灼熱

 誰かが自分に謝っている声を彼は聞いていた。意識はまだ、夢の中にいる。

 誰だろうと考えた。さっきまでそう、牡丹と庭を眺めていた。では、牡丹だろうか。

 いや、違うと思う。夢が薄れて行く。違う、牡丹の声ではない。

 辛そうな……ああ、この声は。

「————ッ‼︎」

 それは突然だった。まず最初に感じたのは、熱。腹に熱せられた鉄の棒をねじ込まれたかのような灼熱。その一瞬の熱がなんなのか考えつく間もなく、今度は脳天を貫くような鋭い痛みが全身に走り、そのことに混乱する。

 開いた双眸が捉えられたのは闇のみで、なにもわからない。

 今はいつで、自分は何をしていたのか。この痛みはなぜ⁉︎

 全身を滝のような冷や汗が覆い、灼熱が氷へと変じる。混乱した思考が恐怖を訴えた。

 それは本能的な呼び声だった。これは、この痛みは危ない、と。

 どくどくと腹が脈打ち、そのたびにあらゆる末端を痛みが貫く。なにも考えられないまま、そこへと手を伸ばした。

 その手が、ぬめぬめした液体に触れる。それを待っていたかのように、柑子の鼻を鉄の臭いが突いた。

 この液体は、水ではない。これは、この臭いと痛みは。

「ぐっ……」

 理解するのに時間はかからなかった。何者かに刺されたのだ。そしてそれは、柑子がぼんやりと謝る声を聞いた、その直後。

 傷は腹に一箇所、そこから大量に出血している。

 その頃には、痛みでかき消されていた記憶がはっきりと輪郭を現していた。そして同時に、あの声の主を思い出す。

 可憐な、それでいて華やかな色香を漂わせる————。

 その名を呼び、そこにいるはずの場所へと首を向ける。しかし、そこには黒い闇が横たわっているだけ。誰もいない。

 彼女が刺したというのか。

 なぜ、なんのために?

 彼女が柑子を殺めて、何か理があるとは思えない。

 ならば、自分を刺した何者かに連れ去られたか?

 どうかそうであってくれ、一瞬だけそう願ったのは、それはあり得ないと頭では気がついていたからだ。しかし、感情はそれを認めたくなかった。

 愛していたのだ。柑子の家主という立場を、逢瀬の時だけは忘れられた。ただ一人の男としている事が出来た。

 その慈しみが全て嘘だったとでも言うのか⁉︎

『柑子殿は……実の子に跡目を継がせたいとは思われませんか?』

 ふいに、始まりの言葉が頭の中に浮かんだ。

 あの時から、全てはこの瞬間のためだったのだ。

 鈴鳴家の家主たる自分に、まさかそのような誘惑をしてくる者がいるとは思わなかった。しかも、相手はそんな誘惑からはほど遠いとしか思えない娘。

 だからこそ、面白いと思った。子を成せるのならそうすればいいとも思った。牡丹との関係に疲れ、飢えていたことも事実だ。

 誤算だったのは、こんなにも彼女を愛してしまったことだ。刺されるなどという失態を犯すほどに、心を許してしまったことだ。

(——おのれ)

 全身を貫く痛みに、歯を食いしばる。ぎりぎりと嫌な音が耳元で鳴った。

 悔しかった。何より自分が許せない。女にうつつを抜かし、警戒心も忘れ、まんまとその罠に嵌ってしまったなどと。

 今までの自分からは考えられないことだった。

 もっと冷静であれば、刺されずに済んだだろう。罪を犯させることはなかったし、自分もそのことに気づかないままでいられたのに。

 なにを、そんなに飢えていたのか。

「くそっ……」

 すでに痛みを通り越したのか、じん……と痺れたような感覚が腹から広がり始めた。その感覚に、このままではまずいと本能的に悟る。右手で小袖を握り込み、傷口を押さえた。これ以上血を流し続けては駄目だ、失血し過ぎている。

 腹を刺され瀕死の傷を受けようと、鈴鳴家の家主。命の危険は増しているものの、痛みの感覚が遠のいたことで、そうとわかるほどには冷静さを取り戻した。

 だからこそ気づけた。人の気配。まだ、この部屋の中に、いる————。

 痺れて感覚のなくなった胴を左手一本で支え、身体を起こそうとする。腕は情けないほどに小刻みに震え、力が入らない。

 足にも力が入らなかった。神経が通っていないかのように、だらりとしたまま動かない。

 それでも柑子は諦めなかった。ぐっと腕に力を入れ、身体を少しずつ引き起こして行く。そのたびに、傷口から血が噴き出すのが感じられた。

 出血が酷くなっている。それでも構わなかった。どの道、じっとしていてもやがて失血で死ぬのだ。ならば、足掻いてからの方がいい。

 やっとの思いで胸を起こす。それとほぼ同時に、遠くで小さな衣擦れの音。そこに彼女は、いた。

 ひさしを越えてその向こう、今は閉じられている蔀戸しとみどに同化したいとばかりに張り付き、しゃがみ込んでいる。その身体はガタガタと大きく震え、その両の目は瞬きを忘れたかのように見開かれている。しかし、何かを見ている様子はない。茫然自失というのが似つかわしい。明らかに、柑子を刺したその行為に怯えている様子だ。

