五勝 六節


 太陽に似た黄色い花が花畑を覆う頃、ランゲルハンスは契約を履行した。ローレンスの管轄区の河と島の水脈を魔術で繋げた。島の水脈は血管のようなものだった。ローレンスがハデスの眼を盗んでちょろまかした魂は、水脈へ続く河へ沈めて水流に運搬させた。


 多くの魂が日々、冥府へ運ばれ裁判にかけられ、またエリュシオンの野へ逝く。裁かねばならない魂が多すぎるが故に誤摩化そうと想えば気軽に誤摩化せた。


 太古の神でもあるローレンスはハデスと近しい間柄だった。従って顔を合わせる機会が他の死神よりも多い。想っている事を表情に出してしまうローレンスは嘘を吐かないように努めた。冥府に呼び出された日は島へ続く水脈へ魂を流す事を控えた。慎重に魂を選び、水脈へ流した。


 冥府の体制がザルでも契約は明るみに出た。黄色い花が咲き、枯れるサイクルを五十回程繰り返した頃だった。告げ口をしたのは冥府やオリュンポスを行き来する旅の神であり錬金術の神であるヘルメスだ。


 ヘルメスは理性の光や占いの神でもあるアポロンと仲が良かった。二柱は遊びで占いをしたらしい。『色ボケのゼウスを占うのはそろそろ飽きた。馬鹿真面目のハデスを占ってやろうぜ』とヘルメスはアポロンをそそのかした。


 アポロンが占うととんでもない結果が出た。『近しい者に裏切り者がいる』と。


 暗い冥府で休み無く死者を裁くハデスを哀れに想い、ヘルメスは冥府に出向いた。そして占いの結果を伝えた。


 憂いを秘めた瞳を閉じるとハデスは礼を述べ、ヘルメスをオリュンポスへ帰した。そして早急に全ての魂の帳簿や冥府に籍を置く全ての神々を洗うようケールに命じた。ハデスは玉座から降りると、裁定をゼウスの息子である三人の裁判官達に任せた。


 帳簿を洗い冥府の神々を洗うのに丸一週間かかった。ハデスは休暇中のケールや復讐の女神であるエリュニュス三女神、ローレンスの兄弟である復讐の女神ネメシスにまで手伝わせた。


 裏切り者が判明した。


 一柱のケールの報告を聞いてハデスは愕然とした。


 ローレンスが悪魔と手を組み、死者の魂を横流ししている。ローレンスは年長者とは言え部下だ。そして悪魔ランゲルハンスは部下であるヘカテ女神の信仰者である。つまり部下の部下だ。部下達は反旗を翻そうとでも言うのだろうか。唇を噛み締めたハデスは玉座の肘掛けに置いた手を小刻みに震わせた。


 ハデスは夫婦の寝室に下がった。


 ベッドに座し瞳を閉じて考え続ける夫を妻のペルセポネは心配した。熟考する際に夫は瞳を閉じる癖があった。その際の判断は冷酷なものが多かった。


「……どうかいつもの公平なあなたに戻って下さい」ペルセポネは隣に座すと夫の青白い頬を撫でた。


「……あの気弱なローレンスが大層な事をしでかすとは」


 ハデスは深い溜め息を吐いた。冥府のナンバースリーでありオリュンポスにも顔が利くヘカテ女神、太古から夜の神を務めるニュクス女神の息子であるタナトスのローレンス、そして魔の血を引きヘカテ女神の信仰者であるランゲルハンス……彼らは勢力を拡大させ私を討とうと言うのだろうか。……玉座に就き支配者として真摯に務めた筈だ。恨まれる筋はない。何故彼らは反旗を翻す? 何故牙を剥く? ゼウスやポセイドンに相談したい所だが無理だ。後々の体裁が悪い。どうやって叩き潰せば良いだろう?


 眉を下げたペルセポネはハデスの頬を撫でる。


「どうかお気を鎮めて。ローレンスは確かに気の小さい神です。しかしとても心優しい神なのです」


 ハデスは目の端で妻を見遣る。ペルセポネは瞳に涙をためる。


「……地上に居た頃、乙女だった私が花を摘んでいると、ローレンスが歩いているのを見かけました。俯いた彼は両手に何かを大切に包んでました。挨拶をしようと私が駆け寄るとローレンスは『弔ってあげるのを手伝って欲しい』と掌を見せました。そこには小鳥の亡骸がありました。名も無い亡骸にさえ彼は真摯に向き合うんです。彼の優しさに心打たれ、共に弔いました。小鳥ばかりではありません。父上である主神ゼウスと正妻ヘラ様の夫婦喧嘩に巻き込まれた巨人アルゴスや牛に変えられたイオにまで彼は涙を流します。迷宮に閉じ込められたミノタウロスの心を推し量り、メドゥーサの失恋にすら心を痛めるばかりか、人間の……いえ生物の一つ一つの苦しみや悲しみに心を痛めるのです。きっと彼が背負う苦しみや悲しみはアトラス様が支える天よりも重いに違いありません」


