一章 十四節


 地下室にアメリアは居た。裸体の彼女は四肢を台に縛り付けられていた。白いタイル貼りの床には切断された人体の一部や血と肉がこびり付いた骨が散乱する。鉄製の排水溝は血液と人毛で詰まっていた。


 額に何かが触れる。コンラッドの冷たい手だ。彼はアメリアに覆い被さる。彼女を見下ろし嫌な笑みを浮かべると彼女の唇を自らの唇で塞ぐ。そして舌先を彼女のおとがいから白い首筋、鎖骨へと這わせる。ナメクジが素肌を這うような感覚に襲われたアメリアは首を横に振った。舌が這った跡は肉が裂け、血が噴き出る。アメリアは叫び声すら出せない。


 コンラッドは舌先を豊かな左胸へ這わせる。左胸が裂ける。彼は裂け目に冷ややかな手を差し込み、心臓を握った。


 意識を声帯に集中させアメリアは叫び声を上げる。そして渾身の力で手の拘束を引きちぎり腕を振り上げる。


「いやっ!」


 自分の叫び声にアメリアは覚醒した。固い感触と共に何かが割れる振動が腕に伝わる。


 瞼を上げると驚いた顔のイポリトが視界に入った。彼は冷却用シートの袋とフィルムを持っていた。


 動悸が収まらないアメリアは息を荒げて彼を見上げた。


「……驚いたじゃねぇか、クソ処女」イポリトは鼻を鳴らした。


 イポリトから眼を逸らすとアメリアは状況を確認した。


 枕許で二頭の水色のドラゴンのぬいぐるみに寄り添って眠るユーリエがいた。どうやら自室のベッドに寝かされているようだ。


 アメリアは溜め息を吐く。


「……介抱してくれてありがとう」


「よく気張ったな、と言いたい所だが走行中に気を失うなド阿呆。そろそろアパートに着くと思ったら急にずり落ちやがって。驚いて停車したら失神してんじゃねぇか。徐行してたから良かったけどよ、危ねぇだろが」


「ごめん」


「……まあ、気ぃ失っても腕を解かなかった事が幸いしたな。自分を過信すんじゃねぇぞ」


「うん」


 イポリトは鼻を鳴らす。


「……やけに素直で気持ち悪ぃな」


「あたしだって素直になる時くらいあるわよ。……被害女性の魂達やネイサンは?」


「ハデスから連絡があった。被害者の魂は各神族に届けられたそうだ。コンラッドの刑罰についてもネイサンの救済の方法についても各神族の偉いさんが集まって話し合ってる。安心しろ」


「良かった」アメリアは力なく微笑んだ。


「良くねぇわ。壁見てみろ」イポリトは顎でベッド側の壁を示した。


 アメリアは壁を見る。壁には拳大の穴が空いていた。


「何これ?」


「お前が空けたんだろ。悪夢見てたかなんだか知らねぇけどよ、うなされてると思ったら叫んで拳を振り上げて壁に穴空けやがった。安心して介抱も出来ねぇわ」


 イポリトは鼻を鳴らし立ち上がると、アメリアの部屋を後にした。


 溜め息を吐いたアメリアは徐に身を起こし浴室へ向かった。鏡を覗くと額に冷却シートが貼られていた。イポリトが貼ってくれたのだろう。冷却シートを剥がした彼女はゴミ箱に捨てる。額や頬に触れると少し熱っぽかった。何度目かの溜め息を吐き、服を脱ぐとシャワーを浴びる。


 頭からお湯を浴びている内に瞳から涙が溢れ出す。後から後から溢れ出る。


 恐かった。殺されるかと思った。自分を過信した。でも、それよりも辛かったのは初めてのキスが好きでもない男とのものだった事。それにレイプされかけた。


 コンラッドの舌が這ったおとがいや鎖骨、胸を強くこする。こすった後が赤くなった。しかし気が収まらず、爪を立てる。腫れた皮膚が切れて血が滲む。シャワーが血を洗い流す。しつこい程舌で犯された口内も気持ち悪い。幾度となくうがいをした。それでもまだ犯されているようで吐き気を覚えた。


 小一時間程シャワーを浴びてコンラッドの刻印を洗い流したアメリアは浴室から出た。水を飲みたくなったのでリビングへ向かった。


 黒い革張りのソファではイポリトがウィスキーを引っ掛けつつ、映画を見て寛いでいた。コーヒーテーブルにはDVDの箱とビーフジャーキー、バーボンの瓶とショットグラスが置かれていた。黒服に身を包みサングラスをかけた長身の男と小太りの男がテレビに映っている。彼らは払い下げのパトカーでドライブしていた。


「丁度円盤突っ込んだ所だ。始まったばかりだから話追うなら今の内だぞ」


 冷蔵庫からペットボトルを取り出して水を飲むとアメリアは暫くリビングに佇んでいた。映画を見る気分ではない。だけど誰かに側に居て欲しい。独りになったら恐くて耐えられない。


 アメリアはイポリトの隣に膝を抱えて座した。イポリトは映画の曲と共に良い声で歌っている。アメリアはテレビを睨む。


 二人の男達は口論を始める。払い下げのパトカーは暫くすると郊外から市内へ入り、停車した。どうやら跳ね橋が上がるので停車したらしい。男達は口論を続ける。挑発されてドライバーの長身の男は切れる。彼はアクセルを踏み込みパトカーをスタートさせた。そして上がりきりそうな跳ね橋をジャンプして渡った。


