二章 一節


 今回のレイトショーは期待はずれだった。まだ観たい映画が山積している。出鼻を挫かれた。しかし休暇はまだある。近い内にまたシアターに行けば良い。


 帰宅したイポリトはブーツを脱ぎリビングへ向かう。すると革張りの黒いソファにアメリアが膝を抱え座していた。頼りなげな彼女は顎を膝に乗せスイッチの入ってないテレビを眺めている。足許ではユーリエが心配そうに彼女を見上げていた。


 落ち込んだローレンスのクソじじいそっくりじゃねぇか。変な癖が親父に似やがって。


「無理もねぇがまだ落ち込んでるのか?」イポリトはリモコンを取るとテレビに向けた。真っ暗だった画面はニュースを映す。


「……落ち込んでないよ。眠るのが恐くて」溜め息を吐いたアメリアは瞳を閉じた。


 イポリトは隣に乱暴に腰を下ろした。


 重い筋肉の塊が急にソファに乗った反動で、頼りなげなアメリアはバランスを崩す。彼女はイポリトの肩に寄りかかった。ユーリエはソファから転がり落ちる。イポリトは横目でアメリアを見遣った。顔色は普段よりも青白く、眼の下に濃い隈が出来てやつれていた。


 んだよ。癖どころか表情まで親父にそっくりになりやがって。


 イポリトは彼女の頭を乱雑に掻き撫でた。


「……コンラッドの夢ばかり見るの。眠るのが恐い」アメリアは呟いた。


「恐くても眠るのは仕事の内だ。そんなんで黒いレディに乗って仕事出来っかよ」イポリトはアメリアの頭を回した。


「乗ってないよ、事故起したくない。翼広げて飛ぶのも恐い。面倒だけど地下鉄乗って仕事してる」


 イポリトが溜め息を吐くとアメリアも溜め息を吐いた。


 鼻を鳴らしたイポリトは立ち上がった。支えを失ったアメリアはソファに倒れた。彼はアメリアの部屋に向かうとベッドを整え、リビングに戻る。ユーリエはいつの間にかコーヒーテーブルによじ登り、ソファで倒れているアメリアを心配そうに眺めていた。


 イポリトはアメリアの首根っこを掴むと彼女の部屋へ運んだ。そして乱雑に放る。アメリアはベッドの端に転がりシーツに突っ伏した。


「寝ろ」


 イポリトは踵を返した。


 ベッドから洟をすする音が聞こえる。


 強情っぱりで本当に面倒臭ぇ女だな。


「……殴り飛ばしたり蹴り飛ばしたりすんじゃねぇぞ」


 深い溜め息を吐いたイポリトは電気を消すとベッドに静かに入り、体を横たえた。


 ベッドが揺れる。アメリアは一瞬体を強ばらせた。しかし彼を許し、小さな溜息を漏らす。


 片腕を曲げて頭を支えたイポリトは空いた方の手でアメリアの肩を優しく叩いてやった。トントン、と優しいリズムが闇に響く。洟を啜っていたアメリアは優しいリズムに気を許し心地よくなり小さな寝息を立てた。イポリトは鼻を鳴らし、肩を優しく叩き続けた。


 世話焼かせやがって。あのクソじじい、面倒臭ぇ女を残して逝きやがって。本当にこいつはガキだな。俺はガキが嫌ぇなんだ。


「……かあ、さん」アメリアは寝言を呟いた。


 母ちゃん、か。あの変態野郎じゃなくて、母ちゃんの夢を見られるならよく眠れるだろうな。


 イポリトは鼻を鳴らすと、瞳を閉じた。




 幼少時、イポリトは売春婦の母と共に粗末な小屋で暮らしていた。


 母はイポリトを身籠り腹が出ると田舎町の売春宿を追い出された。売春宿の床下は堕胎した赤子の死骸で埋め尽くされていた。売春宿で働き続けるには赤子を堕胎する他なかった。