 ハデスは瞼を開けるとペルセポネのエメラルド色の瞳を見据える。


「……いつも君はローレンスの肩を持つと想っていた。そう言う事だったのか」


「お願いです。きっと優しい動機があってそうしようと想ったのです。あなたに仕える彼が優しい神でなければ、きっと母は最終的に婚姻に承諾しませんでした。彼に触れあなたに触れて、冥府で働く者は地を統べる者と同じく……いいえ、それ以上に心根が優しいと気付きました。どうかアスクレピオスのように魂を取り上げるなんてなさらないで」ペルセポネは頬に涙を伝わらせた。


 以前ハデスは『死者を甦らす』と言う腕利き医者であるアスクレピオスの魂を奪った。アスクレピオスが医療行為を始めて以来、冥府に死者が訪れなくなったからだ。生があれば死もなくてはならない。死がなければ地上は生者で溢れかえり領土争いが激化し深刻な食料不足や病が蔓延する。


 ハデスは溜め息を吐いた。確かにアスクレピオスの件はやり過ぎた。故に冥府付きの医師として『人間を蘇らせない』と言う条件下で第二の人生を歩ませている。戦の刃に巻き込まれ傷ついた神の手当や健康管理の知恵等には眼を見張るものがある。残して利点が有る場合もある。


「あなた……どうかお願い。あなたは誰よりも心優しい方です」ペルセポネはハデスを見上げて両手を組んだ。


 ハデスは小さな溜め息を吐く。


「……君には逆らえない。確かにそれなりの理由があったのだろう。彼やハンスを冥府に呼びつけるが重罰は与えない。しかし他の神々や魂達の手前、ハンディキャップを課す」


 ペルセポネは、心優しい夫に抱きつき頬にキスをする。


「ありがとう、あなた。あなたの慈悲深さと高潔さに感謝します」ペルセポネは乙女のように微笑んだ。


 頬を染めたハデスは外方を向いた。


 ローレンスとランゲルハンスは冥府の小法廷で裁判を受けた。ローレンスの友人であるアケロンの渡し守のカロンやヘカトンケイル、キュクロプスが眉を下げ傍聴席に座していた。島の管轄権を有したヘカテはハデスの命により僻地の犯罪調査に向かい、欠席した。ハデスは彼女を有能な部下と想う半面、絶大な力を有しているので危険視していた。


 壇上の玉座にハデスが着くと裁判は始まった。今回は魂の裁定ではない。従ってゼウスの三人の息子である裁判官達を抜いた形式だ。ケールが起訴状を読み上げ、ハデスが事実に相違ないか、と被告達に訊ねる。彼らは嘘も吐かず互いを庇い合う事も無く、真実だけを述べた。傍聴席のカロンやヘカトンケイル達は互いを見合わせ、ローレンス達を案じた。


 裁判は滞り無く進んだ。ランゲルハンスとローレンスの行いは明るみに引きずり出された。


 重罪が課せられるだろう自分の今後などローレンスは憂いていなかった。それよりも島で生を謳歌する魂やまだ救いの手を差し伸べていない魂、そして良き親友であるランゲルハンスについて憂いていた。ランゲルハンスもローレンス同様、島民や自分に手を貸した四大精霊達、そして善良なローレンスに重罪が課せられないかと案じていた。


 一度だけ休廷を挟み、ハデスは悪魔と死神に判決を言い渡した。


 重罪は課されなかった。しかし幾つか制約が発生した。島へ運ぶ魂の選定条件や運営、島の管轄権をヘカテ女神からハデスに移譲する事で収まった。


 島へ運ぶ魂はハデスや運命の女神達のモイラが許した魂である事、それ以外を運んだ場合は罰則を課す事、記憶を取り戻し現世へ戻る魂には原則的に帰島出来ない事、ランゲルハンスとローレンスがハデスに対し反旗を翻すなら即刻魂を奪う事、そしてローレンスに監視の者を付ける旨をハデスは言い渡した。


