五章 九節


 ヴルツェルに反対されたものの、ランゲルハンスは鉱山で発掘した銀や銅から貨幣を鋳造した。金は島には存在しなかったので錬金術で鋳造した。そしてある程度の金額を島民に持たせた。そして物の値段を考えさせた。直ぐに豊かにならなかったが島民や精霊達の間で商品と貨幣が行き交うようになった。やがて島民は質の良い物を作って高い値で売ろうと考えた。そして物ではなく教育や福祉等のサービスで貨幣を得ようと考え始めた。ローレンスが魂を運ぶ度に島民は増え、物が流通し商業は栄え、子供達は学校へ行き、郵便等の通信が生まれた。生活は豊かになった。休日の広場ではディオニュソスが醸造したワインを片手に寛ぐ者の姿を見かけるようになった。


 生活に余裕が生まれて笑顔になった人々を遠巻きに見てランゲルハンスは微笑した。


 やがてランゲルハンスはケイプとプワソンの意見を参考に街を作った。街には数多くの商店を誘致し、住宅を建て、広場を作った。そして街の四つ角には大昔ランゲルハンスを助けたヘカテの像を立てた。ランゲルハンスは街へ引っ越した。


 万事は順調だった。


 しかしヴルツェルが危惧していた事が起こった。器用な者が居れば不器用な者も居る、環境に適応出来る者も居れば出来ぬ者も居る。持つ者と持たざる者、貧富の格差が島民に広がった。毎日のように争いは起き、治安は悪くなった。金を溜め込んで働かなくなった者も出た。ランゲルハンスや四大精霊達は争いを諌めに毎日のようにかけずり回った。そんな暗い日々が幾年も続いた。


 その夜もリビングの独り掛けの大きなカウチでランゲルハンスは項垂れていた。積み重なる疲労と日焼けで体が重くて熱っぽい。昼間は秋晴れで暑く、水が恋しくなる日だった。


 ノックの音が響いた。玄関からだ。聞き覚えのある懐かしいリズムだ。


 ランゲルハンスは『鍵なら開いている。入り給え』と入室を促した。


 穏やかな夜風と共に入ったのはヴルツェルだった。


「……家を訪ねるとは久しいな。夢魔の家になぞ夜上がるものではないぞ?」ランゲルハンスは力なく笑う。


「ハンスやケイプ、プワソンが街へ引っ越したからな。森の家に居てはここまで訪ねるのが億劫だ」ヴルツェルはグラッパが入った瓶を掲げた。


「いい物を持っているではないかね」


「久し振りにハンスと飲もうと想ってね。醸造した」


「ほう。……昔のように飲めるのか?」


「無論。……ハンスが落ち込んでいると想った。だから持って来た」


「変わらぬ友情に感謝する」微笑んだランゲルハンスは立ち上がりキッチンへ向かった。


 一人残されたヴルツェルはリビングを見渡した。壁には街の地図や島の広域地図、島民から貰っただろう手紙や子供から贈られた似顔絵等、様々な物で飾られていた。中でも眼を惹いたのは黒炭で描かれた背高の花の絵だった。


 ランゲルハンスと共に種を蒔いた、あの黄色い花畑の絵だった。背高の花々に隠れるように小さなランゲルハンスやヴルツェルが覗いていた。


「昨晩、時間が出来てな。手慰みに描いた」二脚のグラスを持ったランゲルハンスがヴルツェルの背に声を掛けた。


 ヴルツェルは振り返る。


「……ハンスの心もあの花畑の中か?」


 ランゲルハンスは瞳を閉じると首を横に振る。


「……いや、大分変わってしまった」


 テーブルにグラスを置くと、ヴルツェルに差し出されたボトルを受け取りグラスにグラッパを注いだ。


「……森の花畑に居た頃はひたすらに幸せだった。日がな一日自然を愛し、君を愛していた。しかし悲しいかな、振られてからは我を忘れて島の運営に打ち込んだ。忙しさに君への慕情も薄れた。……今はただ、君の友情が嬉しいだけだ」ランゲルハンスは紫色の瞳を見据えた。