 母の名はリンダと言った。彼女はイポリトに乳を与える傍ら、こそ泥をし路地裏や小屋で客を取り睦み合って金を得る。他の男に体を許すも去ってしまったイポリトの父を愛し、イポリトを愛していた。赤子だったイポリトに歯が生えると愛する息子の食を優先させた。イポリトは同時期に生まれた街の赤子達よりも成長が早く、直ぐに歩けるようになった。しかしリンダは気に留めない。それは無学で貧しい自分に神様が施してくれた恵みなのだろうと考えた。売春で得た金でイポリトの服や靴を揃えてやった。


 こそ泥をせず客を取らない時間、リンダは幼いイポリトを抱いて頭を撫でる。イポリトは母の豊かな胸が好きだった。柔らかく温かい胸に頬を寄せると鼓動が気持ち良く伝わる。ひび割れているが母の優しい手も好きだ。そして水鏡に映る自分とそっくりな母の顔も好きだった。


 身なりこそ汚いがリンダは美しい顔立ちをしていた。彼女は限りなく優しいまなざしでイポリトを見つめる。『あなたは私に似てるけど、あの人と同じ青白く光るおめめがとっても綺麗ね。不思議なおめめ。お金持ちが着けてる宝石みたい』と、リンダはイポリトの額にキスをした。


 リンダは歌や町角で聞いた興行芝居の宣伝台詞を真似して聞かせてやった。母の美しい声を聴くとイポリトは心地良くなり、まどろんだ。リンダはそんなイポリトの背や腕を優しく叩いた。トントン、と優しいリズムが刻まれる。イポリトは優しく美しい母に抱かれる時間が一番好きだった。


 しかしそれは長く続かなかった。リンダは病持ちだった。彼女はイポリトが生まれる前から咳をしていた。産後の肥立ちが悪く、碌に物を口にしなかった彼女は日に日に悪化する。やがて咳き込むと止まらなくなり血を吐いた。こそ泥や売春も叶わなくなり、彼女は一日中小屋の藁の塊に横たわっていた。


 イポリトは木登りやでんぐり返しが出来る程に成長した。少年のイポリトは青白く儚くなる母に何かを食べさせてやろうとこそ泥を働いた。


 幼い頃から彼には不思議な力が二つあった。一つは遠くの人々の会話を聞き取れる力だった。幼くも知恵が回り体躯に恵まれた彼は足が速かった。金持ちの会話を聞き分け彼らに近付くと盗みを働き、気心知れた見せ物小屋の仲間に売りさばいた。イポリトは滋養のある物を母に食べさせようとした。しかしリンダは既に食べ物を受け付けられる状態では無かった。イポリトが食べ物を彼女の口に入れても血と共に吐き出した。


 二つ目は不思議な者を見る事が出来た。イポリトの青白く光る不思議な瞳はリンダや他の者には見えない黒装束の大男を見る事が出来た。日頃親しくしていた異形の者達とは違う異質さを大男は纏っていた。時折、黒装束の大男はリンダの小屋の前に現れた。彼はイポリトと同じく青白く光る不思議な瞳をしていた。幼いイポリトは物陰に身を潜めてやり過ごす。しかし母に危害を加えようものなら大男に噛み付いてやろうと考えていた。


 大男は小屋の前に佇むと窓を覗き、藁の上で横たわるリンダを暫く眺めては去るだけだった。イポリトは樫の木のような大男も恐ろしかったが大男の爛れた右手も恐ろしかった。この世の者なら避けられない恐ろしさを右手は放っていた。


 こそ泥やリンダの看病の合間にイポリトは見世物小屋の裏手へ遊びに行った。そこには異形の者達がイポリトを待っていた。初めの内、彼らはイポリトを疎ましく思っていた。しかし鼻につく金持ちや貴族から金品を掻っ払い、彼らの仕草を面白可笑しく演じるひょうきんなイポリトに心を許した。イポリトはゴム女や怪力男、接着双生児の老人達と親しくなった。


 イポリトは恐ろしい大男の事を見世物小屋の怪力男に相談した。話を聞いた怪力男は眉をしかめた。溜め息を吐くと『昔、別の小屋で働いていた時にフクロウ男から聞いた。そいつは死神だ。お前の母ちゃんを殺そうと狙ってる。気を付けな。死神は美しい者や優しい者が大好きだ』とイポリトに注意した。


