File:3 人殺しの怪物・ジャバウォック



 上野駅正面口。AM15:30.


 きっかり5分おきに、人の波が押し寄せては引いていく。

 無人タクシーの群れを背に、蕗二は駅から降りてくる人の顔を確認していた。

 3度目の波が押し寄せる。忙しなく階段を駆け下りる人波の一番後ろ、黒い学ランを着た少年に目が留まる。

 不織布の白いマスクで顔の下半分を覆い、タブレットを胸に抱えて降りてくる。

 蕗二が右手を上げると、気がついたのかこちらに向かって真っ直ぐ階段を降りてくる。

 口からマスクを、耳からワイヤレスイヤホンを外した少年は蕗二の前に立つと、これ見よがしに溜息をついた。

「相変わらず突然ですね」

「事件は時間を選んだりしねぇからな」

 あごで促せば、少年・芳乃ほうのれんは不服だと言わんばかりの表情をしながらも大人しくついてくる。

 歩く速度を落とし、隣に並ぶ。上から覗きこんだ芳乃の手元、タブレットの電源が切られ真っ暗な画面になる直前に見えたのは英文だ。どうやら英語のリーディングをしていたらしい。

「へぇ、勉強熱心だな」

「中間テストが近いだけですよ」

「え、マジかよ。ごめん。テストいつなんだ?」

「再来週です。テスト当日に呼び出されたら無視してやろうと思ってました」

 芳乃の本業は学生だ。無視されたら困るが、どっちを優先すべきかと言われればもちろんテストだ。とりあえず、今のところ運が味方していることに胸をで下ろす。

「テストかぁ。懐かしいな、一夜いちや漬けとかようやったわ」

「徹夜は論外です。授業中に覚えればそんなことしなくてもいいでしょう」

「覚えられるか。板書ばんしょ写すので精一杯だよ」

「板書なんて取る必要ありますか?」

「むしろそれが重要じゃねぇのか? あ、今はノート書かなくてもタブレットで済むのか。いいなぁ、俺の時代も欲しかったなー」

 芳乃がクッション性のあるカバーにタブレットを入れ、背負っていたリュックサックに仕舞いこむと、わざとらしく声を張り上げた。

「それで? 今回はちゃんと、目星はついてるんですか?」

「ああ、もう付いてるぜ」

 拳で胸を叩いて見せれば、芳乃の不信そうな視線が刺さる。

「なんだよ、そんなに不安なら視てみろよ」

「結構です」

 タクシー乗り場から線路沿いにある一方通行道路を進み、路肩でハザードランプを点滅させ、停車させてあったシルバー色のセダンの後部座席を開ける。

 芳乃が乗り込んだのを確認してからドアを閉め、運転席に乗りこむ。バックミラーを確認すれば、一人足りない事に気がついた。

片岡かたおかは? まだ来てないのか?」

 首をひねって後部座席を確認するが、やはり片岡の姿はない。

「それがねぇ、藤っちからメッセージ入ってきてぇ、なんか深刻なバグが出たとかで現在対応中だってぇ?」

 野村が液晶端末の画面をこちらに向ける。短いメッセージで「しごと」「深刻」「バg」「対応中」と連続で来ていた。変換どころかタイプミスもある。完璧な長文を送ってきそうな片岡が珍しい。それほど切羽せっぱ詰まっているようだ。

「まあ、片岡の事だから、終わったら勝手に追いかけてくるだろう」

 シートベルトを締め、ナビに表示されていたROUTESTARTのボタンに触れる。

 滑らかに発進した車内で、竹輔が二人に事件の説明をする。それを横耳で聞きながら、蕗二は添えた手のひらの中でひとりでに動くハンドルを視界の端に入れつつ、すぐにブレーキを踏めるように車の進む方向を観察する。

 自動運転で快適に運ばれる中、隅田川すみだがわ荒川あらかわを越えると、街並みは真新しいビルや建物はなくなり、古びた下町の雰囲気へと変わっていく。

 そして気がかりがひとつ。

 さっきから、やたらとパトカーや警察官たちとすれ違う。

 巡回パトロールをしているのだから、まったく見かけない訳はないが、それにしてもかなり目につく。

 液晶端末を起動し、KOMOKUTENこうもくてんのアプリを立ち上げる。やはり犯罪発生率が91%とかなり高い。近隣発生事件をタップすれば、自転車の窃盗が5件、バイクや自転車によるスリが3件、不審者情報が2件。さらに16時から18時は事件発生率が上がると警告文が表示されている。

