第八章 夜が明ける。

第八章 夜が明ける。

 

 

 ガタンッとどこからか音がする。

 ひまわりは作業の手を止め、音のする方へと耳をすませた。

 高性能マイクを搭載したひまわりの耳は、意識を集中させれば数百キロメートル離れた場所の音すらも拾うことができる。

 そんな彼女の聴覚が、何事かを捉えた。

「……どうしたの?」

 リンダが振り返る。けれど、彼女の問いに答えることはできなかった。

 今のは……なんだったのか。気のせい……とは思えなかった。

 そもそも、ひまわりに限って気のせいということはありえない。見た目は人にそっくりだが、実際にはただのロボットなのだから。

「……いえ、何でもありません」

「ふむ……ああ、そう」

 首を傾げつつ、リンダは作業に戻っていった。

 とはいえ、残りのロッカーの数は三つほど。そして、それを開けたところでもはや浩一郎はいないだろう、とリンダ自身も思っている。

 それでも、万が一ということがある。その万が一の可能性を捨て去ることは、彼女にはできなかった。

「……これで、最後」

 リンダが最後のロッカーに手をかける。ガタンッと大きな音がして、勢いよく開け放たれる。

 しかし、そこには浩一郎はいない。のみならず、人の気配などどこにもなかった。

「……まあそんなものよね」

 リンダがバタンッとロッカーを閉じる。

 くるりと振り返ると、彼女は腰に手を当てた。

「さてと……これからどうしましょうか」

「……一先ず、ここから出ましょう」

「ええ、そうね。他にも探さないといけない部屋があるかもしれないし」

 ひまわりの提案に、リンダが頷く。

 彼女たちはその部屋を出る。と、さっさとひまわりが歩を進めてしまう。

 どこへ行こうと言うのだろうか。リンダにはさっぱりわからなかった。

 わからないなりに、ひまわりの背中が切羽詰まったものに見えてしまう。そうして、置いてけぼりにされてはたまらないとばかりに、リンダはその背中を追う。

「一体……どこへ行くつもり?」

「わかりませんが、確かこちらから……」

 段々と早足になるひまわり。その速度が上がり、いくらリンダでも付いて行くのがやっとだった。

 どこへ行くのだろうか。ひまわり自身がわかっていないという。

 果たして、どれくらい歩いただろうか。リンダの額にじわりと汗が浮かぶ。

 呼吸も荒くなってきた。何だったら、心臓の高鳴りが凄まじい。

 運動不足には気を配っていたつもりだったが、まさかここまで自分が衰えていたとは。

 その事実に愕然としつつ、リンダはひまわりの後を追う。

 そうして、ようやくひまわりの足が止まった。

 背中にぶつかりそうになりながら、リンダも立ち止まる。

 両膝に手を突いて、はあはあと荒い息を整える。その間にも、ひまわりはじっと自分の足下を見詰めていた。

「……何を、しているのよ」

「いえ……ここに確かにいたのです」

「いたって……何が?」

 リンダの問いに、ひまわりは窮した。

 果たして、このことを彼女に伝えてしまっていいのだろうか。

 足下には、どこかへと続く穴。大きさは人ひとりがやっと通れる程度。

 ふたが開け放たれ、その中には梯子状の足場があった。

 その周りにはほこりが積もっていた形跡があり、手を突いた跡があった。

 大きな、男性のものと小さな子供のもの。二人分の痕跡。

 男性の方は誰だかわからない。もしかすると、浩一郎かもしれない。

 もしそうなら、彼は一人ではなく子供と一緒、ということになる。ということは、攫われた場所から自力で逃げおおせたのだろうか?

 もしそうならいい。問題はもう一人の子供の手の跡だ。

 この手の持ち主が仮に浩一郎と一緒だとすると、彼はかなりの枷を負っていることになる。そしてその枷のせいで、まだ逃げ切れていない可能性は大きい。

 もしくは、全く別の可能性もある。例えば、この手の跡が全く知らない人物のもので、今回の事件とは何ら関係のない人々のものである、という可能性だ。

「……いえ、それはありえない」

 ひまわりは一瞬でそこまで計算し、そして結論を出す。

 こんな廃工場に、一体何の用だというのだろうか。

 過去には、使われていない廃屋やビルディングに侵入して、ボヤ騒ぎを起こすような未熟な若者もいたらしい。

 けれど、それも半世紀以上前のことだ。現在を生きる人々がそんなことをするとは到底思えなかった。

「それで、一体、誰がいたって言うのよ……?」

 リンダが呼吸を整えつつ、訊ねる。

 けれども、その答えをひまわりは持っていない。おそらくは浩一郎の可能性が一番高いのだが、それを口にするには確証に乏しかった。

 何がいた。可能性だけを考えるのなら、様々だ。

 そして、その可能性の中の一つに、我が家で眠っているはずの少女の姿があった。

 ――サラ……まさか、ここにいる? だとしたらどうやって?