「……それは何よりだ」


 二人は乾杯するとグラッパを口にした。


「私が醸造したものより遥かに美味いな。流石料理の上手い男だ」ランゲルハンスはカウチに座して喉を小さく鳴らして笑った。


 そんなランゲルハンスを見つめつつヴルツェルはグラスを傾けた。


「本当に嬉しいんだ。……君とまた様々な事を話せたらと想っていた。友人のままで構わない。君を失いたくはない。……そう想っていた。しかし君の家を訪ねるのに勇気がなかった」ランゲルハンスは溜め息を吐いた。


「やけに饒舌だな。まだ一口しか飲んでいないと言うのに」ヴルツェルは木の丸椅子に座し、グラスに口をつけた。


「一口で酔う事だってあるだろう?」ランゲルハンスは肘掛けに頬杖を突く。


「うわばみが何を言うんだ」ヴルツェルは鼻を鳴らした。


「私が酔っていると言えば酔っているんだ。故に恥ずかしい事を沢山話そう」


「要は本心を吐露したいのか?」


「ああ」


「……奔放な君を眺めるのは久し振りだな。島の運営に勤しむ君はいつも理知的で善人面だった」


「酷い言い方をするな。これでも私は悪魔の端くれだ。元は善人ではない」ランゲルハンスは鼻を鳴らした。


「……さて、いつ振りだっただろうか」


 ヴルツェルはランゲルハンスの空のグラスにグラッパを注ぐ。


「……眠っている私に跨がり、君が性の悦びを貪っていた時以来だろうか」


 ランゲルハンスは鼻を鳴らす。


「……あの時、起きていたのかね?」


「ああ。起こされた。今までに感じた事の無い甘美な心地に起こされた。瞳を薄く開くと君が跨がって胸を揺らして喘いでいた。驚いて瞼を閉じた。しかしあまりの心地良さに気を失った」ヴルツェルは淡々と答える。


「故に直ぐにパンドラの精子提供者が誰であるか分かったのか」


「……望まない形ではあったが私は彼女の父親だ。……そして君は彼女をこの世に呼び寄せた母親だ」


「……ほう。私が母親と?」


「パンドラの母親ばかりではない、島民の母親でもある。母なる大地だ。……しかし君は母親としては思慮に欠けていた」


 ランゲルハンスは言葉に疑問を抱き、ヴルツェルを見上げた。しかし突如として息苦しさに襲われグラスを落とした。床に叩き付けられたグラスは砕け、グラッパが四方に広がる。視界が熱を加えられた飴細工のように曲がる。ランゲルハンスは目眩を起こしつつも自分を見下ろすヴルツェルを睨む。


「……謀った、な」


 いつもと変わらぬ涼やかな表情でヴルツェルは口を開く。


「……毒を仕込んだ。怪しまれぬよう私も飲んだ。私は毎日少しずつ服毒して慣らしていた」


 ランゲルハンスはバランスを崩す。カウチから床に倒れ手を突いた。秒を追う毎に呼吸が荒くなる。胸が苦しい。血管と言う名の無数の水脈を束ねる心臓が引きつる。脳内で心音が鳴り響く。胃が迫り上がり呼吸器を圧迫されたような気分になる。腹が焼け付く。白い肌に粟が立つ。


 だらしなく開いた口から涎を垂らしつつ、ランゲルハンスはヴルツェルを仰ぎ睨みつけた。ヴルツェルは椅子から立ち上がった。


「……君は悪魔だ。故に死なない。この世界も金で汚されるならば死に値する苦しみを与える」


 ランゲルハンスは苦し紛れにヴルツェルの足首を掴む。しかし振り払われた。


 ヴルツェルは鼻を鳴らす。


「金で汚されるのならばこの島も現世と変わりない。こんな世界無駄だ」


「無駄、な……ものか」ランゲルハンスは拳を握りしめる。


「金を許せば次は権力だ。権力を求める為に戦いが起きる。次に必要になるのは武器だ。新しい物好きの君はきっと大量に人を殺す道具の誕生を許すだろう」


「そ、んなもの……許すも、のか。争いなんて、許さない」


「……人間は日々成長する。現世の錬金術は君の膝許に及びもしないものだが今に進歩する。不自然な生命を作り、その哀れな生命に代理の戦をやらせるだろう。金は諸悪の根源だ。魂が未成熟な人間には手に負えない。だから……だから、私は」