 ある日、黒装束の大男が小屋に入って来た。今日は爛れた右手を包帯で巻いている。


 勇気を振り絞り、イポリトは彼を睨みつけ行く手を阻む。


「母ちゃんを殺させない。殺すなら俺を殺せ!」


 大男は包帯を巻いた大きな右手でイポリトを除ける。そして藁の上で横たわるリンダに近付き屈み、キスを落とした。


 朦朧とした意識の中、リンダは瞳を開く。


「……お帰りなさい。ずっと待っていたの」


 彼女は声を擦れさせ大男に弱々しく微笑む。


 イポリトは母に駆け寄った。


「ずっと君を見ていた。この日が来るまで見る事しか出来なかった。君に触れるのも他の死神しか許されなかった。……やっと触れる事が出来た。だが時間切れだ」大男はリンダの髪を撫でた。


「……宿で働いていた時、あなた、私に言ったわね。死神なんて、冗談だと思ってた。学の無い私を揶揄っているんだなって。でも、本当なのね」リンダは焦点の定まらない瞳を大男に向けた。


「母ちゃん!」イポリトは母の顔を覗き込む。


 リンダは震える手を息子の頬へ伸ばした。


「ごめんね、イポリト。……お母ちゃん、もう一緒に居られない」


「そんな事言うなよ! もっといいモン盗って来るから!」


「この人と……お父ちゃんと一緒に生きなさい。立派な死神になりなさい。愛してるわ、イポリト」


 リンダはイポリトに弱々しく微笑むと、伸ばした手を力なく落とした。


 狭い小屋にイポリトの泣き声が響き渡る。大男はリンダの瞳を閉じてやった。リンダの胸から光輝く玉が尾を引いて宙に浮く。遺体にすがりつき泣き喚くイポリトの首根っこを大男は掴み引き離すと『ローレンス』と小屋の外へ声を掛けた。短い手足をばたつかせイポリトは抗う。


 痩躯の黒装束の青年が小屋に入る。リンダの側を離れた大男はローレンスに場を譲った。ローレンスも青白く光る不思議な瞳をしていた。しかしその眼に光は宿らず淀んでいた。


 右手に巻かれていた包帯をローレンスは手慣れた手つきで解く。爛れた右手が現れ、それをリンダの遺体から尾を引く光の玉に翳す。彼は尾を切り取った。


 大男に首根っこを掴まれ暴れながらもイポリトは一部始終を凝視していた。


「母ちゃんに何したんだよ!」イポリトは叫ぶ。


 ローレンスは黒いベストに光る玉を差し入れた。死んだ魚のような瞳を伏せリンダの遺体に背を向ける。『悪いようにはしないよ』とイポリトに囁き何処かへ行ってしまった。


 大男はイポリトを掴んだまま踵を返し小屋を出た。


 イポリトは最愛の母を亡くした悲しみを胸に母を弔う事も許さぬ大男に憤り、空に向かって慟哭した。


 馬車に押し込められたイポリトは、泣き叫び有らん限りの力で暴れ大男に噛み付いた。相手が死神でも構わなかった。最愛の母を亡くした彼には失うものは何も無い。しかし威勢が良いのは初めだけで、幼いイポリトは心労と疲労に負けて眠ってしまった。


 田舎道を越え、山林を越え、小麦畑を越え、何時間も馬車は走った。ある街の外れの住居前に着いた時には既に日は暮れていた。大男は御者に賃金を渡すと眠ったイポリトを抱え住居に入る。イポリトの頬には幾筋もの涙の跡がこびり付いていた。大男は奥の部屋へ向かう。柔らかなブランケットが敷かれたベッドにイポリトを横たえるとリビングへ向かった。


 先程共に仕事をした相棒の死神のローレンスが膝を抱えて木の椅子に座していた。彼は死んだ魚のような瞳で一点を凝視している。視線の先は壁だ。


 それを横目で見遣った大男はリビングを後にする。すると壁から視線を外さずにローレンスが声を掛ける。


「……お帰り、エンリケ。……随分早いね」


 大男は歩みを止め振り返りもせずに答える。


「あれから直ぐにイポリトを馬車に突っ込んだからな」


「……リンダのお墓は何処にしたの?」


 エンリケは鼻を鳴らすとリビングを後にした。眉を下げたローレンスは上体を動かすとエンリケの背を見送った。

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