 決まっている。我々が乗って来た車に秘かに乗っていた。それ以外に考えられない。

 それに気付けなかったのは、失敗だった。もしここにサラがいたとしたら……。

 いや、それに付いては考えないようにしよう。まだ、サラが巻き込まれたのだと確証を得たわけではない。

 それに、とひまわりは思う。仮にここにサラがいた場合。

 その場合でも、きっとそれほど心配する必要はないだろう。

 サラはまだ十歳そこそこの女の子だ。きっと、不安が募れば泣き出したり、そうでなくとも助けを求めたりしてくるかもしれない。

 と、そこまで考えを進めて、ひまわりはとある一つの答えにたどり着く。

 それは、サラが助けを求めた場合に起こり得ることだ。

 その場合、サラが取り得る手段は二つ。

 一つは直接ひまわりに連絡をすること。これはいい。そうしたら、真っ先に助けに行けばいいのだから。

 しかし、問題は二つ目だ。もしもサラが冷静さを欠いていたら、連絡を取る、という手段を忘れているかもしれない。

 そうなったら、大声を出して助けを求める恐れがある。そうでなくとも、連絡を取れない事態に陥っていた場合、なおのことその手段を用いるかもしれない。

 どんどんと思考は悪い方向に転がっていく。

 そうしたら、どうなるか。最も恐れるべきは浩一郎を拉致した誘拐犯。

 単独か複数かはわからない。が、もし仮にそちらにサラが見付かったら。

 考えるだに恐ろしかった。本当に。

 もし、ひまわりが本当の人間だったら、体中に鳥肌が立ち、冷や汗が流れ、自らの創造に悪寒を感じ、身震いしていたかもしれない。

 けれど、幸いに、というのだろうか。ひまわりは人ではない。

 アンドロイドだ。それも、サラのためだけに作られた。

 然るに、そうした人間的な身体の反応はない。外側から見た人間はただ、難しい顔をして立ち尽くしているだけに見えるだろう。

 それがかえって不審に思われるかもしれない。でも、大丈夫だ。ひまわりの秘密は誰にもわからない。

「……大、丈夫?」

 肩に何かが触れ、びくんと体が跳ね上がる。

 それがリンダの手なのだと気付いた時、ひまわりは既に先ほどの思考を意識の外に切り離していた。

 そうして、状況に最適な表情と声音を作り出す。

「大丈夫です。すみません、少し考えごとをしていました」

「そう? ……だったらいいのだけれど」

 言いながら、リンダはひまわりの肩に乗せていた手を離す。

 そこで、やっとつい今しがたの感触の答えを知る。

 あれは、リンダの手が触れた者だったのか。

「それで、考えごとって一体何を?」

「いえ、今の状況には全く関係のないことです」

 ひまわりは有無を言わさない態度で、そう言う。

 今の状況に関係のないことなら、あれほど真剣に考える必要はないのでは?