 現場付近でも思っていたが、この地域の治安はかなり悪いようだ。

 ピンポーンと電子音とともに「目的地周辺です」と音声案内が告げる。視線を前に向ければ、目の前の5階建ての建物が近づいてくる。

 円柱が目立つせいか大きな檻のようにも見えるそれは、綾瀬あやせ警察署だ。

 ブレーキを軽く踏み、添えていたハンドルを強く握り締めると、自動運転モードから手動運転に切り替わった。首を振って周りの安全を確認し、大きくハンドルを左に切って、綾瀬警察署の裏側へと車を向ける。

 鈍色に光る鋼鉄製の門の前で一旦停止すると、警察手帳に埋め込まれているIDを読み取ったのか、門はゆっくりと左へとスライドした。

 車を進め、一番手前の空いていた駐車スペースへ止める。

 エンジンを切って、後部座席の二人に振り返った。

「この警察署で今回の事件の帳場ちょうば、つまり捜査本部が立ってるはずだ。あんまりうろちょろするとややこしいから、俺と竹で上手い具合に周防すおうの事を聞いてくる。あとで呼ぶかもしれないから、これ着てろ」

 芳乃に鑑識の上着と帽子を渡す。顔をしかめた芳乃が何か言う前に車の外へと出て、竹輔とともに裏口から館内へ入る。

 すぐ右手にあった相談カウンターへと近づく。

 すると正面に座っていた男が機敏に反応し、透明な衝立ついたての向こうで立ち上がる。

「こんにちは、ご用件をお伺いしますが?」

 にこやかに口角を上げているが、分厚い眼鏡の奥で鋭い視線が爪先から顔まで素早く確認していた。蕗二は胸元から警察手帳を取り出し、丁寧に開いて見せる。

「失礼いたします。私、警視庁の三輪と申します。後ろは部下の坂下です」

 竹輔が機敏な動作で一礼すると、男は目尻を緩めた。

警視庁本店の方でしたか、よかったらこちらへ」

 カウンター横の壁を手のひらで指される。ざっと壁を観察したが、取っ手はどこにもない。

 警視庁でも見たなと警察手帳を壁に近づけ、反応する場所を探す。左腰付近でピピッと短い電子音とともに壁の一部がスライドした。しかし蕗二が足を踏み入れた途端、すぐさまドアがスライドして閉まる。

 犯罪発生率が高いからなのか、ひとりずつ認証させるらしい。竹輔もすぐにドアを潜り抜けた。

 改めて眼鏡の男と向き合う。

「10年前の2032年、足立区内公園グリセリン詰め死体遺棄事件と2035年の足立区内廃棄倉庫内グリセリン詰め死体遺棄事件を担当した刑事とお話ししたいんですが、ご在籍ですか」

「10年前ですか、そうですね……こちらでしばらくお待ちください」

 すぐ脇にあった小さな会議室へと通される。ドアが閉まると、機密保持のためかドアの向こうの音がほとんど聞こえなくなった。足を肩幅に開き、手を後ろにして、休めの体勢で立ったまま待つ。同じ体勢で待つ竹輔がふと小声で問うてくる。