 ヴルツェルは床に涙を滴らせた。


 ランゲルハンスは息を切らせつつも問う。


「な、にを……したんだ!? 島民に!」


 長い溜め息を吐いたヴルツェルは天井を見つめる。


「……毒を水脈に投げ込んだ」


 非情な言葉にランゲルハンスは慟哭した。


「人体にとって水は欠かせないものだ。今日は秋晴れで暑かった……水を飲んだ島民は皆死んだだろう」


 ランゲルハンスは渾身の力を振り絞ってヴルツェルの足首を掴んだ。バランスを崩したヴルツェルは床に尻と手を突いて倒れた。


 焼け付くような胸と腹の痛みを耐え、ランゲルハンスはすかさず覆い被さる。ヴルツェルの四肢を床に押さえつけ肉薄する。


「せ、いれい達はどうした!? まさ、か元素に、戻したんじゃあるまいな!?」締まりの悪くなった唇の端から涎を垂らし問う。


「ハンスを土に戻し三大精霊を懐柔し制度を作り直す。そして新たに魂を預かり所属者にすれば良い。プロメテウスの息子であるデウカリオンの方舟とゼウスの大洪水のようなものだ」組み敷かれつつもヴルツェルはかつて愛した女の瞳を睨む。


「大神になったつもりか!? 思い上がりも甚だしい!」


「何と言われようとも憎まれようとも成さなければならない」


「気に入らないからと、子と等しい人々を殺したのか!?」


「ああ。人間は愚かだ。そして未熟だ。故に正しい道を示してやらねばならない」


「愚かでも未熟でも、子には変わりない!」


 ランゲルハンスは力の限り叫んだ。しかし無理がたたった。こめかみから乾いた土が流れ落ちた。土はヴルツェルの頬に当たる。


「……そろそろ時間切れだ。ハンス、君は土に戻る」


 鈍色の瞳に涙を溜め、ランゲルハンスは天に向かって咆哮した。


 獣じみて人間臭い彼女の慟哭をヴルツェルは眺めた。


 頭や指先から乾いた土を流し、床に落としつつもランゲルハンスは睨む。


「私は君を許さない!」


 ヴルツェルは鈍色の瞳を見据える。


「……ハンスがいけないのだ。君が私を無視したんだ」


「では二度と無視出来ぬようにする!」


 ランゲルハンスは白い首筋に想い切り噛み付いた。ヴルツェルは想像を絶する苦痛に驚き悲鳴を上げ足掻こうとした。しかし渾身の力で四肢を押さえ込んだランゲルハンスは白い皮膚に鋭い犬歯を刺す。顎と鎖骨を繋ぐ筋に歯を刺し、喰い千切った。太い静脈が切れて床に血の海が広がる。ヴルツェルは失神した。


 ランゲルハンスは自ら息をする暇も許さず太い動脈を喰い千切る。血液が噴出し白い顔を真紅に染めた。無我夢中でヴルツェルを喰った。首を喰い千切り全てを断ち切った。顔を血液でヌラヌラと光らせ、白い小さな筋の屑を頬に付け胸の肉を喰らい、肋骨の檻に手を入れ心臓を引き千切った。拍動を止めた心臓はだらし無く血液を排出する。タコの触手を想わせる大動脈弓がヌラヌラと光る。心臓から垂れ下がった大きな血管には光り輝く玉が付いていた。魂だ。躊躇もせずにランゲルハンスはヴルツェルの魂ごと心臓を飲み込んだ。