 リンダはそう思ったが、口にはしなかった。数秒前のひまわりの態度から察するに、無関係なこと、というわけでもなさそうだからだ。

 ひょっとすると、サラのことかもしれない。彼女がここに来ている痕跡を何か発見した……いいや、まさか。

 首を振り、リンダは自らの思考を放棄する。

 あの子は今の時間、自室ですやすやと眠っているはずだ。子供がこんな遅くまで起きていられるはずがない。

 それは言ってしまえばただの偏見。古生代に流布していた常識であり、リンダもその事は知っていた。

 けれど、彼女は過去の遺物に成り下がったその〝常識〟を持ち出し、自分の中の疑念にふたをした。

 そうしなければ、目の前の事態に対処できない。そんな予感がひしひしとしていた。

「まあいいけれど、ここに行くの?」

 リンダが足下の穴を指差す。真っ暗闇の中で口を開けているその穴を降りていくのかと問うている様子だ。

 ひまわりはそんなリンダを横目にしながら、首を横に振った。

「いえ、ここに用はありません。だから、先を急ぎましょう」

 ここには、つい先ほどまで確かに二人の人間がいた。

 大人の男と小さな少女の二人。

 しかし、既に二人の痕跡はここではないどこかへと向かっていることを告げていた。

 それがサラなのか否かは不明だけれど、それだけは確かだ。

「……こちらです」

 言いながら、ひまわりは歩き出した。

 微かに残る足跡。腐臭に似た何かと、甘い柔軟剤の香りの入り混じった匂い。

 その二つの痕跡から、ひまわりはそれが示す方へと爪先を向ける。

 ひまわりはサラのものと思われるそれを手がかりに歩を進める。

 サラは、ひまわりにとって主人であり、娘でもある。

 それは創造主たる浩一郎がそう望んで、ひまわりを作り上げたからでもあり、またひまわりが実母とは別としても、ひまわりを受け入れてくれたことからしても、その通りだ。

 浩一郎の身の安全もそうだが、ひまわりにとってはサラの無事も同じくらい、いやそれ以上に大切なのだ。

 だからこそ、今はサラを優先するべく行動する。例え違ったとしてもそれでいい。

 サラが無事なのだから。今それだけを考えよう。

 ひまわりは自分の中の優先順位を切り替える。そうしながら、まるで人間のようだと思った。人間の……本物の母親のようだ、と。




                   ◇




相変わらず、すえた匂いが鼻につく。

 あのよくわからない場所から助けてもらったのだから、こんなことを思うのは失礼かもしれない。それでも、口にしないのだからと自らの言い訳しつつ、サラは眉間に皺を寄せ、思った。

 臭い……と。

 それからちらりと背後を振り返る。

 そこには、伸び放題の髪の毛ともじゃもじゃとしたひげを蓄えた、見るからに汚らしい風体の男がいた。

 名前はトム。サラにとっては命の恩人と言っても差し支えない人物なのだが、ホームレス生活が長かったのか、不潔な印象の拭えない男だった。

「……さて、お嬢ちゃんの言う通りに付いて来ているけれど、俺は一体何をすればいいんだ?」

「ん? ええと……それは」

 サラは口ごもる。具体的に中身を考えていたわけではない。

 ただ、何となく口走ってしまっただけなのだ。

 攫われた父親を取り戻すために協力して欲しいと思った。

 けれど、それはもしかすると、危険を伴うかもしれない。v

 実際にはどうだかわからないけれど、その可能性は十分にある。だからこそ、一応は男であるトムに付いて来てもらっているのだが。

 果たして、その選択は正しかったのだろうか? というか、トムは役に立ってくれるのだろうか?