「もう、初動しょどうは始まってるでしょうか?」

「だろうな。担当刑事も出払ってるかもしれない」

 強いノック音が三回。ひと呼吸置かずに入ってきたのは、定年を超えていそうな老齢の痩せた男が入ってきた。すぐさまかかとをつけ、15度に前傾ぜんけいして敬礼する。

「初めまして、警視庁の三輪です。こちらは坂下」

「ああ、生活安全課の松葉まつばだ」

 着席を促され、パイプ椅子に座ると、松葉の瘦せこけてくぼんだ瞼の奥から、ギョロリとした目がこちらを向く。

「本店から来られたそうだが、君たちは……今日の帳場に参加してなかったな?」

 さっそく痛い所を突かれた。が、これは想定内だ。毅然きぜんとした態度を意識しつつ、鋭い目つきでこちらを観察する松葉に淡々と答える。

「俺たちは、警視庁の未解決事件を追ってる班で、今回の帳場とは別行動しています」

 じっとこちらを観察していた松葉は、諦めたように視線を瞼の下に仕舞った。

「ああ、そうなのか。すまないね、君たちが会いたかっただろう一課の担当は今、地取りに出ていてな。代わりに話を聞こう」

 蕗二と竹輔はありがとうございます、とそろって頭を下げた。竹輔がスーツの内側から手帳とペンを取り出し、前のめりで松葉へと質問を始める。

「さっそくですが、松葉さんは生活安全課に所属とのことで、周防すおう耕作こうさくという男についてご存知ですか?」

 記憶をたどっているのか、顔ごと視線を天井に向けた松葉は、ああと溜息のような声とともにうなづいた。

「周防耕作、か。はいはい、この署だとまあまあ有名人だと思うよ?」

「松葉さんは生活安全課とのことですが、もしかして少年事件課に?」

「いや、直接補導はしていないが、あまりにもしょっちゅう補導されてきて、嫌でも目立っていたから顔はよく覚えてる。確か、未成年の時から自転車やコンビニの商品の窃盗せっとう、学校の窓や店の看板の器物破損、未成年飲酒、暴行、傷害……数えるとキリがないんじゃないかな」

 指を負って数える松葉に、竹輔が困惑した表情でメモを取る。その隣、蕗二は眉間に深い皺を刻んだ

「なぜ、≪レッドマーク≫が付いていなかったんですか」

 唸るような低い声を吐き出せば、松葉は呆れたと言わんばかりに溜息をついた。

「君……ちょっと勉強不足だな? 『犯罪防止法』が施行された2031年から実刑判決が下った奴に≪レッドマーク≫を強制装着するんだ。それまでの前科は一旦チャラだ。まあ人権問題だとか、過去の犯罪をどこまでカウントするのかとか、ややこしいからだろうが……結果的に≪レッドマーク≫付きを避けようとして犯罪再犯率はゼロなんだから、成功しているんじゃないか?」

 どこか他人事の松葉が、机の上の置かれていた液晶タブレットに手を伸ばした。充電用コードを外し、盗難防止用のランヤードケーブルをぴんと張るまで手元に引き寄せる。

「とはいえ、周防はあんだけ素行が悪かったからな。案の定、第一回目の判定テストに引っかかって、≪ブルーマーク≫が付けられて以降は、大人しく就職もしていたはず」

 タブレットに取り付けられているカバーはスタンドにも落下防止リングにもなるらしい、背面の丸いリングに手を入れて操作していたが、ふと目を細めながらタブレットの画面を遠ざける。うーんとうなると胸ポケットから分厚い眼鏡を取り出し、鼻の上にかけると見えた見えたとひとちて、タブレットをぎこちなく操作する。

「えーっと、ああそうそう、今ちょうど40歳だ。まあ年も年だし、落ち着いたか」

 タブレットの電源を落とし、机の上に置いた。

「勤め先はご存知でしょうか?」

「君たちはそれを聞きに来たんだろう、さっさと行こうか」

 松葉は眼鏡をたたむと重そうに腰を上げ、やや腰が曲がった前傾姿勢で、しかししっかりとした足取りで歩いていく。

 途中、先ほどの眼鏡の男に外出すると言って受付カウンターを抜ける。

「松葉さん、すみません。れがあと二人いるんですが、同行よろしいですか?」

「あー、もしかして覆面ふくめんで来たのか?」

「はい、あのシルバーのセダンです」

 駐車場に出て、隅の方に止めていた覆面パトカーを指差す。するとなぜか松葉はなんとも言えないうなり声を出した。

「じゃあ、うちのPCピーシーに乗ってくれる?」

「PC、ですか?」

 PCと言えば一般人はパソコンを思い浮かべるだろうが、警察用語では白黒でペイントされた制服パトカーの事を指す。蕗二が気になったのは松葉が警察用語を使ったことではない。今から聴取に行くだけなのに、目立つ制服パトカーで行くのは大げさだと思ったからだ。

 救急車のサイレンでさえ目立つから消せ、というほど近所の目を気にしたり目立つのを嫌う日本人の性質から、もし聴取で制服パトカーが突然家の前にやって来ようもんなら極端に嫌がられ、話にならないだろう。だから刑事は覆面と呼ばれる一般車に擬態したパトカーを使うことが多い。もちろん蕗二たちも覆面に乗ってやってきたのだ。

