五章 五節


 春になるとランゲルハンスとヴルツェルは土を耕した。花の種を蒔く為だった。農具を差し込まれて柔らかくなった土からは命を抱く懐の深い香りが漂う。


 ランゲルハンスは靴を脱ぐと柔らかな土の上を素足で歩いた。晴天の下、遠くでヒバリの歌声が聴こえる。睡蓮のように白い足の甲に黒い土がかぶさる。踏みしめる度に土の香りが漂う。汚れるのを構わずに暖かい土を踏みしめた。土の感触はひたすら柔らかく、雲を歩いているような心地になった。


「折角耕したものを踏みしめるのか。苦労が水の泡だ」ヴルツェルは額から流れる汗を手の甲で拭う。


「まあそう言うな。なかなか良い心地だ。君も靴を脱いだらどうかね?」同じく額から汗を流したランゲルハンスはヴルツェルを見遣った。


 柔らかい土を踏みしめて微笑む女をヴルツェルは眺めていた。しかしあまりにもランゲルハンスが良い笑顔をしていたので、ヴルツェルは靴を脱ぎ隣で柔らかな土を踏みしめた。


 足を下ろす毎に、柔らかな土はフワリと凹んで足を受け入れた。足が黒い土に埋もれゆく感覚をヴルツェルは瞳を閉じて楽しんだ。


「気持ちいいだろう?」ランゲルハンスは問うた。


「……ああ」


 ヴルツェルは長い耳を動かす。


「土に埋もれるよりも、土に抱かれる感覚に近いな」


「そうか。君はそう感じるのか。私は天上の地を踏んでいるような気分になった」ランゲルハンスは微笑んだ。


「……素足で踏んでみるまで気付かなかったがなかなか心地良いものだな」


「生命の苗床だからな。男の体は固いが女の体は柔らかいだろう?」


「……ハンスらしい考え方だな」


 二人は互いを見遣ると笑った。


「なんだ。笑えるではないか」ランゲルハンスはヴルツェルの頬を人差し指で突いた。


 ヴルツェルは頬に触れた。いつもの固い頬とは違って緩んでいる。


「……私は笑っているのか?」


「ああ。良い笑顔だ」ランゲルハンスは微笑んだ。


 頬を染めたヴルツェルは外方を向くともう一度農具で土を耕し、花の種を蒔いた。


 不自然な生を受けるゴブリンと悪魔にも月日は当然のように流れた。土から種の殻を被った芽が出、小苗になり瞬く間に茎がヴルツェルや女姿のランゲルハンスの背を追い越した。


 やがて青い小さな蕾が出た頃、ランゲルハンスは再び現世に召喚された。ヴルツェルの家で夕食を摂っていた時の事だ。蜂蜜をふんだんに使ったパニスを手に持っていた。


 召喚したのは前回と同じくローレンスだった。ランゲルハンスはローレンスを見つけると瞬時に男の姿に変わった。


 薄闇の中でローレンスは床に座し、口をだらしなく開き、両腕を交差させて肩を抱いていた。煌煌と青白く光る不思議な瞳は壁を見つめている。瞳は虚ろだ。きっと脳には視覚情報が届いていないのだろう。


「……また話を聞いて貰いたいのかね?」陣から出たランゲルハンスは男姿になり、爪に火を灯した。


 ローレンスは洟をすすった。


 太古からの存在であるにも関わらずちっぽけな死神をランゲルハンスは見遣った。彼は前回よりも酷く痩せていた。緩やかな服を着ていた。しかし骨も同然になった体を隠し切れていない。眼窩は酷く落ち窪み、骨が出っ張った頬は痩けていると言うよりも肉が無いと言った方が適当だ。面立ちは頭蓋骨そのものだ。何も食べてないのだろう。


 魔界に籍を置いていた際、ランゲルハンスは飢餓に陥る者を眺めた。皆、飢えているのに異様に腹が膨らんでいるのだ。食物を摂取出来ないが故に力が無く、腹にガスが溜まり、排泄やガス抜きすら出来なくなる。ローレンスはそれの一歩手前だ。