 失礼と言うのなら、こんな思考になる方がよほど失礼なのだけれど。今のサラにはそこまで考える余裕はなかった。

 ただ、浩一郎を探さねばならない。それだけの思いでここにいる。後のことは出たとこ勝負と言えなくもなかった

「それで……あたしたちは一体どこへ向かっているの?」

「ああ、この先にな……」

 と、トムが前方を指差した。まさにその時だった。

 ドォーンッ! と、大きな音がした。同時に地響きが地面を揺らす。

「な、なんだぁ!」

 トムは驚いた様子でその場にしゃがみ込んでしまった。サラも恐怖に、悲鳴を上げる。

 ほどなくして、音と揺れは収まった。が、得体の知れない恐怖が二人の口を重くさせる。

「……一体、何があったんだ?」

 トムは訝しげに呟き、サラを振り返った。

 怪我をした様子がないことを知ると、ほっとしたようだ。

「大丈夫か、嬢ちゃん?」

「大丈夫。それにあたし、嬢ちゃんじゃない」

「すまねえな。最近は物忘れが激しくて。名前覚えんのも一苦労なんだ」

「まあ……仕方がないけど。あたしの名前はサラ。忘れないでね」

 にこっと微笑むサラ。その笑顔を見て、トムは下唇を噛んだ。

 強く。じんわりと血がにじむほどに。

「……トム?」

「ああ、いや……何でもねえ。ただ、俺も昔はサラくらいの娘がいたんだ。思い出してな」

 トムはサラから顔を背け、目許を擦った。

 泣いているのだろうか? サラにはわからなかったが、なんだっていい。

 この場の鬱々とした雰囲気を打破できるのなら、なんだって構わなかった。

「その人は、今何をしているの?」

「さあなあ……何してんだろうなあ。何せもう十五年は会ってねえからなあ」

 しみじみと、懐古に浸るトム。その双眸はここではない、はるか彼方を見ているようだった。

「すまねえな。何だか辛気臭え感じになっちまった」

「いいの。大丈夫」

 サラは首を振り、トムの言を受け止める。

「ところでサラ。お前さんは一体ここで何をしていたんだ?」

「……探しているの」

「探す? こんなところで? 一体何を?」

「何って言うか……物じゃなくて」

 サラは言葉を探して、空に視線を彷徨わせた。

 どう言えばいいのかわからなかった。攫われた義理の父親を捜しに来たなんて、そんなことを正直に言っていいものか迷う。

 けれども、その沈黙が更にトムの疑念を膨らませる。

「どうしたんだ、サラ?」

 トムが振り返る。と、サラはピタッと足を止めた。

「……ええと、ね」

 ぐるん、と視線を一周させる。言ってしまってもいいような、だめなような。そんな気がする。

「……あたしは、パパを探しに来たの」

「パパを? こんなところに?」

 こくんと頷くサラ。

 そんな彼女の動作と声音は明らかに普通ではなかった。

「……まあこんな夜中に子供が出歩いてる時点で普通じゃねえか」

「何か言った?」

「いいや、何も」

 トムはふるふると首を振り、にっと黄ばんだ歯を見せて笑う。

 ほんのりと入り込んでくる月明りに照らし出されたその笑顔を、サラは最初ほど薄気味悪いとは思わなかった。

「それで、パパのことは何か知ってるのか? つかなんでこんなところに?」

「それは……えっと」

 サラは虚空を見上げ、言い淀んだ。果たして、言ってしまっていいのだろうか。

 ここまでの話から、トムは大方信用のおける相手だ。だからこそ、甘えてしまってもいいのかどうか迷う。

 サラが今、大変な目に遭っているように、トムもまた大変な目に遭っている。たぶん。

 なら、きっと言わない方がいいのかもしれない。

 でも……とサラが逡巡していると、トムはそれを察したのだろうか。くるりと振り返る。

「何を考えているのかわからないが、一応でもお前さんは子供で俺は大人だ」

「…………」

 サラが戸惑っていると、トムは更に笑みを濃くした。

「子供は大人に頼るものだぜ」

「……たよる?」

 それは、その言葉はサラにとって、あまりにも聞き慣れない言葉だった。

 浩一郎は確かに、サラの父親だ。彼のことは愛している。

 けれど、どこまでいっても血の繋がらない父であり、なかなかに我がままを言いずらい部分があった。

 母親が生きていた頃だったら、もうちょっと素直になれたかもしれない……そんなことを何度考えたか知れない。

「……ありがとう、トム」

 でも、そんなことは今考えても仕方のないことだ。

 サラは小さく微笑むと、もう一度こくんと頷いた。

 サラの心の内をどれほど理解しているのかわからないが、トムは再び振り返ると、歩き出した。

 サラも、その背中に付いて行く。

 

 

                     ◇

 

 