 なのに松葉はなぜ、制服パトカーに乗れと言うのか。

 困惑する蕗二たちに、松葉はそうだねと頷いた。

「他の管轄かんかつから来るとね、びっくりするだろうけど。ここの地区は覆面だとね、逆に喧嘩を売られやすいんだ、コソコソするなってね。だから堂々とPC使う方が都合は良いんだよ」

「そうなんですか」

「それからすまないが、同行者どうこうしゃは二人までにしてもらっていいかな?」

「狭いですよね。先導してもらったら後ろ追いますから気にせずに」

「あー違う、そういうんじゃなくて。警察がぞろぞろ行くと、あんまり良い顔されないんだ」

 なんだか制約が多いな。うっかり吐き出しそうになった溜息を飲み込み、蕗二は竹輔に目配せする。竹輔が機敏な動きで肩まで手を上げた。

「僕と野村さんは待機しています」

「じゃあ、芳乃を呼んできてくれるか。あ、ついでに『セット』も頼む」

「分かりました」

 駆け足で覆面パトカーに戻る竹輔を背に、松葉は駐車場の門横にある守衛室しゅえいしつに向かう。小窓から覗く守衛と短いやり取りをすると、何かを受け取る。そして蕗二に視線を向けると、手の中の電子キーを見えるようにかざし、その手で一台のパトカーを指差した。どうやらあれに乗るらしい。

 蕗二がカギを受け取りに向かうと、松葉は古めかしい二つ折りの携帯電話でどこかに電話をかけ始めていた。内容からおそらく会社へ面会の許可を取ってくれているようだ。

 受け取った電子キーでパトカーのロックを解除し、すぐに出せるように移動だけさせると、蕗二はひとり手持無沙汰てもちぶさたになってしまった。

 パトカーの脇でぼーっと突っ立っていても仕方がない。菊田さんへ状況の報告をしておこう。もしかしたら何か進展があったかもしれない。

 ジャケットのポケットに入れていた液晶端末を取り出し、菊田へ簡潔な報告のメールを画面に打ち込む。

 送信ボタンを押したところで、視界の端に走り寄ってくる気配がする。顔を上げれば、鑑識と大きく張られたアルミケース、それに取り付けられたショルダーベルトを邪魔そうに肩へかつぎ、鑑識の紺と黄色のツートンカラーの制服に身を包んだ芳乃が見える。

 固く引き結ばれた口元が不満だと訴えているが、見ようによっては緊張した新人の鑑識のようだ。たぶんこちらの思っていることは全部視えているだろうから、わざとらしく似合ってるぞと心の中で言えば、あからさまに帽子の下から睨まれた。

 思わず笑いそうになって無駄に咳払いで誤魔化すと、ちょうど松葉がこちらにやってきた。蕗二は不自然にならないように手のひらを芳乃に向けて紹介する。

「松葉さん、警視庁鑑識課の芳乃です」

 芳乃は蕗二を『視て』、すぐさま踵を合わせて帽子の鍔端つばはしに右手を当てて敬礼する。咄嗟とっさに視たとはいえ、形になっていて蕗二は内心で胸を撫で下ろした。松葉は品定めするように芳乃を見下ろす。

「えらく若いねぇ」

「よく言われます」

 芳乃は鑑識の帽子を深く被る。なんとか目立つ≪ブルーマーク≫は隠れているが、バレては堪らない。あまりじろじろと見られないうちにパトカーの後部座席に芳乃を乗るように誘導し、助手席に蕗二が乗り込んだ。

 とくに何か言うこともなく運転席に乗り込んだ松葉は、ぎこちなくナビを操作し、ROUTESTARTのボタンを押すと静かに車が発進する。

 公道に出て、しばらく無言の車内。時々パトカーに設置されている無線だけが淡々と周辺の状況を知らせてくる。

 聞き流していると、やはりこの地区は通報が格段に多いようだ。

「気を悪くさせたら申し訳ないのですが、わたくし半年前に大阪から異動したばかりでして。東京はあまり知らないことが多いんですが、この周辺の犯罪発生率が高いのは昔からですか?」

