三章 八節


 目覚めたイポリトとアメリアはエンリケに別れを告げて、湖を目指した。木の根が地面を這い、岩が崩れた不安定な足場の森をひたすら歩んだ。


「寂しそうな顔してたね」アメリアはイポリトに手を引かれる。


「あん?」一歩先を歩くイポリトは振り返らない。


「エンリケ、さよならの時に寂しそうな顔してた」


「そうか?」


「うん。あのさ……もうちょっとここに居ても良かったんだよ?」


「阿呆言うなよ。早く帰って仕事せにゃならん。俺やお前の代わりの死神が今も仕事してくれてんだぞ?」


「そっか。そうだよね」


 二柱は黙って道なき道を進んだ。途中、大木の根が無数に這った地面に出くわした。精神的疲労が蓄積したアメリアは足許を取られそうになる。イポリトは振り返ると彼女を抱き上げた。


「独りで歩けるよ! 下ろしてよ!」アメリアは腕の中で暴れた。


「暴れんな! 少しでも体力温存しておけ!」イポリトは彼女を揺すり抱き直す。


「なんでよ?」アメリアはイポリトを見上げた。


「這い上がんのは正直、俺でもしんどいんだわ。途中まで翼で昇って暴風域に入ったら壁を昇るからな。覚悟しとけ」


「作戦はあるの?」アメリアは大人しく肩に凭れる。


「ああ。各々昇っても良いが軽いお前じゃ絶対に吹き飛ばせる。タッグ組んで行くぞ。お前は俺を背から抱えて、俺が絶壁に手を掛けるまで飛べ」


「こんな重い筋肉ダルマ抱えて飛べるか!」アメリアは憤慨した。


「阿呆。やるっきゃねぇんだよ。これしか手はないの。暴風域に入ったら交代だ。今度は俺がお前を負ぶって壁を昇る。青銅の蓋の近くまで上がったら叫べ。んでヘカトンケイルとキュクロプスに手伝って貰う。いいな?」


「……ん、分かった」


「剣術や武術やって体力が有るとは言え、俺を抱えて飛ぶのは辛いと想う。だが気張ってくれ。俺の魂、お前に預けるからな」イポリトはアメリアを見つめた。


 アメリアはイポリトを見つめる。


「……分かった。あたしを負ぶって壁昇りも相当きついと想う。イポリトも気張って。あたしの魂、イポリトに預けるから」


 鼻を鳴らしたイポリトは微笑む。


「ぶぅあーか。お前の魂なんて疾うの昔に預かってんだよ。俺とお前は家族だろ?」


 満面の笑みを向けたアメリアはイポリトに抱きついた。イポリトは驚いてバランスを崩しそうになったが持ち堪えた。


 森を抜けて湖に辿り着くと、イポリトはジャケットを脱ぐ。


「凄まじい風だから覚悟しておけよ。指輪の確認もしたか?」


「うん」アメリアはポケットに指輪を入れた。


「じゃあ帰ぇるぞ」


 イポリトは腰を屈めると自分の背に抱きついたアメリアの腰にジャケットを回し、袖を自分の腹にきつく縛り付ける。そして体の力を抜いた。


 アメリアは背から水色のドラゴンの翼を出し、広げた。イポリトは思い切り地を蹴った。それを合図に彼女は大空へと舞う。


 五メートル程上昇しただけで重いと感じた。


 ランゲルハンス島でアメリアはケンタウロスの宅配便のアルバイトをしていた。荷物を抱えて飛ぶのは日常茶飯事だった。子供が入りそうな程大きな陶磁器の壷や花台も運んだ事があった。しかしイポリト程重い物を抱えて飛んだ事はなかった。


 顔に血を昇らせたアメリアは上昇する。息を吸うだけで力が抜けて離しそうになる。彼女は唇を引き結び、歯を食いしばった。顔を真っ赤にして上昇するアメリアをイポリトは黙って見守っていた。


 やがて暴風域に近付いた。


「そろそろ交代だ。あと少しだけ気張れ」


 返事の代わりにアメリアは唇から息を漏らした。


「天を見上げろ。穴が見えるだろ? 穴に近付け」


 額から汗を垂らしたアメリアは天を仰いだ。暴風域から微かに覗く穴が見えた。穴の中は真っ暗だ。


 アメリアは『ぎぃぃぃぃぃ』と唸ると、最後の力を振り絞って嵐へ突っ込んだ。叩き付けるような嵐の中、アメリアは無我夢中で上昇する。小さなゴミが舞い、容赦なく翼や頭を叩き付けた。しかし痛みを堪えて歯を食いしばる。