 段々と、空が白み始めていた。

 小窓から差し込む僅かな光に、リンダは目を細める。

 結局、夜通し探し回っても浩一郎は影も見付からなかった。

 どこへ消えてしまったのか。それがわからない。これ以上の手がかりがないのだから、当然だろうけれど。

「……一体、どこへ行ってしまったのかしら?」

 リンダは独り言ちるようにそう言って、前方を行くひまわりへと声をかける。

 ひまわりは首だけで振り返り、考えを巡らせるように数秒、無言になった。

「……わかりません。ですが、きっと生きていることでしょう」

「ん……私もそう思う。んだけどね」

 寝不足のせいか、はたまた別の要因からか、リンダの頭の中で最悪の事態が何度も駆け巡っていた。

 最悪の事態。それは、浩一郎が殺されてしまうことだ。

 何度となく、その光景を夢想して、ぶるりと体を振るわせる。

 そんなリンダを横目に見ながら、ひまわりは浩一郎とは別の人物へと思いを巡らせていた。

 即ち、サラだ。彼女がこの廃工場にいるのかもしれない。そして、いるのだとしたらどこへいるのだろうか。

 ひまわりは思案を巡らせる。だが、何の手がかりもない現状で答えを出すことはできあなかった。

「……もしかしたら、浩一郎たちは既にここを離れているのかもしれないわね」

「え、ええ……」

「だとしたら、見つけ出すのは一苦労よ。ここは一旦戻って体勢を立て直した方がいいんじゃない?」

「それは……わたしもそう思います」

「だったら、急がなくちゃ」

 リンダが踵を返し、来た道を戻ろうとする。

 その足取りははやく、焦っている様子だった。

 それはひまわりとて同じこと。だけれど、このまま引き返すわけにはいかなくなってしまった。

 動こうとしないひまわりの気配に、リンダは足を止める。

 振り返り、訝しげ眉を寄せた。

「何をしているの? 一刻を争うのよ?」

「ええ、承知しております。しかし……」

 ひまわりが言い淀む。果たしてこのことをリンダに言ってしまってよいものだろうか。

 もしかしたら、勘違いかもしれない。なぜならサラは今頃、自宅のベッドでまだ眠っているはずだ。

 だとしたら……今ここにいるはずがない。

 ひまわりは小さく首を振る。でも、しかし……と回路の中で二つの相反する思考がぶつかり合っていた。

「……もう少し、探してみましょう」

「何を言っているの? 一刻を争うと言っているでしょう?」

 リンダの口調は厳しいものだった。それはそうだろう。

 彼女が言うように、事態は刻一刻と悪くなっているかもしれないのだ。

 なら、今は(本当にいるかもわからない)サラのことを気に掛けるより、浩一郎の身を優先するべきだ。

「……申し訳ありませんでした」

 逡巡の末、ひまわりはリンダの言に従うことにした。

 後ろ髪を引かれる思いで、ひまわりはリンダの後に続く。

 もし、本当にサラがこの廃工場にいたとしたら……いや、今は考えるまい。

 そんなことより、浩一郎だ。彼を連れ戻すことこそ、サラの幸福に繋がるのだから。

 そう自らに言い聞かせ、ひまわりは廊下を歩く。

 さすがに真夜中と比べると、足下は明るかった。行きは慎重だったが、今は軽やかだ。

 リズミカルな靴音が、広い空間に響き渡る。

 頭の片隅にじんわりと揺れるサラのこと。

 確証のない今の段階では何をすることもできない。無事を祈ること以外は。

 人間ではない自分が祈るとは、ずいぶんとおかしな話だな。

 サラは顔には出さなかったが、そう自嘲した。さすがに笑えないだろう。

「それにしても、一体どこをどう探せばいいのかしら?」

 車に乗り込みつつ、リンダは呟く。

 ここまでに使った方法は、もはや使えないだろう。敵もそこまで無能とは思えない。

 それに……実際のところ浩一郎は無事なのだろうか。そこも気がかりだ。

 どちらを優先するべきか、ひまわりにはわからなかった。

 彼女の存在理由それはサラの身の周りの世話をすること。

 つまりは母親代わりだ。だとしたら、答えは決まってるのかもしれない。

「……? どうしたの?」

「あの……先に戻っていてくださいませんか? わたしは少し、用事があります」

「はあ? こんな時に何を……ってちょっと!」

 リンダが止めるよりもはやく、ひまわりは踵を返していた。

 戻って来た道は更に戻る。

 足早に、周囲に視線を飛ばしながら。

 搭載されている各種センサーを駆使しながら。

 ひまわりは幼い主を捜索する。

 もし気のせいだとしたら、それはそれでいい。サラが無事なら、それで。

 しかし、仮にここにいたとしたら、おそらくは大変な目に遭っているだろう。

 こんなところに、年頃の娘が一人でいるものではない。

 ちらりと背後を振り返る。リンダが追ってきている様子はなかった。

