魔球

日向善次郎

魔球

「敬遠はしない。この打者バッターで終わらせる。」

マウンドの伊藤ははっきりとそう言った。

一点差の九回表二死二塁。打席には四番打者を迎える場面で矢島はタイムを要求してマウンドに駆け寄ったのだった。伊藤の様子を観察する矢島。落ち着いているし息も上がっていない。自軍ベンチは勝負せよのサインだ。

「それと、投げるよ。サインで投げるから。矢島に任せる。」

矢島は頷き、キャッチャーズボックス目指して小走りにマウンドを降りた。


 偶然見つかった方法だった。

 臨床検査技師の田中がfMRI計測の最中に地震が起きた。被験者が必要以上に危険を感じて装置から脱出してしまったのだ。既に計測が開始されており、被験者は磁場発生装置の中心部のトンネルに上半身一杯まで覆われた状態にいた。後に田中は被験者に聞き取りしたのだが、危険を感じて装置のトンネルから出ようと藻掻いたら飛び出ていたのだという。田中は監視カメラの記録映像を見て驚いた。被験者は自分の腕二本で装置トンネルをまるで帽子を取るかのように一瞬で押し上げ、自分の体を足の方向へとしたのだ。

 映像から速度を推定すれば、被験者がその時出したエネルギーが概算出来ると田中は考えた。画像の解析とエネルギー計算を試みた結果、被験者は垂直跳び換算で1m以上飛び上がれる力を出したとなった。被験者はごく普通の体格で特に筋肉量が多いわけでもないし、そのエネルギー放出は常識ではあり得ない。しかも脚ではなくて腕を使ったのだ。あり得ないが目の前で実際に起きた現象だ。何度も計算を見直し、速度の推定を過小評価気味にしてもみたが、それでも充分非常識なエネルギー放出が行われたと結論づけざるを得ない。地震発生時にMRI装置内にいた被験者がパニックになり、通常ではあり得ない大きさの筋力を発揮して脱出した—これはいわゆる鹿なのだろうか?

 体力測定などで計測される握力や背筋力は、その筋肉組織が出せる最大値とは程遠い小さな値で、普段は筋力には制限が掛かっているという説が昔から存在する。もしその制限が無かったら、自分の筋力で骨を折ってしまうなどが日常起こり得るだろう。ヒトが種として生き残るためにその制限が必要だったことは納得が行く。一方で制限を超えたであろう力で危機を脱した昔話や、現代のニュースでの事例も散見される。火事場の馬鹿力という日本語や、それに類する表現が諸外国語にも存在することは、世界の各地で同様の現象—通常ではあり得ないエネルギーを放出する—がある一定の条件で起きうることを示していると考えられる。

 被験者の脳の計測データはどうだったか。ケーブルは被験者ので引きちぎられてしまっていたが、その直前までのデータは残った。ケーブルが切れる直前、脳下部にある扁桃体で極端な反応が出ていたことが分かった。今までに見たことのない強いものだった。この極端な反応と、腕で放出した膨大なエネルギー。田中は考えた。この扁桃体での反応を何らかの刺激で再現できれば今回ののような馬鹿力が意図的に発揮できたりしないのだろか?それはアスリートの能力を高める為に利用できないのだろうか?

 扁桃体は主に外部からの物理的刺激に反応する。田中はこの外部からの刺激として音響を使うことを考えた。田中は自らを被験者として実験を行った結果、頭蓋骨の内部に音響的な定在波を作れば扁桃体への直接刺激を行うことが出来、音の強さと時間を調節することで扁桃体の反応を割と自在に操れる可能性を見いだしたのだ。当然、大きすぎる刺激を与えて本物のパニックに陥ったり、筋力の出力が抑制できなくなって怪我に至っては元も子もないし、調節には個人差があるだろうことも想像出来た。田中は第三者による実験を行うことにした。

 田中の友人の中でアスリートといえば、野球クラブチームの伊藤と矢島の二人だ。業務でのfMRI検査が行われない夜間に伊藤と矢島は田中の検査室に呼ばれた。実験の結果、矢島には有効な方法が見つけられなかったが、伊藤については周波数が特定でき、それは伊藤が自分の声で出せる音程であることが興味を引いた。自分の声で自分への刺激を作り出せれば、器具無しでどこでも実行可能な閉ループが出来るからだ。田中の要求に従い、伊藤は自分の声の高さを調節して幾度かチャレンジすることで感覚を掴み、扁桃体に強烈な刺激を与えることを技能として習得した。その状態を「頭がカーッとなる」と伊藤は表現した。

 日を改め、扁桃体に刺激を与えた上で投球してみる実験をチームの練習場にて行った。伊藤はグラブで顔を覆いながら捕手のサインを覗く格好で自分の声を使って扁桃体の励起を試みた。頭がカーッとなったところで投球動作に移る。励起が少なめだと投球動作中に効果が切れるのか、スピードガンにも数値の変化は出ず、捕手の矢島は伊藤の投球に何も変わったところが無いと言った。田中はもしもの事を考え、伊藤には励起の時間をいきなり長くしないように言っていたので、励起しては投げ、効果が無ければ励起時間を少しだけ長くして再び投げを繰り返した。そして5回目の投球。スピードガンにはそれまでと変わらない球速が表示されたのだが、捕手の矢島がわーっと声を上げた。