 顔をしかめていたアメリアは噴き出す。


「何これ。滅茶苦茶じゃない」ゲラゲラ笑うイポリトの横顔をアメリアは見遣った。


「この後、もっと笑えるぜ? まあ観てな」


「観た事あるの?」


「おう。何回も観てるけどよ、面白ぇんだ」


 アメリアはイポリトに微笑むと再びテレビに喰い付いた。


 面白可笑しくて腹筋が痛くなった。映画の中で演奏される曲もとても素敵だった。アメリアはすっかり映画に魅せられた。イポリトは腹を抱えて笑いつつも、知っている曲があれば良い声で歌った。


 黒服の男達は周囲の人間を巻き込み、古巣の孤児院を救おうとバンドを立ち上げ仲間を集めた。歌ったり踊ったり、殺し屋に狙われたり軍に狙われたりしつつ、大騒動を起こしながら孤児院を救済した。


 エンドロールが流れるとアメリアは溜め息を吐いた。あんなに楽しかったのにもう終わっちゃった。夢中になっている間は忘れられたのに……終わると想い出す。


 アメリアは膝を抱え震えた。それを横目で見たイポリトは問う。


「他に何か観たいものあるか?」


「……ラブシーン無いやつなら観たい」


「んじゃ持ってくるわ」


 ソファから立ち上がったイポリトはデッキからDVDを回収し自室へ向かった。


 アメリアの瞳に涙が浮かぶ。口を引き結んでいるとDVDの箱を持ったイポリトが現れた。彼女は顔を背けた。


 イポリトはDVDをデッキに入れ、隣に座した。テレビに配給会社のロゴが映し出される。


「……『泣き言は後でたっぷり聞いてやる』って言ったろ。今泣かないでどうすんだよ強情っぱり」テレビを見つめつつイポリトは彼女の頭を軽く掻き撫でた。


 堰が決壊した。アメリアは涙を頬に伝わらせる。


「……イポリトってさ、初めてキスしたのいつ?」


 イポリトは天井を見上げて記憶を辿る。


「……随分前だな。百年近く前か?」


「初恋の人?」


 リモコンを取るとイポリトはテレビ画面を静止させた。


「初恋っちゃ初恋だろうけどよ、モリーだぜ? 棹付き猫モリー」


 涙を流しつつアメリアは笑った。庭付き一戸建てみたいに言うな。


「それ以来してねぇよ」イポリトは鼻を鳴らした。


 驚いたアメリアはイポリトを見つめた。


「嘘」


「嘘吐いてどーすんだよ。商売のねーちゃん抱いても涎の交換はしねぇよ。ンなモン好きでもねぇ女とやれるか。これは俺の主義なの」


「……あたしは好きでもない男にされた。……気持ち悪かった。カエル以来初めてだったのに」アメリアは俯いた。


 イポリトは噴き出した。


「何よ。キスしたカエルが王様になった話あるでしょ」アメリアはイポリトを睨む。


「確かにあるな。母ちゃんに怒られただろ?」イポリトは腹を抱えて笑う。


「うん」


「ぶぅあーか」


「小さい頃の話だもん」


 イポリトはひとしきり笑うと溜め息を吐く。


「初涎交換が好きでもねー男だったのは同情するわ。だけどよ『初めて』にこだわらなくてもいいんじゃねぇの?」


 アメリアはイポリトを見据えた。


「俺は本気で惚れた女だったら処女かどうかなんて気にしねぇ。お前も初恋のハンスおじさんとやらが童貞でも気にしねーだろ?」


「なんであたしの初恋の人知ってるのよ!?」アメリアは頬を紅潮させた。


「鎌かけたら正解か」


「うるさい!」アメリアは俯いた。


 イポリトは頬を人差し指で掻く。


「……あまり『初めて』にこだわるなや。これは商売のねーちゃんの一人から聞いた話だ。そりゃ本当の『初めて』っちゅーやつはたった一度限りだ。しかし日に何度も違う男に跨がってるねーちゃんはよ、いつも気持ちは『初めて』なんだとさ。同じお客でも違うお客でもその場が『初めて』なんだと。そうすりゃ初心を忘れずにもいられるしいつまでも気持ちは真っ新のままだってんだ」


 唇を尖らせたアメリアはイポリトを見上げる。


 イポリトは鼻を鳴すとアメリアを見据える。


「処女がいいだの非処女は嫌だの騒ぐ野郎には鼻で笑っておけ。俺だって伊達にヤリチンやってる訳じゃねぇんだよ。ローレンスのクソじじいだって伊達に童貞やってた訳じゃねぇんだ。辛いのは分かる。しかしアメリア、お前はお前だ。野良犬にでも噛まれたと思って前を見据えて立ち上がれ!」


 イポリトはアメリアの頭を強く掻き撫でた。


 アメリアは膝に涙を一粒零す。


「……ありがとう、イポリト」


 イポリトは鼻を鳴らし、リモコンの再生ボタンを押す。


「最近やけに素直で気持ち悪ぃな」


 アメリアは鼻を鳴らした。


 テレビには壁に掛けられた豚の肖像画やレリーフが次々と現れ、グロッケンの音色が誇らしげに鳴り響く。


 少し気怠くなったアメリアはショットグラスを傾けるイポリトの肩に凭れてテレビを見つめた。イポリトは黙って肩を貸してやった。二柱は一言も喋らずにテレビを見つめる。子豚の勇気と優しさと希望の物語が始まる。


 映画の優しい雰囲気とイポリトの体温にまどろみ、アメリアは安心して瞳を閉じた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る