 よかった、と思う。ここから先は、彼女とは別行動を取らなければならない。

 サラを探すとなれば、おそらく人外の力を、それもわかり易い形で使わなくてはならないだろうからだ。

 そうすれば、ひまわりの正体が彼女に知れる。

 アンドロイド。法により禁じられている存在。世間から秘匿されるべき者。

 それがひまわりという存在だ。

 だからこそ、多少強引にでもリンダとは別れる必要があった。

 後で何とでもそしりは受けよう。今は、サラを見つけ出すことが最優先だ。

「サラ……無事でいてください」

 祈るような心地で、ひまわりはそう呟いた。



 一体何が起きたのか、リンダにはわからなかった。

 突然ひまわりが踵を返したと思った瞬間、走り出したのだ。

 もちろん、追い駆ける暇などなかった。ただ茫然とその背を見送っただけだ。

「どうして……」

 一体、彼女はどうしたのだろうか。そんな疑問が頭の中を駆け巡る。

 とはいえ、今はそんなことにかかずらっている場合ではない。

 ひまわりを負うべきか、否か。判断に使用できる時間は数秒もない。

「……チッ」

 リンダは舌打ちをして、出口を目指す。

 きっと、ひまわりのあの行動には彼女なりの何か理由があるはずだ。

 だったら、あっちには手を出さないでおいた方がいい。その方がお互いのためだろう。

 リンダは段々と夜の明けていく中を早足で進みながらはあと息を吐く。

 行きはそれなりに時間がかかった。が、帰りは外が明るくなってきた事もあり、すぐに出口へとたどり着いた。

 車へと乗り込む。このまま、一旦家に帰るべきかを思案する。

 が、それも一瞬の事だった。リンダはエンジンをかけると、すぐさまUターンをする。

 廃工場の敷地を出て、浩一郎の自宅を目指した。

 実は、あのままあそこでひまわりたちを待っていた方がよかったのではないかとも思ったのだが、それでは浩一郎の救出がいつになるかわからない。

 その間に彼にもしもの事がったら、と思うと、リンダの胸が不安に押しつぶされそうにニなる。

 寝不足だからだろうか。精神的にまいると、じわりと視界の端に涙が滲んだ。

 もしくは、普段はクールビューティな彼女の、それが真の姿なのかもしれない。

 リンダは自分でも意外に思いながら、目尻の涙を拭う。

 まだ最悪の事態になったと決まったわけではない。泣くな、泣くのはまだ早い。

 リンダはアクセルを踏みながら、猛スピードで浩一郎の自宅を目指した。

 途中、警察に見付からなかったのが奇跡だと言っていい。何度警告アラームを鳴らされたかわからない。

 それでも、相手は運転をAIに任せた自動運転車だ。一定以上の速度は出せない。

 ぐんぐんと車を背後に押しやりながら、リンダは深く息を吐く。

 どれくらいの時間が経っただろうか。リンダを乗せた車は乱暴に停車する。

 がくんと体が前のめりになった。ゴンッ、とハンドルに頭をぶつけてしまう。

 額を擦りながら、前方を見やった。すると、そこには数台の車両の姿があった。

 おそらく、全部が自動運転車だろう。のろのろと法定速度を守り、走行している。

「……はやくしてよ。こっちは急いでるっていうのに」

 リンダが苛立ちの混ざった声音で呟く。

 だからといって前を行く車が急に速度を上げたりはしない。

 さて、どうしたものか。追い抜くにしては、対向車の往来具合がなかなかにヘビーだ。

 やはりこのまま、前方の車両の後をついて行くしかないのだろうか。

 そもそも、現代の車両はそのおよそ十割がAIを搭載した自動運転車だ。

 リンダのように、自ら運転するという輩は酔狂の部類に入る。

 故に、集計データと込み具合から算出された車両速度以上の速度を出そうと思えば、自然と選択肢は二つに絞られる。

 即ち、私有地を爆走するか、それとも人気のない寂れた古道を行くか。

 迷った末、リンダは大通りを逸れ、脇道に入った。

 そこから、更にひたすら走る。ほどなくして、細い道に出た。

 ここは車の通りも少なく、また人の気配もない。

 その代わり、道路は補装がないに等しく、ガタガタと車体を上下に揺すってくる。

 下手をすれば舌を噛みそうになるその揺れを全身で受けながら、リンダは歯を食いしばってハンドルを握っていた。

 しばらくそうした道のりを進んでいく。途中で何度か角を曲がり、また大通りへと出た。

 今度は補装の行き届いた通りだった。

 その道を真っ直ぐ進む。おそらくはこのまま行けば、浩一郎の家にたどり着くだろう。

 そう、思っていたのだが。

「なっ……!」

 前方に、警備ロボットが現れた。赤いランプを点滅させ、リンダの車に制止を促してくる。

 リンダの車がAI車なのであれば、ここで自動的に立ち止まるだろう。しかし、リンダは自分自身で運転をしている。このまま立ち止まらず、警備ロボットを跳ね除けて突き進むことも可能だ。