 術で枝付き燭台を出すと木のテーブルに置く。部屋が揺らめく炎に照らされる。ランゲルハンスは片手に持っていたパニスを千切り、ローレンスの眼前に掲げた。


「食べ給え。話はそれからだ」


 蜂蜜の香りが漂う。


 しかしローレンスは瞳すら動かさない。


 ランゲルハンスは小さな溜め息を吐くと、ローレンスの口をこじ開けパニスを突っ込んだ。口腔に指が触れる。酷く乾燥していた。何も飲んでいないのだろう。


 それでも反応を示さないので、ランゲルハンスは千切ったパニスを口腔から取り出した。そしてそれを自ら咀嚼すると口移しでローレンスに与えた。


 飲み込ませるのにどうしたものかとランゲルハンスは一考した。ローレンスの頭蓋骨さながらの面立ちを眺めているとある考えが思い浮かんだ。


 ランゲルハンスは一言声を掛けた。


「最初に謝っておく。悪く想うな」


 ランゲルハンスはローレンスの頭に拳を振り下ろした。


 衝撃が頭蓋に響き渡る。やっとローレンスの意識と神経は繋がった。驚いた彼は咀嚼物を飲み込んだ。しかし古木のように枯れた喉に咀嚼物が当たると咳き込んだ。彼は床に手をついて吐き出す。


 ランゲルハンスは背を擦ってやった。


 ローレンスはゼェゼェと息切れを起こした。水差しは無いかとランゲルハンスは部屋を見渡した。木のテーブルに白い陶器の水差しがあったのでそれを掴んだ。しかし水差しから嫌な臭いが立ち昇り鼻腔を突く。カビの臭いだ。水差しをテーブルに戻すと、ローレンスに近寄った。


「……やっと、来て、く、れたんだ。待って、たよ、ここ一週間程」乾燥して口腔とくっ付きそうになった舌を駆使してローレンスは言葉を紡いだ。


「何も食べてないようだったので手持ちのパニスを食べさせようとした。咀嚼もしないし嚥下もしないのでどうやって嚥下させようかと考えて叩いた。食べ物よりも飲み物が先だったようだな」ランゲルハンスは術を使い羊のミルクが満ちた水差しとカップを出す。そしてミルクを注ぎ、差し出した。


「……あ、りが、と」


 それを手に取ったローレンスは先ずは一口だけ含み、口腔を湿らせた。そして口腔が潤うとミルクを喉に送った。そんな儀式を幾度か繰り返している内に咽頭は甦った。


 ランゲルハンスは空になったカップにミルクをなみなみと注いだ。ローレンスはミルクを幾度となく飲み干した。


 人心地着くとローレンスは気恥ずかしそうにランゲルハンスを見遣った。ランゲルハンスは持っていたパニスを差し出した。蜂蜜の香りが漂う。ローレンスはそれを小さく千切りゆっくりと食べた。


 パニスを完食し長い溜め息を吐くと、自分を見つめるランゲルハンスに礼を述べた。


「ありがとう。助かったよ」


「……君は貧しいのかね? それとも君の管轄区は大飢饉にでも見舞われているのか?」


 ローレンスは首を横に振る。


「違うよ。ちゃんと賃金は貰っているし、僕の管轄区は飢饉に陥っていない」


「だったら何故?」


 ローレンスは俯いて黙っていたが言葉を紡いだ。


「……悲しすぎると食べる事や眠る事を忘れてしまうんだ。仕事にはちゃんと出てるよ」


 ランゲルハンスは溜め息を吐く。


「……君の心の均衡は崩れているな」


「……恥ずかしながら。飢饉や災害、戦争に巻き込まれた人達よりはマシだろうけど」ローレンスは視線を逸らした。


 もし人間ならば『自分よりも辛い者がいる。自分は恵まれている』と我慢に我慢を重ねて心身を壊し死んで逝く種類の輩だろう。ローレンスは神として生きるのにも人間として生きるのにもあまりにも優しすぎる。


「今度は何があったのかね?」ランゲルハンスはローレンスの隣に座す。


「……聞いてくれるの?」


「だからこそ私をここへ喚んだのだろう?」


 力なく微笑んだローレンスは小さな溜め息を吐く。


「……ありがとう。友達っていいね。僕、君と友達になれて良かったよ。君の他に僕の気持ちを聞いてくれる人なんていないんだ」


「友人はいないのかね?」


「……命の短い人間と付き合うと悲しくなるのは今回でよく分かったんだ。君みたいに僕の気持ちをただ受け止めてくれる優しい人だったんだ。たった一年でもいい、短い間だけでもその人と触れ合っていたいって想えたんだ。でも流行病で亡くした。頭をヒュプノスに触れられる彼を僕は黙って見ている他なかった。僕が出来る事と言ったらただ見つめる事と、魂を体から切り離す事だけだ」


 長い溜め息を吐いたローレンスは虚空を見上げた。上空を旋回する鳶を見つめるように懐かしさを含んだ悲しい瞳で虚空を眺めていた。ランゲルハンスは言葉を掛ける訳でもなく、ただ隣に居てやった。