 その手には、青白く光る懐剣らしきものを持っているのが、かろうじて夜目にも見えた。

 柑子を亡き者にしても、彼女に理はないだろう。とすれば、何者かの刺客として柑子のところへ来たとしか考えられない。

 それならば今怯えているのも理解できる。柑子を刺したはいいものの、急にそのことの大きさに怖くなってしまったのだろう。

 それに、刺されたのは腹を一箇所。それは————。

 目の端にその姿を捉えたまま、左腕だけで上体を支え、尻を引き摺るようにしてじりじりと這うように移動する。どんなにみっともない姿であろうと、構わなかった。

 部屋の外には随身が控えているはずだ。その場所は把握している。蔀戸までたどり着ければ、助けを呼べる。

 それまでに、茫然自失から我に返られた場合は、それが柑子の死だ。物音を立てたり、声を出すことで我に返ることもあり得るだろう。しかし、なにもせず死を待つよりはずっといい。

 まだ世継ぎはいない。今ここで死ぬわけにはいかないのだ。

「おのれ————」

 愛していた。本当にこの娘を愛していたのに。

 愛していたからこそ、裏切られた悔しさが募る。自分の浅はかさが呪わしい。

 傷口が脈打っているのがわかる。そこだけが違う生き物のようだ。いや、破れた心臓のようだと言うべきか。血を吐きながら脈打ち、命を垂れ流し続ける。傷口を押さえた小袖は、そこから雫が滴るほどに濡れていた。

 視界が霞む。

 こんな所で倒れるわけにはいかない。まだ成すべきことがある。貴子も亡き今、鈴鳴家の家主として皆を引っ張って行けるのは、今の所自分だけだ。その自負はある。

 だから、生き残らねば。

「おのれ、おのれ……ッ」

 惨めだった。左腕で身体を引きる姿は、地面の上でのたうつしか出来ない地虫のようだ。まさに今、柑子は醜くのたうっているのだから。

 前が見えない。それは、周囲が暗いせいではないとわかっていた。その霞んだ視界に、脇息が浮かぶ。廂に据えられた畳の上に置き去りにされていたのだ。

「負けるか……ッ、私が、この私がッ」

 大声を出そうにも、腹にも力が入らない。まさに虫の息。しかし、あの脇息なら。あれを蔀戸にぶつけることが出来れば。

 左腕を伸ばす。掴んだ脇息は、牡丹が柑子のためにと特別に作らせ贈ってくれた品だった。

 そのことを瞬間的に思い出し、いたたまれない気分になる。

「許せ、牡丹……」

 ぐっと脇息を引き寄せた。腹を押さえていた右腕も離し、両腕でそれを頭上へと上げていく。腕が震え、まるで脇息の上になにか乗っているのではと思うほどに持ち上がらない。

 それでも、ありったけの力を込める。もう出血しているかどうかもわからなかった。感覚がない。視界も。

 残された時間は、わずかだ。

「許せ……」

 声は声になっていなかった。かすれた空気が口から漏れただけだ。喉が乾ききって、声になどならない。

 それでも、柑子は牡丹に詫び続ける。愛し合って夫婦となり、愛息を産み育ててくれた妻に。

「許せ……」

 そして、頭上へと上がった脇息を、その力の限りをかけて蔀戸へと叩きつけた。

 さほど大きな音にはならなかったが、随身に不信感を抱かせるには十分な音。これで、気が付いてくれるはず。

 案の定、すぐに妻戸の方から戸を叩く音が聞こえ始める。

「柑子殿、いかがなされました⁉︎」

 外で控えていた随身の声だ。

「謀反だ……」

 柑子のかすれた声は、戸を叩く音にかき消されてしまう。しかし、返答がないことが随身に焦りを生んだのか、控えめにではあるが戸を叩く手は止まらなかった。

 その音は次第に大きくなる。

「柑子殿⁉︎」

 さすがに異常を感じ取ったのだろう、随身の声の調子が変わった。

 眩暈がする。早く、早く開けてくれ————。

「柑子殿、失礼致す!」

 妻戸が開いた。そこから、二人の随身が駆け込んでくる。

 暗がりを見回した二人は、蔀の側で動けなくなった柑子を発見し、悲鳴のような絶叫を上げて駆け寄って来た。

(勝った……私は助かったぞ……)

 そう思った途端に、目の前が真っ暗になる。どっと全身から力が抜け、畳の上に倒れ臥す。

 しかし、まだやることは残っていた。

「謀反だ……私を刺した女はまだ中にいる……ひっ捕らえて誰の差し金であるか、吐かせよ。言わぬ時は鞭で打て……」

 もうほとんどなにも見えなかった。それでも、的確に指示を下す。

「はっ! おい、誰か助けを呼べ、柑子殿を頼む。私は謀反人を」

「相分かった」

 一瞬の確認ののち、二人はそれぞれの方向へと向かって走り出したようだった。

 愛していたものを。愛していた、それでも家主としての自分は、無常な命を下すしかない。

 わかっている、腹をひと突きしかされなかった理由など。油断し切っていたのだ、肝を突くことなど造作もなかったはず。

 それなのに、腹を刺した。そのひと刺しだけで怯え、茫然自失となった。それがなぜか、わからぬほど非情ではない。

「私は……」

 意識が遠のく。その途切れるほんの一瞬の意識の中には、可憐な笑みを浮かべた愛していた娘の姿が映っていた————。


   ◆ ◇ ◆


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る