 可能……なのだが。

『ご協力、感謝いたします』

 警備ロボットが無機質な音声とともに、その重そうな頭部を下げてくる。

 リンダは結局、立ち止まることを選んだ。ここで無為にトラブルを起こしても、今後の浩一郎の捜索に影響すると判断したのだ。

「……何があったの?」

『この先で不審な車両を発見。持ち主は乗車されおらず、ボンネット部に不審な凹みがありましたので捜査中』

 またしても返ってくる不快なほど平坦な音声。

「不審な車両? それは一体……」

『これ以上は捜査上の規約によりお伝え出来ません』

 チッ……と思わず舌打ちをしそうになった。

 そうだ、警察とはそういう組織である。ましてや、警備ロボットに何を言ったところで無意味だろう。

 なら、ここは大人しくして、さっさと抜けるのがいい。

 そう思ったその瞬間、リンダはハッとした。

「……その車の持ち主ってわかっているの?」

『お答えすることは出来ません』

「……お願い、教えて」

『申し訳ありません。捜査機密です』

「くっ……」

 リンダは歯噛みした。諦めるべきか否かを考える。

 おそらく、これ以上の浩一郎の捜査は素人だけでは不可能だ。

 なら、捜査当局の力が絶対に必要。ひまわりはなぜかそのことを避けていたが、それではいつまで経っても浩一郎を発見するには至らないだろう。

 であるならば、ここは自分の素性を明かしてしまっても構わないのかもしれない。

 数瞬の逡巡の後、リンダは重々しく口を開いた。

「その車の持ち主って……」

 リンダが浩一郎の名を告げる。と、警備ロボットはピタリとその動作を止めた。

 小さな、本当に小さなノイズの後、その口からはそれまでとは違う、人間の声が聞こえてきた。

「その娘を連れて来なさい」

 老人……というにはまだ若い、野太い声だった。


 

