く。

「くっ……ふふふ」

 ロドニーが小さく肩を震わせる。ゆらりと不気味に立ち上がると、彼はニッと口の端を釣り上げ、リンダに対して嘲るような視線を向けていた。

「知らなかったのか? そいつの正体を?」

 体裁を取り繕う事を止めたのか、彼の口調は粗野なものだった。

 けれど、そんな些末な事よりも今は、ひまわりの事の方が重大だ。

 リンダはロドニーをキッと睨み据えると、鋭く問う。

「正体ってどういう事?」

「どういう事も何も、そのままの意味だ。あんたのが人だと思っていたそいつは人間ではなかったという事だよ」

「人間では……なかった」

 唖然とするリンダ。言葉の意味が、うまく繋がらなかった。

 人間ではなかった。だとしたら、ひまわりは一体何だったのか。

 彼女はロドニーを油断なく睨んだまま、浩一郎へと訊ねる。

「ねえ、これは一体どういう事なの?」

「…………」

 彼は答えなかった。ただ、悲嘆に暮れたように座り込んだままだ。

 サラは、知っていたのだろうか。ひまわりの正体を。

「サラ……ねえサラ、教えて」

「……ひまわりは、ロボットだったの」

「ロボット……でも、その姿はまるで……」

 まるで、人間のようだと思った。美しい、人間の女性。

 しかし、思い返せば思い当たるフシはあったように思う。

「でも……だって、人型のアンドロイドは……」

「製造と所有を禁じる……我が国の法律ではそうなっている」

 浩一郎はぼそりと、まるで何でもない事のように呟いた。

 けれど、実際に彼のやった事は法律違反。つまりは犯罪だ。

 なぜ、彼がそのような事をしたのかについては想像が付く。おそらくは、サラのためを思って、そして自分のためにやった事なのだろう。

 最愛の人と再び会いたい。それが動機だったに違いない。

 しかし、どれほどの理由があったとしても、犯罪は犯罪だ。法による処罰は免れないだろう。

 だからこそ、彼は誰にも言えなかったのだ。そしてきっと、サラもその事を知っていた。

 知っていて、黙っていたのだ。

「彼は法を犯した犯罪者だ。あんたを騙していたんだ」

「何を……言っているのよ」

 騙された、とは思わなかった。もし、リンダが逆の立場だったら、きっと同じ事をしてしまったかもしれないのだから。

 それよりも、気にしなければならない事がある。

「浩一郎、あなたは何て事を……」

 人型の、それも精巧なアンドロイドを創り出す事は法律で禁じられている。

 それを、彼はやってのけたのだ。おそらく、誰にも相談できずに。

 きっと、並大抵の苦労ではなかったはずだ。

「どうして、そこまで……」

「……ひまわりの外観のモデルにしたのは、かつての恋人だった」

「え? ……それって」

 話には聞いた事がある。浩一郎がリンダの下で働くようになった、その一因を作った女性。

「彼女には子供がいた。彼女の死後、俺はこの子を育てると決めた」

「それが、サラ?」

「……ああ」

 浩一郎はサラに視線を送り、小さく頷いた。

 サラは浩一郎とリンダを交互に見やり、困惑した様子で眉根を寄せている。

「サラには母親が必要だった。どこまでいっても、俺はただの赤の他人だから」

「赤の他人なんて事はないと思うわ」

「いいや、いいんだ。わかっている」

 首を振り、浩一郎は力なく項垂れる。

 リンダはちらりとロドニーを警戒する。彼は彼で、どこか虚ろな視線をこちらに向けていた。

 幼い子供のようだと思った。

 ロドニーの隣に、プラスチックの箱が近寄る。ケイトは兄に向って、そっと告げた。

「……お久し振り、兄さん」

「……ああ、お前か。どうしたんだ?」

 ロドニーは妹だったものの言葉に、振り返る事なく答える。

 ケイトはそんな兄に対して、思うところはあるのだろうが、何も言わなかった。

 ただ、事実のみを告げる。

「兄さんの野望は、潰えた」

「何を言っているんだ、お前は」

 ここで初めて、ロドニーはケイトを見た。変わり果てた妹の姿に、チクリと胸の奥が痛む。

「わたしが壊した」

「なぜだ? 僕はお前のために……」

「兄さん」

 ケイトは兄の言葉を否定するかのように、沈黙する。

「黙っていないで何とか言ったら……」

「ケイトは、死んでるんだよ」

 ヒュッと飲み込んだ空気が喉に詰まったような音がする。

 言いかけた言葉が霧散し、ロドニーは目を見開いた。

 目のまえのプラスチックの固まりが何を言っているのか、わからなかった。

「……なせ、だ……なぜお前は、お前がそんな事を」

 ロドニーは小さく体を振るわせる。

 寒いのか、苦しいのか、悲しいのか。

 それとも、恐怖しているのか。

 いずれにせよ、事実は目の前にあった。眼前に立つ彼女の姿こそ、紛れもない事実であった。

 ロドニーは、妹を失った哀れな兄は、ずっとその事を否定し続けてきた。