「……君は永遠を生きる悪魔だ。君はとても優しい。僕は君を誇りに想うよ。……あのさ、だから僕、お願いしたいんだ」


「……契約か?」ランゲルハンスは問うた。


「うん。ハデスに怒られたって構わない。僕、もう正常な判断が出来なさそうなんだ。悔恨残して死んで逝った魂を少しでも救いたい、意識を失ってずっと眠っている人にもチャンスをあげたい。二度と現世に戻れなくても、君の島で笑ったり泣いたり怒ったりして楽しく暮らして欲しい。これすらも願えなければ僕は少しずつ死んで逝くだろう。きっと心が少しずつ少しずつ石になるんだろう」


「……君は石になりかけている」ランゲルハンスはローレンスを見遣った。


「……うん。でも君が居てくれて良かった」ローレンスは微笑んだ。


「契約出来るからか?」


 ローレンスは首を横に振る。


「友達だからだよ。心配して僕にパニスを食べさせてくれた。ミルクだって飲ませてくれた。……君は肯定するでも否定するでも無く、話を聞いてくれる」


「契約の為に善処しているだけかもしれないぞ?」


「……それでも構わないよ。でも僕はそうは想わない。君は優しいんだ。作物を実らす柔らかな土のように、枯れた花を抱く土のように」


「馬鹿な事を」ランゲルハンスは鼻を鳴らした。


「……人は土を絶って生きていけないんだ。僕も土のような君を手放したくはない」


「……プロポーズのつもりかね?」ランゲルハンスは喉を小さく鳴らして笑った。


 ローレンスの青白い頬が真っ赤に染まる。


「ち、違うよ! ずっと友達でいたいんだ。ねぇ、いいだろ?」


「……初めて会った時に君が約束してくれただろう? 『離れてても、永遠に会わなくても友達』だと。私と君は親友だ」


 ランゲルハンスは天井を仰ぎ、口を大きく開いた。喉に手を突っ込むと丸まったパピルスを取り出した。そして広げると、犬歯で親指に傷を付けて滴った血で署名した。


「署名し給え。それが契約書だ」ランゲルハンスはパピルスを渡した。


 受取ったローレンスは文章を眼で追った。字はローレンスが現在住んでいる国の物でもない、冥府で使っている物でもない悪魔文字だった。多少読めない文字はあったが契約内容はランゲルハンスが言っていた事と相違ない。


 契約を考えて以来、ローレンスは魔術を扱う老婆の許を訪れては悪魔文字を学んだ。それが役に立ったと安心して溜め息を吐いた。


「……君は読めるのだな」


「うん。お婆さんに習ったんだ。……やっぱり君は優しいね。言ってる事と文章に違いは無いよ」顔を上げたローレンスは微笑んだ。


「私は君を騙すつもりは毛頭ないし、君を救いたい気も毛頭ない。君の魂が欲しいだけだ」ランゲルハンスは鼻を鳴らした。


「……でも君の期待には添えない。僕は子供を残さない」ローレンスは眉を下げた。


「それでも契約は契約だ。気が変わって残すかもしれない。その時、魂を貰い受ける」


 ローレンスはランゲルハンスを見据えた。雪が舞う厳冬の空を想い起こさせる鈍色の瞳は物悲しい程に澄んでいた。


「……わかったよ。僕は子供を残さない。僕が死んだら君に魂を委ねる。それでいいんだね? 歪な契約でいいんだね?」


「ああ」


 深く頷いたローレンスは犬歯で指を傷つけた。そしてランゲルハンスの署名の下に本名を署名する。そしてパピルスを差し出した。ランゲルハンスはそれを受取ると再び丸め、飲み込んだ。


「やっぱり腹にいれるんだね」ローレンスはクスクスと小さな笑い声をあげた。


「『腹を割って話す』と言うだろう? 大切な物は体内に納めるのが一番良い。魂を運搬する手段等、細かい事は後日決めよう」立ち上がったランゲルハンスはテーブルに置いていた枝付き燭台を掴んだ。


「……もう行くのか?」ローレンスは眉を下げた。


「ああ。食事の途中だったからな。友人を待たせている」


 ローレンスは寂しそうに微笑む。


「……いいな。きっと優しい君は沢山の友達に囲われているんだろうね」


「君も早くこちらに来ると良い」ランゲルハンスはローレンスを見下ろすと微笑んだ。


「……その手には乗るもんか。これから僕は僕のやりたいようにやるんだ。誰に責められたって良い、僕は人々の魂を救済するんだ」ローレンスは微笑み返した。彼の青白く光る瞳には光が宿っていた。


 当分の間ローレンスは大丈夫そうだ。ランゲルハンスは鼻を鳴らして笑うと術を使って姿を消した。ランゲルハンスが佇んでいた場所には黒い粒子が舞いキラキラと星のように瞬いていた。ローレンスは宙を舞う粒子を見つめ、いつまでも微笑んでいた。

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