六章 一節


 夕日の残照を夜闇が飲み込む空の下、河川敷の鉄製のベンチにイポリトは座していた。口内に鉄の匂いが漂う。粘膜を切った所為かキリキリと痛む。しかしそれ以上に頭の生傷が疼き、猛烈に怠かった。きっと何処かでゴロを巻いたのだろう。


 浅い溜め息を吐くと街灯に光が灯った。イポリトはつば広の帽子を被り頭の傷を隠した。


 頭の流血に、つば広帽、夕闇に包まれて死ぬとはシラノ・ド・ベルジュラックと同じだ。なりたくないとあがいた末がこの様だ。とんだ喜劇だ。心から惚れた女を残して死ぬなんて。ああ、なんて阿呆臭ぇ人生だ。


 イポリトは鼻を鳴らして笑う。すると河川敷の階段を乙女が降りてきた。視界がぼやけて顔までよく見えない。


 彼女はイポリトを見つけると手を振り駆け寄る。


 ……さて、最期は大舞台だな。


 微笑んだイポリトはポケットに手を差し入れると小さな何かを握り締めた。


 彼女は小さな唇を震わせて幾つか問う。気心知れて普段口喧嘩ばかりしている筈なのに緊張しているようだ。イポリトは問いに答えず隣を促した。


 乙女は恥じらい、隣に座すともぞもぞと両膝を擦り合わせる。


 愛らしい。触れたい。唇を塞ぎたい。だがそれは叶わない。例え想いが通じてもそれだけはしてはならない。死者の温もりに縛られ、残された者は泣き暮らすだろう。修道院で泣き暮らしたロクサーヌのように心を痛めた乙女は泣き暮らすだろう。


 自分を戒めたイポリトは意を決す。


 ──最初に謝っておく。本当にごめんな。


 乙女は意味が分からずにイポリトを見つめた。小首を傾げ不安そうに仰ぐ彼女はちっぽけで不憫だった。


 大丈夫だ、ずっと一緒だ、とキスをしたかった。しかし受け入れられても受け入れられなくてもそれは許されない。


 イポリトは顔の見えない乙女を見据える。


 ──俺、****に伝えたい事があるんだ。


 その途端に意識は世界に引き戻された。


 瞳を開くとロウソクの火で照らされた薄暗い世界が広がっていた。素肌にリネンの感触が纏わり付く。体中の痛みを堪え、四肢を動かすと体がたゆたう。スプリングが軋む音がする。どうやらベッドに寝かされているらしい。