 鈍色の瞳は光を失っていた。指先やこめかみから流れる乾いた土も止まっていた。


 術を使っていないのにも関わらずランゲルハンスは女姿から男姿に変わった。それに気付かずに無二の親友であり愛しい男をひたすら食した。


 しかし足に齧り付こうとした所で招かれざる客が現れた。晩餐を中断させたのはケイプとプワソンだった。


 いつも騒がしい隣家の親子が今日は静かなのを不審に思い、彼らは家を訪ねた。親子は死んでいた。プワソンは悲鳴を上げ、ケイプは泣き喚く彼女を抱きしめた。静まり返った街中を不審に思った彼は自宅にプワソンを待たせ、街中の家を訪ねた。生きてる者はいなかった。自宅に戻ると泣き続けるプワソンの肩を抱き、賢者であり島主であるランゲルハンスの許を訪ねたのだった。


 ケイプは鍵が開いていたドアを幾度かノックした。しかしランゲルハンスは応じない。ドアの側の汚れで曇った窓から光が見えた。ハンスは在宅しているのだろう。


 ケイプはドアを開けた。開けた瞬間、言葉を失った。


 プワソンは眼前に広がる真紅の地獄と生臭さに悲鳴を上げ、気を失った。


 床には大量の血液が広がり、木の天井には霧を吹いたように血しぶきがこびり付いていた。背を向け床に座して何かを貪る大男の側にはチューブ状の肉片が落ちている。


 凄惨な現場に血の気が失せ吐き気を催したがケイプは堪えた。そして気を失ったプワソンをポーチの外壁に凭れ掛からせた。背を向けて夢中になって何かを食すランゲルハンスの頭を引っ叩いた。


 振り返ったランゲルハンスは涙混じりに自分を見下ろすケイプを見つめた。


「……何やってんだよ」


 ケイプの一言に鈍色の瞳に再び光が宿った。


 ランゲルハンスは視線を下ろした。肉がこびり付いた骨や千切れた内臓や紫色の虹彩の眼球が散乱していた。理性を取り戻し、無二の友を永遠に失った事と罪なき島民を失った事に涙を流した。


 ケイプは白い手でランゲルハンスの血まみれの頬を拭った。


 ケイプはから経緯を聞き出した。ランゲルハンスは仔細を説明した。


 ケイプは問う。


「……つまりお前さんは『殺された島民の為に復讐しちまった』って事か?」


 ランゲルハンスは力なく頷いた。


「……賢者のくせにどうしようもねぇ馬鹿だな。復讐は何も生まねぇよ」


 意識と感覚が繋がったランゲルハンスは焼け付くような腹の痛みを想い出す。胃から迫り上がろうとする肉片を吐き出しそうになる。しかしケイプに乱暴に口を押さえられた。嘔吐を許されなかった。


「ダメだ。吐くな。親友を喰った。それがお前さんの罪だ」


 込み上げる未消化の肉片と胃液に耐え、ランゲルハンスは飲み下した。


「……あっしは許す。プーもフォスフォロも悲しむが最終的にはお前さんとヴルツェルを許すだろう。しかし島民がヴルツェルを許さないように、ヴルツェルはお前さんを許さない。それを胸にこれからも生きるんだ。……地獄だろうがよ、それがお前さんの罰なんだ」


 血に染まった室内を見遣るとケイプは汚れで曇った窓ガラスの向こうを見つめた。


「この家も地獄だがよ……外も地獄だ。あっし、街中を回ったんだよ。皆、死んじまった。……きっとフォスフォロのワイナリーの近くでも島民が死んでるんだろうな」


 ランゲルハンスは殆どが骨となり、両下腿が残ったヴルツェルの骸を見つめていた。


「……あっしら精霊や悪魔は死なねぇ。きっとヴルツェルもお前さんの中で永遠を生きる。……だからよ、お前さんにとって生きる事は罪を見つめる事なんだ。あっしはお前さんを許した。だけどよ、お前さんが土に戻る事だけは絶対ぇに許さねぇからな! 例えヴルツェルを元に戻せてもだ!」


 鼻を鳴らしたケイプは頬に一筋涙を流し、家を出た。そしてポーチの外壁に凭れ掛かるプワソンを抱き上げて自宅へ戻った。


 地で起こった惨劇など素知らぬ顔をして夜空の星は光輝いた。

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