「ああ、昔から治安が悪い地区で有名さ。とくに自転車窃盗率が高すぎて、自転車を盗まれたくないなら家の中に入れるしかないくらいだ。警察も捜査には自転車は使わないんだよ。パッと目を離したすきぬすまれるから」

「え、そんなにですか?」

「前輪後輪ダブルロック推奨すいしょうだが、鍵かけてようが敷地内に入れてようがお構いなしさ。だから巡回は徒歩かパトカーじゃないと危ないんだ。とは言っても安全とは限らないけれどな。夜になると酔っ払いが目の前に飛び出してくることもあるし、警察ってだけで因縁いんねんをつけられるから、新人がこの地区に配属になったら可哀想かもな」

 はっはっはっと、松葉は笑うが、蕗二は想像以上の荒れっぷりに絶句する。

 職務質問をしたときに、友好的か好戦的か分かれるが、さすがにパトカーの目の前に飛び出してきたり、いきなり因縁をつけられたことはない。同じ東京なのに……と思ったが、自身の出身地である大阪も場所によって治安が大きく変わるので、案外どこも似たようなものかもしれない。

 絶句している蕗二を気遣ってか、松葉は話題を変えるように「そういえば」とわざとらしく声を張る。

「三輪さんと言ったか、君は≪ブルーマーク≫に恨みでも持ってるのかな?」

 弾かれたように松葉を見る。その蕗二を黒目のふちにごった、それでも聡明な視線で見る。

「いや、目つきがね。本気だなと思って」

「も、申し訳ありません」

 今更だが誤魔化すように眉間を摘まむ。長い間刻まれた皺が伸びるわけでもないが、気休めに指で広げていると、はっはっはっと松葉が大口を開けて笑う。

「いやいや、責めてるわけじゃない。私も≪ブルーマーク≫に散々振り回されたし、部下も怪我したり、辞めてしまった子もいる。こんな事を言うのもあれかもしれないが、≪ブルーマーク≫は印象が悪い。人権問題の建前上、国からの補助は手厚いが、やっぱりクリーンなイメージが欲しい企業は敬遠しちまって、どうしても就職困難になるんだ。だから政府は企業に受け入れを半分強制しているのも事実だよ。まあ言っちまえば厄介者の押し付け合いだね。大企業が敬遠して≪ブルーマーク≫の大半は就職にあぶれて、万年人手不足の中小企業が仕方なしに雇うんだ。ここは特に中小企業が多いから、自然と≪ブルーマーク≫が多い。すると治安が悪くなるだろ? それが嫌で、普通の人が他の地区に流れ出て、余計に≪ブルーマーク≫が増える。それでさらに治安も悪化するっていうのも、まあ頷けるだろう」

 松葉の話に相槌あいづちを打ちながら、蕗二はちらりと芳乃を見る。帽子で隠れて表情は見えないが、興味が無さそうに外を眺めている。

「ああ、そうだ。もうひとつ、気がついているだろうが、この地区は≪リーダーシステム≫の設置が少ないだろう?」

 松葉に促されるように窓から周りを観察する。≪リーダーシステム≫は市街地であれば50メートルに1台設置されているはずだが、今確認しただけでも2個確認できた程度だ。

「ここは≪ブルーマーク≫の人口が多いから、≪リーダーシステム≫の読み取りデータをかなり圧迫する。だからあえて少なくしてるんだ。その代わりに警察ひとの目で確認する。けど、じろじろ見られるのが好きじゃないのは誰だってそうさ。だから警察がうろつくといい顔をされないんだ。そして警察もキリが無いからあまり干渉しない。つまり、≪ブルーマーク≫を黙認している特殊な場所だ。ここは、君たちが普段活動している都心部とは、ちょっと事情が違う。君たちのやり方をされると困るんだ、だから今回は私の言う事に従ってもらうから、まあよろしく」

 松葉の言葉にどう反応するべきか、蕗二は困惑した。

 確かに、10年前に≪ブルーマーク≫に父親を目の前で殺され、ずっと恨み続けてきた。

 しかし、大阪で芳乃に氷の眼で貫かれ、目を背けてきた自分自身の殺意と復讐対象を本来恨むべき犯人から≪ブルーマーク≫へすり替えした事実を直視した。

 おかげで今もまだ、≪ブルーマーク≫への恨みはあるが、それは記憶による反射で≪ブルーマーク≫を憎いと思うだけであり、実際≪ブルーマーク≫と犯人は別であることは分かっている。