 痛みを耐えて身じろいだ。


 枕許に誰かが居る。目を薄闇に順応させると明確に見えた。座した乙女が枕許に顔を埋め、眠っていた。


 彼女は片頬をリネンに寄せているので横顔が見て取れる。頬に涙の跡を残し、小さな唇を開きかけて眠っていた。愛らしかった。子猫のように愛らしかった。


 触れたい衝動に駆られ乙女の黒髪に手を伸ばす。


 すると彼女は青白く光る瞳を見開いた。そしてイポリトを見据えると大きな瞳を潤ませ唇を震わせた。彼女の瞳にイポリトが映る。イポリトは小さな溜め息を吐く。


「……介抱してくれたのか?」


 瞬きをする事を忘れてアメリアはイポリトを見つめた。


「……名前……何て言うんだ?」イポリトは問うた。


 眼の奥がじんわりと熱くなったがアメリアは感情を抑える。


「……ア、アメリア」


「そうか……お前、あの左腕か。いつの間にか元の姿になって現れたんだな。……初めましてだな。こんな綺麗なねーちゃんとは想わなかったぜ。……死神だよな?」


 アメリアは頷いた。


「……助けてくれたのか?」


 視線を逸らしたアメリアは頷いた。


「そうか……ありがとな」


 唇を震わしたアメリアは大きな瞳から涙を流した。


「……そんなに泣くなよ。心配かけて悪かった」


「……そんな事言われたって」アメリアは声を震わせ身を起こした。


 イポリトも徐に身を起こす。しかし激痛に表情を歪ませる。するとアメリアは彼の背に腕を差し込み、介助した。


 イポリトはアメリアの瞳を見つめる。


「……俺、想い出した。俺はイポリトだ」


 眉を下げたアメリアは声を震わせる。


「……初めまして、イポリト」


 涙を拭い、深く呼吸するとアメリアは説明した。


「そうか……ショックを受けて記憶を取り戻したのか」イポリトは呟いた。


 アメリアは頷いた。


 イポリトは鼻に触れ、腕を組む。


「しかし記憶を取り戻したのに鼻は相変わらずシラノ・ド・ベルジュラックだし、選択もしてねぇな。いったいどう言う事だ?」


「……それはきっと……記憶を取り戻す事よりも大切な事があるからだよ」


 イポリトは長い鼻を掻く。


「……そうだな。俺はヴルツェルに会ってねぇしな」


「どうしてそんなにヴルツェルさんにこだわるの?」


「……あの時、ヴルツェルはハンスのおっさんを刺そうと想えば一思いにさせたと想うんだ。音を殺す為に服まで脱いでよ。そこまで周到に殺しの用意してるならさっさと刺すだろ? それなのに部屋に入ろうと瞼を閉じてカウントしているように見えた。ヴルツェルには何か考えがある筈だ」


「そっか」


「……それよりも死神のアメリアがどうしてこんな島に居るんだ?」


 口をもぞもぞと動かしたアメリアは瞳をぐるりと動かすと嘘を吐く。


「……あたし、ハンスおじさんの養子なの。大戦の折り、育て屋が預かり子でいっぱいだったから特例で引き取られたの。ハンスおじさんならハデス様の信用があるし、ハーピーやニンフが居るこの島に死神が居てもおかしくないでしょ?」


「そうか。俺は育て屋に育てられたんだ。ティコって言う、おっさんみてぇなばばあに育てられたんだ。ティコとはいつも冗談混じりに喧嘩ばっかりしてたな。大切な家族だった」イポリトは微笑んだ。


 アメリアも微笑んだ。


「だからアメリアと俺もきっと仲良くなれると想うんだ」


「うん」


「仲良くなれそうか?」


「うん。あたしとイポリトは友達」


「そうか。命預けたダチ公だもんな」イポリトは照れ臭そうに笑った。


「友達だから……あたし、イポリトの目的を見届けにいく!」




 鞍を着けアメリアを乗せたアレイオーンが馬場を速足で回る。数頭の馬に混じり風を楽しむ。アレイオーンの瞳は満足そうに笑い、アメリアは唇に微笑みを湛えていた。しかし何処か寂しそうな笑みだった。


 エリニュスにしてやられ、そこかしこに包帯を巻いたイポリトはそんな彼らを柵に凭れて眺めていた。


 鼻を鳴らしたイポリトは隣の女に気付いた。いつの間に居たのだろうか。蝶の羽根と豊かなブロンドをそよ風になびかせた美しい女だ。髪の所々に咲き乱れた花から芳香が漂う。


「アメリアちゃん楽しそうね」女は微笑む。


「ああ。そうだな」


 イポリトは踵を返す。


「お話ししましょ。折角会えたんだから」女は眉を下げて肩をすくめた。


 立ち止まったイポリトは小さな溜め息を吐き、頬を掻くと隣に戻った。


 女は彼を見上げて微笑む。


「再会出来たのに素っ気無くて寂しいわ。昔は『母ちゃん、母ちゃん』ってベッタリだったのに。今は『お袋』なんて呼んじゃって」


「まさかチビっころみてぇに『母ちゃん』なんて呼べやしねぇよ」イポリトは鼻を鳴らして笑った。


「そうよね。お母ちゃんのおっぱいよりも彼女のおっぱい吸いたい年頃だものね」リンダはアメリアに手を振った。


「……彼女なんかじゃねぇよ」


 リンダは寂しそうに微笑んだ。


 ローレンスに魂を島に送られたリンダは、記憶を取り戻してからも職を転々としていた。酒場の女給、ワイナリーの手伝い、お針子、チーズ工房の手伝い等々をしていたらしい。しかし一年程前に牧場が出来たので今はそこで住み込みで厩務員の手伝いとして働いている。学は無いが機転が利き心優しい彼女に馬達は心を許し、楽しく働いているそうだ。