 よくもクチバシを入れてくれたものだ。ランゲルハンスは胸の内で毒づいた。


 安心したローレンスは意識を失いその場に崩れた。ランゲルハンスに抱き起こされた。しかし余程ストレスが堪っていたらしい。声を掛けても頬を打ってもローレンスは起きなかった。


 傍聴席で狼狽えるキュクロプスにローレンスをアスクレピオスの救護室まで運ぶようハデスは命じた。屈強な巨人のキュクロプスに抱かれ、ローレンスは小法廷を出る。キュクロプスの背後にローレンスを案じたカロンやヘカトンケイルが従う。ランゲルハンスも付き添おうとしたがハデスに引き止められた。


「何かね?」ランゲルハンスは玉座を見上げる。


 玉座から立ち上がったハデスは壇を下りると悪魔に歩み寄る。


「先ずはタルタロス送りから逃れた事について祝いを述べる」


「どうも。……この判決は奥方の意志が強いのだろう?」


「そうだ。ペルセポネの慈悲だ」


「命運が君の愛妻の一声に懸かっていたとはね。なんたる茶番劇だ」ランゲルハンスは鼻で笑った。


「妻は地上に居た頃からローレンスの肩を持っていてね。彼の心根を高く評価している。……それに君やローレンスの考えは必要悪だ。敢えて眼を瞑らなければならない事もある。それを公的に認めただけだ」


「しかし私やローレンス、そしてヘカテ女神を危険分子と見なし相応の理由を持って縄をつけたかったのが本懐だろう」ランゲルハンスは睨む。


「何とでも言え」


「……して、友人を案じた私にそんな胸糞悪い話をして引き止めたいと?」


「君には一つ頼みがある」ハデスは憂いを含んだ闇色の瞳でランゲルハンスを見つめた。


「島の運営なら口うるさい誰かさんの介入を受け入れたつもりだがね」ランゲルハンスは苦笑した。


「島の事ではない。死神達の事だ」


「ほう?」


「……現世に人間が増え大陸に散らばるにあたり、死神達は彼らを手に負えなくなりつつある。死神の数は足りている。しかし統制が執り辛いのだ。いかんせん柱数が多い。死神同士の情報交換も冥府でしか行えない。現世で一つ所に死神が集まると霊感が鋭い人間に怪しまれる。その上勢力拡大をするのかと、戦争を仕掛けられるのではないかと他神族から危惧される。しかし死神を頻繁に冥府に集めるのは限界だ。此処は刑場が広くとも裁定の間や神々の住居区画は狭い」


「……それで大勢の死神が集える場所を提供しろと?」ランゲルハンスは問うた。


「無論、君の島でなくて良い。人目につかず頻繁に出入り可能な情報交換の場が欲しいのだ。またそこに常駐し彼らを統括する者が欲しい。我が神族には余剰の神が居ない。給料の手渡しや人事転換等、全て妻がしているのだ。これでは妻にも妻の母堂であるデメテルにも申し訳が立たない」


「優しい奥方だな。冥府の最高神の伴侶でありゼウスの娘ならば本来なら優雅に暮らしていただろうに。故に奥方に頭が上がらないのかね、君は」ランゲルハンスは喉を小さく鳴らして笑った。


「罰は随分と軽くしたつもりだ。この件を飲まなければ重罰を課す」ハデスは睨む。


 唇を噛み締めたランゲルハンスはハデスを睨む。


「……魔術で場を提供しよう。しかしヘパイストスに人員を作らせれば良いではないか。鍛冶の神である彼は土人形を作る名工だっただろう? 人類初の女と謳われる土人形……確かパンドラだったか? 彼女を作ったのは彼ではないか」


「……神が持たせた匣を彼女が開けた事により人類は災厄を受け、争いや貧困が生まれた。それがゼウスの狙いだった。しかし建前上ヘパイストスを退かなければならない。思惑を知らないヘパイストスは実父ゼウスに睨まれた。以降、彼は土人形を門外不出にしている。故にローレンスの件も土人形ではなくクローンを作ったのだ」


「……ヘパイストスもローレンスも気の毒な神だな。冥府もオリュンポスも策略に満ち満ちている」


「冥府は違う」ハデスは睨む。


「ヘカテ女神を僻地に飛ばし裁判を欠席させたと言うのに?」ランゲルハンスは睨み返す。


 冥府の最高神と悪魔が睨み合う。何方も視線を外さずに埒が明かない。ランゲルハンスは溜め息を吐く。


「……分かった。統括者の件もこちらで何とかする。やろうと想えば当てはあるだろう」


 唇を噛み締めたランゲルハンスは小法廷を後にした。

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