悪い夢
何かがぶつかる音で我に返った。その手の中には、硬い感触。そこへ視線を向け、ひしゃげた悲鳴を上げた。
手にずっとにぎり締めていたのは、濡れた懐剣。それは、厳しかったけれど優しくもあった母が、お守りにと持たせてくれたものだった。
「いや————」
懐剣が手中から滑り落ちる。足元に落ちたそれは、もはやお守りなどではない。
身体が震える。人を、柑子を刺してしまった。あの、ずぶりと肉を貫く生々しい感触。あふれ出た体液。
どうしてなのか、柑子の急所を刺せなかった。あの瞬間、肝を狙ったはずの刀身は、気が付けば腹に刺さっていた。
驚き焦り、引き抜いた懐剣とともにあふれ出した血を見た。頭の中が真っ白になり、そして急に怖くなって。
「————‼︎」
はっとして辺りを見回す。柑子の姿がない。
(逃げた……の……?)
それしか考えられない。やはり致命傷にはならなかったのだ。彼にはまだ、逃げるだけの力が残されていたのだろう。
深く息を吐いた。そして、柑子が逃げたことに安堵している自分に気がつき、驚く。
決して嫌いではなかった、憎んでもいなかった。けれど、愛する人のためには、邪魔でしかなかったあの人。
貴子が、そして柑子がいなくなれば、幸せになれるはずだった。幸せの、愛のためならばどんなことだってやれると思っていた。覚悟もしていた。それだけ深く、かけがえのない唯一無二のことだったから。
それなのに現実はどうだろう。最後の最後で逃がしてしまうなんて。
知らず、涙がこぼれ落ちた。わかっていた、柑子が逃げた以上、この先どんな運命が待ち受けているかなど。
どこかで物音がしている。人の声がする。
このまま待っているわけにはいかなかった。その先には地獄しかないとわかっているから。
自分は失敗したのだ。失敗した以上、この秘密を持ったまま逝かなくてはならない。なにがあっても、この命を与えてくれた人の名を吐くことだけはならない。
「許してくださいませ……」
落としてしまった懐剣に手を伸ばす。お守りとしてもらった、この刃で自分を守る方法はひとつだけ。
しかし、その願いは叶わなかった。突然、鋭い刀身が横から入り、ぴったりと首を狙ったからだ。身動きできず、懐剣に手は届かない。
己の罪の深さを見た思いだった。自分の手で命を絶つことすら許されてはいないのだ。用意されているのは、いつまでも続く、灼熱の地獄。
見上げると、見知った顔。柑子の護衛を勤めている随身だ。
目が、合う。
「————ッ、お前はッ」
刀を突きつけた随身の顔が歪む。その刀を持つ手が、微かに震えたのが見えた。
遠くから複数の足音が荒々しく響き出す。
「わたしを、この場で切り殺していただけないでしょうか」
「なぜ、このようなことを————」
呻くように絞り出された随身の声は、酷くしわがれていた。真一文字に引き結んだ唇を震わせながら、睨むように見つめてくる。
足音、柑子を呼ぶ声。慌ただしい喧騒。
これから地獄の淵に立つだろう。全ての真実と共に。
なぜ、その理由を話したところで罪は変わらない。それならば、この身で全て引き受けよう。愛する人を、守るために。
「なぜだ」
酷く苦しそうな、辛そうな声だった。
怒りと悲しみがないまぜとなった、なんとも言えない表情。その唇が、震えながら言を継ぐ。
「なぜこのようなことを——蘭」
◆ ◇ ◆
荒々しく乱暴な音で、桃は眠りから呼び覚まされた。それは勢い良く駆けてきた侍女が妻戸を力任せに開けた音だったが、寝起きの頭ではそこまで思考が回らない。
ただ大きな物音に驚き、身をすくめる。
「たっ、大変でございます、桃姫! 起きてくださいましッ」
甲高い、まだ幼さの残る声だ。
桃の許しも待たずまろぶように入室した彼女は、桃の褥の側でくずおれるように平伏した。そのただならぬ様子に、慌てて身を起こす。
「何事ですか、このような夜更けに!」
桃の部屋に控え、几帳の向こう側で休んでいた侍女から叱責の声が飛ぶ。その声を制して、桃は目の前の侍女を見つめた。
彼女は、夜目にもわかるほど震えている。
「なに? どうしたの? 蘭は?」
普段、桃の身の回りの世話をしているのは蘭だ。今晩は用があると言うので、休みを与えていた。
だからここにいないのはわかる。それでも、なにか重大なことが起こったのなら、一番に駆けつけて来るのは蘭のはずだ。
それがどうだろう。今目の前に平伏しているのは、最近勤めるようになった年若い侍女だ。見知らぬ顔ではないが、まだ桃の側に控えることは許されてはいないため、めったに話をしたことはない。
おそらくは、この宮の何処かで、なにか重大なことが起こったのだ。偶然なのか誰かに伝言を頼まれたか、彼女はそれを知り駆け込んで来てくれたのだろう。
血の気が引く。脳裏をよぎったのは、魔と化したかつて貴子だった黒い影。
「そっ……その蘭が、蘭がッ……‼︎」
よほど気が動転しているのだろう、口が上手く動いていない。
「蘭? 蘭になにかあったの⁉︎」
「ち、ちが……いえ、あの……」
焦った声が上ずり、背中が震えた。
この様子はおかしい。蘭になにがあったのだろう。伝えるのにこんなに動転して震えているなど、ただ事ではない。
背中に嫌なものが這い上がる。
「慌てないで、ゆっくり話して。蘭が、どうしたの?」
「蘭が、蘭が謀反を起こして……ッ」
「え……?」
謀反。そう聞こえたのは、桃の聞き間違いだろうか。
「なに……?」
「で、ですからッ‼︎ 蘭が‼︎ 謀反を‼︎」
「嘘よ‼︎」
今度こそはっきりと聞こえた。聞き間違いではなかったのだ。
それでも、とっさに出たのは否定の言葉。まさか、そんなことをするような娘ではない。優しく、気が利いて、桃や桜の事をなんでも知っていて。
謀反など考えるはずがない。そもそも誰かを憎むような人柄ではないのだ。
「本当なんです、謀反を起こして! 柑子殿を刺したんです‼︎」
「刺した……蘭が……?」
「わ、わたくしだって信じられません、けれど本当なんです‼︎」
彼女は叫ぶように一気にまくし立てると、その勢いのままわっと泣き出す。几帳の向こうから出てきた侍女たちから
桃に仕える多くの者は、蘭を慕っている。この年若い侍女もそうなのだろう。
「うそよ……」
蘭が柑子を刺したなど、そんなのは悪い夢に違いない。あの心優しい蘭が、まさか。そもそも理由がないではないか。
それでも、目の前で泣き崩れている侍女に、嘘は見られない。
心の中にぽっかりと穴が空いたようだった。なにも考えられない。ただ侍女の泣く声だけが、いつまでも現実からかけ離れたところで響いていた————。
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