「……アメリアちゃんから経緯を聞いたわ。ハンスさんの心臓から摘出したヴルツェルさんを追っている内にエリニュス様に襲われたのね。ヘカテ様とアメリアちゃん、アレイオーンがこの牧場まで運んでくれなかったら今頃は冥府に居たでしょうね。……エンリケさんの話も聞いたわ。苦労させてごめんなさい」リンダは頭を下げた。


「母ちゃんの所為じゃねぇだろ」


 リンダは瞳を伏せた。


 イポリトは鼻を鳴らす。


「……誰の所為でもねぇよ。起こっちまった事は仕方ねぇんだ。取り返しもつかない。あいつはあいつで罪を贖うし、俺は俺で父親殺しの罪を背負ってるんだ。誰も恨んじゃいねぇよ」


「でも私がエンリケさんに出会わなかったらあなたは罪を背負わなかったわ」


「そしたら俺、影も形もねぇじゃねぇかよ」イポリトは豪快に笑った。


「……そうね」リンダは溜息を漏らした。


「……それでもまだ愛してんだろ?」


 イポリトは足許を見つめる母の横顔を横目で見遣った。リンダは瞳を閉じると小さく頷いた。


「……『生んでくれてありがとうよ』なんて殊勝な事想っちゃいねぇよ。同様に『よくも俺を製造しやがったな』なんて事も想っちゃいねぇ。俺は俺、エンリケはエンリケ、母ちゃんは母ちゃんだ」


「……そうだけど」


「俺は過去じゃなくて未来にこだわりてぇんだ。この島で母ちゃんがどう過ごそうが、タルタロスでエンリケがどう暮らそうが俺は知ったこっちゃない。だから母ちゃんが児童虐待者のエンリケを憎もうが、夫として愛し続けようがそれは母ちゃんの勝手だ。だがその中に俺を入れないでくれって話だ。俺は俺でやり遂げなければならねぇ事がある。俺は俺の道を行く」


 リンダは小さく頷いた。


「……でもよ」顔を伏せたイポリトは鼻を鳴らした。


 リンダは息子を見遣った。


「でもよ、これだけは確かだ。愛してる。愛してるよ、母ちゃん」


 照れ隠しする大きな息子にリンダは満面の笑顔を向けた。


「それよかよ! ヘカテが介入したってのはどう言う事だ?」赤く染めた頬を人差し指で掻きつつイポリトは問う。


 リンダはヘカテから聞いた経緯を説明した。


「……ほーん。それで管轄権がハデスからヘカテに委譲されたのか」


「その上エリニュスのティシポネ様の介入も止めるべく、オリュンポスへ出向いて主神のゼウス様に頭を下げて下さったそうなの。あなたの事情も包み隠さずお話しなさったそうよ。ゼウス様はあまり良い顔をなさらなかったそう。でもアレス様とアテナ様が『イポリトの為なら』って一緒に頭を下げてくれたそうなの」


 イポリトは苦笑する。


「姉弟仲の悪い阿呆のアレスと堅物処女のアテナがねぇ。戦争の折りで知り合ったとは言え……借りが出来ちまったな」


「それでヘカテ様はこの島に出向いてティシポネ様を止めて下さったのよ。ティシポネ様も主神ゼウス様の命を下されば逆らえないものね」


「……納得はしてねぇだろうよ」


「そうね。自分の正義と務めを果たそうとしただけだもの。……でも母の立場としてはあなたが冥府へ連行されなくて良かったわ」リンダは息子に微笑んだ。


 微笑み返したイポリトは肩をすくめるとアレイオーンを眺めて思案する。


「しかしよ……どうしてそこまで俺にこだわるんだ、ヘカテは」


「あら? お気に入りやら秘蔵ッ子じゃないの?」


「知り合いですらねぇよ」


 イポリトは鼻を鳴らす。


 すると鞍上のアメリアが手を振る。イポリトとリンダは手を振り返した。

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