 ここはどこだろうか。

 浩一郎は目隠しをされた状態で、耳をそばだてる。けれども、音だけで周囲の状況を把握出来るほど、彼は今の状況に慣れ切ってはいなかった。

 建物の中なのか、車両の中なのか、飛行機の中なのか。

 浩一郎には何もわからなかった。いずれにせよ、わかったところで無意味だが。

 ともかくも、彼が今一番欲しい情報は二つ。

 一つは現在地。そしてもう一つは――こちらがより大切だが――サラの身の安全である。

 けれども、それを自分を浚った男に訊く気にはなれなかった。

 この男がどれほど浩一郎のことを知っているのかはわからなかった。が、もし知らなかった場合、自分からサラの存在を知らせてしまうことになる。

 墓穴を掘ることだけは避けたい。サラを、娘を危険に晒すことだけは。

 だとしたら、今は大人しくしているしかないのだろうか。

 浩一郎はぐっと奥歯を噛み締めた。胸の中に渦巻く、不安を抑え込むために。

「そう怯えないでいただきたい。とはいえ、それも無理からぬはなしではありますが」

 男はにっと笑んで、テーブルの上を指でなぞる。

 すっと。次の瞬間に現れたそれに、浩一郎は喉の奥が干上がるのを感じた。

「何を……するつもりだ?」

「もちろん、この世の不平等。悪を根絶やしにするのですよ」

 男の背後には、いつの間に現れたのだろうか。一つのモニタがあった。

 それはいい。薄型軽量のモニタなど、今の時代珍しくもない。

 問題は、ほとんど布か何かと見紛うばかりのそのモニタに映し出されていたものだった。

「さて……僕らの計画の全容を開示しました。これでお手伝いいただけますでしょうか?」

「そ、そんなことをするはずがないあろう」

 そこに映し出されていたのは、恐ろしい人類浄化計画。

 現実感に乏しい、穴だらけのそれに、しかし浩一郎は戦慄した。

 市街地、高級住宅街、ショッピングモール。あらゆる場所が映し出されたそこには、どれだけの人間が集まるのか、その現実的な予測が算出されている。

 そして、穴だらけのその計画にたった一つのピースを嵌め込めば、おそらくその現実味に乏しい計画は一気にリアルさを増すだろう。

 それはつまり、ひまわりの存在だ。彼女に使われている技術を使えば、大量殺戮といっても過言ではないその計画は遂行される。

 浩一郎にはそうとしか思えなかった。だめだ、と瞬間的に呟く。

「そんなことをしてはいけない!」

「ええ、これは悪いことですよ。なぜって? もちろん人殺しだからです」

 にやにやと笑顔のまま、男はモニタを消し、浩一郎を振り返った。

「さて、これは最後通告です。僕たちに協力していただけますか?」

「くっ……」

 浩一郎は歯噛みした。どうしたらいいんだ、と頭をフル回転させる。

 けれども、素晴らしいアイデアは降りてこなかった。この絶望的な状況を打破するために必要なことは、今までの彼の人生の中で学んだことなどなく。

 当然、打開策などあろうはずもない。

「……こと、わる」

 自然と声が震えていた。残る手段はただの虚勢しかなかった。

 何をどうすれば、この状況を好転させられるのか、全くわからない。

「……そうですか」

 男がふっと顔から笑みを消す。瞳の奥にはそれまでの無邪気さと言っても過言ではないくらいのきらめきは消えていた。

 ただ、そこにはどんよりとした暗黒があった。

 暗黒はどこまでも続いているようだった。

 浩一郎はごくりと喉を鳴らす。からからに全身が干からびているようだ。

 あるいは、実際にそうだったならまだ楽だっただろうか。

 男ははあと溜息を吐くと、くいっとあごをしゃくる。と、横合いから腕が伸びてきた。

 鍛え抜かれた屈強な前腕。ここまで、何度となく浩一郎を痛めつけた恐怖の対象。

 その腕が、浩一郎の首筋に伸びる。成す術なく、あっさりと首元を取られてしまう。

 ぎっ……と締め上げられる度、行き場を失った酸素と二酸化炭素が辛うじて漏れる。

 段々と意識が遠のいていく。その中で、必死に生き残る方策を考えるが、意識はすぐに暗闇へと落ちていくのだった。

 

 

                  ◇

 

 

 バァンッ!

 大きな音の反響に顔をしかめながら、ひまわりは今し方飛び降りた上方を見やる。

 およそ四メートル。そんな高所から落ちたなら、普通の人間なら無事では済まないだろう。

 ましてや、下は湿った土や草花などではなく、鉄のガラクタを詰めたような場所。

 ひまわりは別段考えたこともなかったが、たった今自分の体が機械であることに感謝した。そしてついでに、溜息を漏らす。

 その理由は自らの力のなさ。不甲斐なさと言い換えてもいいかも知れない。

 ともかく、ひまわりはそれほど運動機能の面で優れているわけではない。もちろん、生身の人間と比べたら多少は上回っているかのしれないが、工事現場等に使われているロボット群と比べると格段に見劣りしてしまう。

 それはひまわりの用途が激しい運動を想定されていないためだ。

 元来、彼女の製造の家庭で浩一郎の念頭にあったのはサラのことだ。

 彼女の面倒を見させるためにひまわりを作ったのだから、運動性能はそれほど高く設計されていない。のだから、それは致し方ないことだ。

 とはいえ、そんなことを言っていては到底事態を完遂することは不可能だ。

 自分の運動性能はこの際無視しようとひまわりは考えている。

「……それにしても、一体どこへ行ったのでしょう?」

 くりっと小首を傾げる。さて、ここでも彼女の性能の低さが災いを招いた。

 彼女の探知能力と言えば、もっぱらちょっとした探し物に限定されている。

 サーモグラフィや嗅覚センサーなどがあれば、もっとずっとサラを見つけるのは容易だっただろう。けれど、ない物は仕方がない。

 ない物ねだりをしたところでどうにかなるものではない。ので、ひまわりははっと短く息を吐いた。

「ともかく」

 サラを探し出さないことには何らの事態も進展しない。

 浩一郎の方はリンダに一先ず任せておこう。大丈夫だ、彼女は聡明な女性であり、浩一郎に少なからず好意を持っている。

 彼女なら、何がしかの展望を抱いていることだろう。

「それにしても……なんて広さ」

 過去、この工場はそれはそれは大規模な工場だったのだろう。それは、ここまでの道筋で既にわかっていたことだ。

 従業員も数千人単位で雇用していたのだろうか。

 ひまわりは周囲を見回しながら、ぼんやりと考える。

 もし、仮に自分がその時代に生れ落ちていたら。果たしてどうなっていただろう?

 それこそ、まるで疲れを知らない機械のように働かされていたのだろうか。

 感情という機能を取り除かれ、言葉通り都合よく働く機械人形。もしくは、高利益を生み出す存在として重宝されていたのかもしれない。

 そんなことを、考えるとはなしに考えていた。と、その両足をピタッと止めた。

「…………」

 何かが、近づいて来る。サラだろうか? しかしそれにしては、足音から推察される歩幅が大きいように思われた。

 大人の……男性だろうか。よくよく聞いていると、もう一人いる。

 こちらは小さな子供の足音だ。

 ――他に人がいる? こんな場所に?

 ひまわりはぐっと腰を落とし、足音に耳を澄ませる。

 そうして、周囲に警戒していた。

 背後を、振り返る……!

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る