 腕を伸ばしたイポリトは岩肌を探す。アメリアは重さと嵐に堪え切れずに幾度となく唸った。


 腕がやっと岩肌に当たる。イポリトは岩肌に手をかけて体を貼り付かせた。嵐に負けじと声を張り上げる。


「もういいぞ! よく気張ったな!」


 嵐にかき消されそうなイポリトの声に安心したアメリアは首筋に抱きついた。


「よく気張った! 今度は俺が気張る番だ! しっかり掴まってろよ!」


 やっと息を吸ったアメリアは、呼吸を荒げつつイポリトの耳に唇を寄せる。


「……うん。必ず一緒に帰ろうね」


 イポリトは微笑むと岩肌に足を掛けて昇り始めた。


 足を掛けて昇るだけなら容易だが、この凄まじい嵐の中、アメリアを背負わなければならない。彼はアメリアが疲労や恐怖で意識を失わないよう声を掛けつつ絶壁を登った。


「起きてっか?」イポリトは手足を崖に掛け、忙しなく動かす。


「こんな所で眠れる訳ないでしょ」アメリアは首筋に耳を付け、彼の体内で響く声に耳を澄ませる。


「じゃあ話し相手になってくれよ」


「いいよ」アメリアは忙しなく動く菱形筋に振り落とされまいとしがみついた。


「……研修で何勉強したんだよ?」イポリトは数十センチ上の突起を掴む。


「研修って言っても冥府巡りだよ。イポリトと友達のケールのカーミラに会ったしモイラ達に会ったりカロンに会ったり、法廷で傍聴したり社会科見学みたいだった」


「モイラの婆さん達、何言ってんのか分からなかったろ?」微笑んだイポリトは脚を突起に掛けて体を引っ張り上げる。


「うん。古代ギリシャ語で話しかける上に訛が強くて何言ってるのか分からなかった。モイラ専門の訳者がいる事に頷けるよ」


「カロンはどうだった? あいつ、お前の父ちゃんのマブダチだぜ」


「びっくりした。父さんが苦手そうな神が友達なんてね。すっごく強引で現金だね」


 静止したイポリトは豪快に笑った。アメリアは微笑む。


「でも明るくて素敵な人。アケロンは一度見学した事あるけど、やっぱり長閑で綺麗な所だね。お花畑に大空が広がって風光明媚。カロン、アリスみたいなワンピース着てくるくる踊ってた。ケルベロスもお花の首輪してた」