 そして同時に、≪ブルーマーク≫という存在に、引っかかるものがある。

 特殊殺人対策捜査班で≪ブルーマーク≫による事件を解決しながら、≪ブルーマーク≫である三人に何度も助けられている。

 可視化した差別の象徴、≪ブルーマーク≫。

 2031年、『犯罪防止策』により、犯罪者になる可能性が高いと判定されれば、犯罪者予備軍として両耳にサージカルステンレス製の青いフープピアスの装着義務を課している。装着者には犯罪を事前に防ぐための矯正指導や行動制限がなされ、これによって市民の安全は保たれる。

 しかし、≪ブルーマーク≫とはいえ、人間である。

 人権問題から、差別をしてはいけないと積極的に≪ブルーマーク≫を受け入れる大学や企業がある。

 だが全てが表向きなのだと、松葉は言う。

 この地区では、世間が隠している本音が剥き出しになっている。

 ≪ブルーマーク≫を仕方なく雇ってやっている。

 システム的に負荷がかかるから監視しない。

 一般人は≪ブルーマーク≫を嫌悪し、この地区を離れていく。

 そして、≪ブルーマーク≫が残り、密集していく。

 そう、まるでここはゴミ溜めだ。

 表は掃除されて綺麗なのに、一歩路地裏に入ればゴミが散乱している。

 みんな知っている。知っていて目をらしてる。

 俺が引っかかっているのは、その薄気味悪さ……だけではない。

 もっと何かあるはずだ。どこかで疑問に思いつつ、見過ごしていること。または見ていて受け入れたくないと目を逸らしてしまっていること。

 もしかしたらここで、引っかかっているものが見つけられるかもしれない。

 鼻から深く息を吸い、口からゆっくり吐き出す。姿勢を正し、松葉に頭を下げる。

「わかりました。ご指導のほど、よろしくお願いいたします」

 松葉は片眉を上げて蕗二を見る。

「お前さん、警視庁本店から来たんだってな? 単独で部下を連れて動けるならキャリアだろ。若いだけで生意気にご高説垂こうえつたれの威張った奴かと思ったが、意外と聞き分けはいいね、感心したよ」

 ふっと鼻で笑って前に向き直った松葉から、なるべく自然を装って窓に顔を向ける。しかめてしまった顔を見られるのは良くない。

 警戒されているとは思っていたが、本音はそれだったか。

 確かに地方公務員ノンキャリアでは30歳に満たない自分の年齢で、警部補の階級まで上がるには相当な努力が必要になる。ただ自分の場合、柳本警視監の目論見で、【特殊殺人対策捜査班】に権限を与えるために操作ズルして与えられた階級だ。勿論、松葉は知るはずがない。だから警察庁官僚キャリアと間違われても仕方がないが、親切に教えてくれると思ったら昔気質の嫌悪感を隠し持っていたとは……何とも食えない爺さんだ。

 静かに息を吐いて顔から力を抜くように意識しつつ、窓の外の風景を眺める。

 時間として、20分ほど移動しているだろう。窓の外の風景が商業地帯から古びた工場が立ち並ぶようになっている。それと同時にぱったりと人通りが少なくなった。

 KOMOKUTENのアプリを立ち上げると、驚くほど犯罪発生率が下がっている。しかし、17時を超えると再び犯罪発生率が上昇する。おそらく、就業時間が重なっているのも関係あるだろう。

 ふと、パトカーがハザードランプを点滅させ、減速しながら車道の左に寄る。

 静かに車が停止したところで松葉がこちらへと顔を向けると、窓の外を指差した。

「ここが、周防耕作の勤め先だよ」

 窓から建物を仰ぎ見る。横に大きく伸びる白い建物の壁に『株式会社バニッシュ』と濃い緑で書かれている。それを横目に、松葉はハザードランプを解除して、自動運転から手動運転に切り替え、パトカーを敷地内に進入させた。

 入り口から入ってすぐの右側に10台止められる駐車スペースがあり、一番奥に側面に社名の張られたワゴン車が1台止まっている。松葉は一番手前にパトカーを駐車させた。

 パトカーを降り、蕗二は敷地内を素早く見回す。左側には外から見えた白い大きな2階建て相当の平屋と、右側には4階建ての建物が立っている。真新しく見える白い建物から突き出している配管には年季が入っていた。