「これは凄い!凄いぞ!!」

 同時に伊藤は投球を終えた後の疲労感と心臓のドキドキする感じに少しの動揺を覚えていた。この投球よりも励起時間を長くすると急激に疲労度が増し、またなにより制球力が極端に低下することも実験的に理解できた。どうやら、伊藤の使える馬鹿力はピンポイントで存在するようだった。田中は推論が的中したことをよろこび、伊藤はまるで新しい変化球を覚えたかのようによろこび、捕手の矢島はよろこんでいる二人を見ることがなによりうれしかった。伊藤と矢島は、伊藤がこの一連のやり方を習得し、矢島の言う「凄い」球が何時でも投げられる様に訓練した。



 矢島がキャッチャーズボックスに戻ってマスクを被った。

「プレイ!」

審判がコールした。矢島は直球、外角低めをサインで出し、伊藤はグラブで顔を覆った状態からすっとセットポジションに入った。二塁走者をちらりと見た後、伊藤はやや脚を高く上げるフォームで力強いストレートを投げ込んできた。シューッという空気を裂く音とともに伊藤のボールは右打者の外角低めいっぱいを通過して矢島のミットの収まった。1ストライク。矢島は返球と同時に相手ベンチ、三塁コーチ、二塁走者を次々と観察し、最後に打者の足位置を確認した。相手ベンチは盗塁などは仕掛けず、四番打者に全てを託したようだ。その打者本人は投球ごとにスタンスを変えるタイプではなく、自らの間合いで球を捉えようとしているのだと理解した。二球目。矢島はインコースにスライダーを要求した。なるべく身体の近くへ寄せて反応を探ろうとしたのだ。伊藤は右手にボールを持ったままサインを覗くスタイルだ。サインを見るやセットポジションに入りながらグラブをバタバタさせる。この動作はダミーだったり、実際に握りを変えていたりするのだが、今回伊藤はスライダーへ握り替えている筈だ。ちらりと二塁走者を見て、打者を見て。先ほどより長目の間を取って脚を上げて投球した。シュルルルと音と立てながら伊藤のボールはインコース高めからカクッと折れるように曲がり落ちてきた。打者は一瞬ピクッとバットのグリップを動かしたが打ちにはこなかった。1ボール。矢島は、前の打席でヒットを打ったインコースの直球を狙っているのではないかと推論した。3球目で外角低めへのスライダーで2ストライクを取った。打者は全く反応を示さなかった。追い込んだのでバッテリー有利。だがうっかりした球を投げればたちまち同点。悪くすれば逆転されて試合を失うかもしれない。矢島の4球目の選択は3球目よりも外側にスライダーだった。シュルルル、バット一閃。だが変化量の大きい伊藤のスライダーはバットに当てるのがいっぱいでファウルになった。いやむしろカットに来たのかも知れない。カウントは1ボール2ストライクのままだ。

 矢島は考える。すぐに腹を決めないといけない。を使ってみる機会としては、この場面、このカウントが最適であることが気づいていた。実戦での投球で伊藤のテンションが上がり気味になっていたら、練習通りには行かないかも知れないが、このままのらりくらりとかわせる相手でもない。矢島は意を決してインコースへを投げろとのサインを伊藤に送った。

 サインを受けた伊藤も、このカウントで使うんだろうと感づいていた。矢島のサインを見て、グラブで覆った空間に音声を響かせた。

「うー・・・・」

うなり声は頭蓋骨内に定在波を作りそれを増幅した。一瞬にして扁桃体が励起され、伊藤の頭はカーッとなった。訓練で染みついたタイミングで励起を終え、セットポジションに入る。二塁走者をちらりと見た後やや大きく脚を上げ伊藤は投球を開始した。シューッ。インコースやや高めに伊藤の直球は進んで来た。打者には前の打席で仕留めたコースと同じように見えた。打者は反応しミートポイントに向けてバットをスイングし始めた。バットヘッドが前進を始める辺りで打者は異変に気づき、バットの軌道を合わせようと試みたが、それは到底間に合うタイミングではなかった。

カッ!

わずかにボールとバットが触れる音。少し焦げ臭い匂いが生じ、ボールは矢島のミットで小気味よい音を立てた。打者はスイングを終えたあと、信じられないといった表情でキャッチャーを振り返った。矢島はマスクを取り、マウンドの伊藤を讃えに駆け寄った。

「伊藤、凄いぞ! 速度は上がらないのにバックスピンが凄く増えてる!同じ軌道に見えてボール2個分浮くなんて。そりゃ打てないわ!」

伊藤は鼻を右手でつまみながら返事をした。

を投げると中指が痛むんだよな。それに今日は突然鼻血がでた。」

心配そうにのぞき込む矢島に伊藤は真顔で言った。

「これは相当ヤバイのかもな。」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

魔球 日向善次郎 @zd1122

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