「アケロンはいい所だよな。でも十年前までは死体が山積みの闇の世界だったぜ?」再び突起を掴んだイポリトは体を引き上げた。


「うん。カロンが言ってた。父さんのお蔭だって、お礼をいっぱい言われた」


「ローレンスは底無しに優しいよな」


 その会話を最後に二柱は黙した。


 イポリトの体は熱がこもっていた。本能で手足を動かすが頭は熱で浮かされていた。


「イポリト、大丈夫? 汗かいてるのに熱が下がらないよ?」


「……おう。また話してくれよ。意識飛びそうだわ」


「水や果物持ってくれば良かったね」アメリアは眉を下げた。


「今更後悔したってなぁ。……アメリア、お前は大丈夫か?」


「あたしは大丈夫。……最近気付いたけどイポリトってさ、時々あたしを名前で呼ぶよね」アメリアは首筋に頬を寄せた。


「……んだよ。悪ぃか?」


「ううん。嬉しい」


 イポリトは力なく微笑んだ。


「イポリト、こんなに頑張ってくれてるもの。頑張れなんてとても言えないよ。だからさ、一緒に帰ろう?」アメリアは囁いた。


「……おう」


「帰ったら何する?」


「……何するって、ビールしこたま飲んで寝るわ」


「そうじゃなくて!」


「……じゃあアメリアは何すんだよ?」


 アメリアは微笑む。


「あたしはイポリトが作ってくれたカレー食べたら、『シラノ・ド・ベルジュラック』の続きの台本読みしたい」


「……また俺が付き合うのかよ」


 アメリアは唇を尖らすとブルブル鳴らす。


「じゃあいいよ。記憶失うまでビール飲んで眠ればいいよ。翌朝、ボロボロに破れた服はだけさせて『イポリトに襲われた。もうお嫁に行けない』って泣いてやるから」


「やめろ。冗談抜きで笑えんから」イポリトは犬歯で唇を噛み締める。


「じゃあ付き合って」


「……覚えてたらな」


「……ごめん」アメリアは瞳を伏せた。


「あ?」


「……もうイポリトに甘えないって決めてたのに。やっぱりあたし、イポリトに甘えたい」


「ユウと言いユーリエと言いお前と言い、お子ちゃまに好かれると大変だわ」イポリトは鼻を鳴らした。


「ごめん。さっきの話は忘れて。あたし、大人にならなきゃ」アメリアは首筋に顔を埋めると彼を強く抱きしめた。


「……付き合えば良いんだろ? 台本読みなら俺の趣味の一環だしな。お前筋がいいからシラノ演じさせるとなかなか面白いぜ?」


 顔を上げたアメリアは破顔する。


「じゃあさ、今度の休み何処へ行く? イポリトのメットにインカム付けてツーリングしようよ」


「……お前、俺を休ませる気ねぇだろ?」イポリトは苦笑した。


「うん。だって一緒に居ると楽しいもん」


「……そりゃどーも。悪ぃが次の休みは無理だ。用が有る」


「じゃあ付き合うよ」


「付き合わんでいい。……野暮用だからよ」


「ふーん。女性関係?」


「……放っとけ」


「デート? プレゼント探し? 告るの?」


「……放っとけってば」イポリトは鼻を鳴らした。


「プレゼントだったら知恵貸すよ? お礼はジェラートで良いよ?」


「……鈍感の癖に変な勘が鋭くて恐ろしいわ。じゃあアメリアが男から貰うんだったら何がいいんだ?」


「うーん……指輪かな? メリッサの指輪、可愛いから憧れる」


「石が付いたやつか?」


「うん。何も付いてないのよりも石が付いてる方が絶対可愛いよ。きっと喜んでくれると想うよ」


「色は?」


「どんな色でも素敵だけど……ベタだけどピンクとか水色とか貰うと嬉しいよね」


「……サンキュ。参考にするわ」


「ジェラート宜しくね。ピスタチオとコーヒーのダブルがいい」


「……お前って本当に暢気だよな」


「え、あ。……ごめん。イポリト喉乾いてるのにジェラートなんて言ったらイライラするよね」アメリアは眉を下げた。


「……違ぇよ。まあ、いいわ」


「何よ。……でも寂しくなるな。彼女出来たら休日一緒に出掛けられないし、もう一緒に寝られないね。色々暇潰し見つけなきゃな。トラウマ克服しなきゃな」


「……お前はそのままでいいんだよ。無理すんな」


「でも彼女に悪いじゃん。あたしが彼女の立場だったらヤダもん。彼氏が他の女と一緒に住んでるとか寝てるとか絶対に無理!」アメリアは頬を膨らませた。


「……どうでも良いけどよ、偶に俺を独りにしてくれよ。偶にでいいからよ。今の生活じゃマスかこうにもかけねぇよ」


「……うん。分かった」アメリアは頬を真っ赤に染めて小声で答えた。


 いつの間にか嵐は止んでいたが今度は霧が立ちこめる。肌に湿気が纏わり付く。熱に浮かされたイポリトの体はいよいよ熱のやり場に窮する。それでも彼は上を目指した。爪は割れて血が流れ、指先の皮膚も岩肌に切られて滑りそうになった。


 心配したアメリアが『今度はあたしが抱えて飛ぶよ』と提案したがイポリトは承諾しなかった。いつ嵐が起こるか予測出来ない以上、無駄に飛ばない方が良い。吹き飛ばされてタルタロスへ落下すれば今度はいつ昇れるか分からない。


 霧が出て青銅の蓋は開けられているだろうに、天を仰いでも一帯が乳白色では光が見えない。イポリトの体は限界に近かった。汗腺は汗を流すのをやめた。やがて痙攣を起こすようになった。


 アメリアは心配した。彼の背に寄せていた豊かな胸をずらし、少しでも熱を逃がしてやろうと試みた。


 痙攣する唇を犬歯で無理矢理噛み締め、岩肌の突起を掴もうとイポリトは震える手を伸ばす。しかし手すらも意志を受け付ける事を良しとしない。指は突起に触れるが力が入らなかった。


 瞳を閉じて唇を噛み締める。イポリトの青ざめた唇から鮮血が流れ落ちる。


 俺なんてどうでもいい。せめてアメリアだけは地上に。


 心情を察したアメリアはイポリトを強く抱きしめる。


「ダメ。……一緒に帰ろ?」


 囁きに眼を見開いたイポリトは、力を振り絞り突起を掴んだ。


 これが最後の仕事かもしれねぇ。


 ……なら、やり遂げるまでだ。


 イポリトは絶壁を這い上がる。本能が命じるままに四肢を動かした。感覚は既に消えていた。痛みも寒さも音声も脳から遮断され、彼は自らの意志一つで絶壁を昇った。


 次から次へと現れる新しい突起を掴んでいく内に霧が薄らぎ、頭上に朧げな光が見えた。


 光に気付いたアメリアは有らん限りの力で声を張り上げた。すると声を聞きつけたキュクロプスとヘカトンケイルらしい大きな二つの影が霧の中から手を振った。


「あともう少しだ。けっぱれ!」


 アメリアの耳にキュクロプスの声が届く。彼女は震える唇に力を込めてイポリトに囁く。


「あともう少し。もう少しだから……一緒に帰ろ」


 全ての感覚を遮断し岩肌を這い上がるイポリトは意識を引き戻された。背に抱きつく彼女を横目で見遣ると力なく微笑んだ。


 イポリトは最後の力を振り絞り、岩肌を昇った。


 やがて霧の中から無数の腕を差し伸べるヘカトンケイルの姿が現れた。アメリアとイポリトはヘカトンケイルに体を掴まれて引き上げられた。体を地に横たえられたと同時に二柱は意識を失った。

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