「ちなみに、どのような企業ですか?」

「工業用の洗剤製造工場だ。それを使って企業や家庭のホームクリーニングもするとか言ってたかな」

 だからなのだろう、ところどころタンクや配管は使い込んでいそうな形跡があるものの、外壁がかなり整えられていて清潔感を感じる。

 松葉は知った顔で敷地内を横切り、道すがら薄緑の作業服の社員たちとすれ違いざまに挨拶をかわしながら、右側に立つ4階建ての建物の中に入る。

 ガラス張りの二重扉を抜けて正面には、大きな会社のロゴとともに受付カウンターがある。

 誰もいないが、松葉は慣れた様子で受話器を上げてどこかに電話をかけた。

 受付横の消毒液を手に擦り込んでいると、すぐさま奥からカツカツと足早な足音が近づいてくる。

 受付の左側から耳の下からゆるいおさげヘアをした事務服の女性が現れた。

 蕗二と芳乃を見て、小さく跳ねるように立ち止まる。彼女は≪ブルーマーク≫だった。

「やあ、楠木くすきさん」

 全身を強張らせていた女性は松葉を見て、やっと柔らかな笑みを浮かべる。

「こんにちは松葉さん、お待ちしておりました」

「忙しいところ悪いね」

「いえいえ。どうぞこちらへ」

 女性の案内で受付の右奥の通路へと進んでいく。通路の奥にはいくつか部屋があるようだが、一番手前の第4応接室と書かれた応接室のドアを開ける。

 部屋の中はすでに照明がつけられ、空調が整っているようだ。

「では呼んできますので、お掛けになってお待ちください」

 すれ違いざま、女性はちらりと蕗二と芳乃を見て、頭を下げると足早に去って行った。明らかに避けられている。松葉の言っていた通り、警察に対して警戒心が強いのだろう。あからさまに避けられると軽く傷つくのだが、気を取り直して蕗二は松葉を部屋の奥に通そうとする。が、松葉に首を振られた。

「私はついでに事務所へ挨拶してくるから。何かあれば声をかけてくれ」

「ご配慮いただきありがとうございます」

 芳乃を先に部屋に通し、蕗二も続いて部屋に入る。松葉は軽く手を上げるとドアノブを引いた。バタンと音を立てて、ドアが閉まる。離れていく足音を聞きながら、蕗二は溜息を一つ落とした。

「首を深く突っ込みたくない、か」

 ようやく下ろすことができた荷物に、肩を揉みながら芳乃が首を傾げた。

「その方が、こちらとしては好都合じゃないんですか?」

「まあ、そうだけど」

 何といえばいいのか。警察以前に、すれ違った作業員や先ほどの事務員も余所者に敏感、というよりは極力関わりたくないという意思を感じる。そして刑事である松葉もそうだ。

 思っているよりも根が深い。≪ブルーマーク≫あるなし関係なく、なるべくお互い関わらないようにして、お互い目をつぶる。そうやって他人事であることで、均衡きんこうを保っているのだろう。

 しかし、この状況だと有力な手掛かりは見込めないかもしれない。

 だがここまで来たのだ、郷に入れば郷に従え。ともかく、警察に敵意を向けられないようにしなければ。

 深く考えているうちに胸の前で組んでしまっていた両腕を後ろに回し、足を少し開いて背筋を伸ばす。

 置物のように不動の姿勢を保つ蕗二を、興味深げに芳乃は見た。頭の先からつま先まで観察し、真似をするように背筋を伸ばすが、首は物珍しそうに部屋を見回している。

 静かな部屋の中、壁にかかっている壁時計の長針が三つ動いたところで、重い足音が近づいてくる。足音はドアの向こうで止まった。

 部屋に響く力強いノックとは反対に「失礼します」という小さな声がして、ドアノブが回る。

 休めの体勢から姿勢を正した蕗二は、直後、顔を強張らせた。

 部屋に入ってきた男は緑の作業服と、同じ色の作業帽子の下から静かな視線でこちらを射抜いていた。



 被疑者、周防すおう耕作こうさくだった。







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