 いや、今でも否定を続けている。死の淵から飛び降りて行った人間を連れ戻す事ができると、信じている。

 そうでなればならない。でなければ、一体何のために時間と労力を費やしてきたのか。

「お、お前は蘇る事ができる。僕がそうする。もう一度……だから」

「……目を覚まして、兄さん」

 合成された音声のはずだった。けれども、聞こえてくるのは間違いなくかつて愛した妹の声だ。

 声も、思考も再現した。行動様式も、抑揚も。

 完璧に、蘇りを果たした。後は、その姿だけだ。

 あの男。あの男の持つ技術。それがあれば、ロドニーの抱いた夢は完遂する。

 その……はずだった。

「なのに……どうして……」

 彼はひまわりを失い、悲しみに暮れる親子へと手を伸ばす。

 遠い。ただ物理的に遠い、というだけではない。

 何か、もっと別の意味合いでも遠くに、親子はいた。

「僕は……ただお前を」

「わたしは、ケイトじゃない。あなたの妹じゃないんだよ」

「何を言っているんだ、お前は僕の」

 言いかけて、言葉が詰まる。喉の奥から、何度も声を絞り出そうとする。

 しかし、一旦止まってしまったそれはもう、彼の口から洩れる事はなかった。

 ケイトは……ケイトをこの世に呼び戻そうとして作られたそれは、ただのプラスチックの塊だった。

 けれど、どこか悲しげに見える。それは、気のせいだったのだろうか。

 死という抗い難い大津波。それが飲み込み、連れ去った者。

 その事実を、受け入れる事など到底できなかった。

 死しした人間を蘇らせる。そのプロジェクトに、人生を奉げてきた。

 その結果が、これだ。笑うしかない。

「お前は……一体誰だ?」

「わたしは、ただの機械です。ただ、あなたによって作られた」

 ロドニーは自分の中で何かが崩れ去っていく音を聞いた。

 それはおそらく、それまで自身が抱いていた過去の幻影だったのだろう。

 眼前のそれが、愛した妹ではなく、ただの機械だったのだと改めて認識した。

「僕は……間違っていたという事か?」

「……それは、わたしにはわからない。けれど、少なくとも」

 ケイトはそこで一旦言葉を切り、親子の方を見た。ような気がした。

「あの人たちの幸せを壊してはいけない。そんな気がする」

「幸せを……壊してはいけない」

 ロドニーは虚ろな瞳で、親子を見ていた。

 過ちだったのだろうか。間違っていたのだろうか。

 その答えを、知る時はいずれ訪れるのか。それは誰にもわからなかった。

 もちろん、彼自身にも。

「……何だっていい。全部、全部終わりだ」

 どこか疲れ切ったような声音で、ロドニーは告げる。

 ケイトはその人工物の体を微動だにする事なく、黙って寄り添っていた。

  ――後日談。

 

 あの後、事件はようやく発覚した。警察はすぐさま捜査を開始し、瞬く間に犯人は逮捕、拘留にまで至った。 

 犯人は素直に罪を認めているという。

 彼の隠れ家にあった証拠品は全て押収され、鑑定に回されている。一両日中には、結果が出るだろうという事だった。

 その結果とやらを、浩一郎はあまり知りたくはなかった。

 どちらにしろ、失ったものは戻らないのだから。

 事件発覚後、ひまわりの亡骸も証拠品として押収されてしまった。すぐに処置をすれば、もしかすると助かったかもしれない。

 しかし、彼女を人として扱うのは、世間的にはNGなのだろう。いくら懇願しても、彼女の身柄が帰ってくる事はなかった。

 代わりに浩一郎の許へ届いたのは、全てが精査された後に浩一郎も逮捕するという旨の通知だった。

 彼は被害者であると同時に、法を破った犯罪者でもあるのだから、この措置は当然の事なのだろう。

 それでも、と彼は思う。ひまわりはただ、かつての最愛の人の姿を模して造ったというだけではない。

 血の繋がらない娘のために創造した、そういう存在なのだ。

 そうした、浩一郎自身の事情や理屈は、やはり考慮されないのだろう。

 そんなものをいちいち考慮していたら、法律というものは回っていかないのだから。

 テクノロジーは進化した。そして、これからも進化を続けるのだろう。

 けれど、人は常に幸せを求めている。過去を懐かしみ、未来を見れなくなる事もある。

 そんな時、どうするべきか、人類は今だに答えを出せずにいるのかもしれない。

 世界には、そんな答えのない疑問で満ちていた。

 

 

 

                                 終わり。

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サラとひまわり 伏谷洞爺 @kasikoikawaiikriitika3

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