生と死の狭間に

「桃姫‼︎」

 桃が助けを求めて叫んだのと、桃を呼ぶ声が響いたのはほとんど同時だった。

 目の前が霞む。よく見えない。それでも間違えるはずがない。

 よくなじんだ、陵駕の声。

 駆け寄ってくる音と振動。

「桃姫‼︎ くそっ、桃姫から離れろこの化け物‼︎」

 桃の両腕を陵駕がつかんだ。御免と桃に短く謝り、力任せに首から引き剥がす。

 一気に胸の中に流れ込んだ空気に対応しきれず、むせかえる。しかしそんなことはおかまいなしに、桃の体は陵駕から逃れようとめちゃくちゃに暴れ狂う。

 体が軋む。桃の力では、魔に抗えない。

「りょ……が、アアアァァ……」

 自分の喉から出たのだとは思えないひしゃげたうめき声。

 陵駕が膝を付き、桃の両腕を抑え込むようにして抱きすくめる。しかし、それで動きを封じられるほど、魔の力は弱くはなかった。

 陵駕の力を持ってしても、桃の動きを封じられずに体がよろめく。

「桃姫、しっかりしてください!」

「りょうが……!」

 痛い。めちゃくちゃに動く体のあちこちが悲鳴を上げている。それでも止まらない。

 腕が折れるかと思うほどの力で、陵駕の腕から抜け出そうとする桃の身体。

 たまらず漏れた悲鳴に、陵駕の腕が微かにゆるむ。

 その時を狙い澄ましたかのように、桃の腕が衣から一気に引き抜かれた。小袖こそでのみになり軽くなった腕がひらめく。

「だめ! 貴子様ッ!」

 その勢いのまま、黒い魔に覆われた両手が陵駕の首に掴みかかった。

「————がっ!」

 頭の中に響くのは、強烈な殺意。

 貴子の、憎しみと恨みの怨念。そして苛立ち。

 力の限りに陵駕の首を絞める両手。喉仏を押し潰すかのごとく、ぎりぎりと力がこもる。

 陵駕の顔が歪んだのが見えた。空気を吸えない喉が引きつったように痙攣しているのがわかる。

 生々しい感触。

「やめて! 貴子様やめてぇっ」

 陵駕を、殺めてしまう!

 この手が、魔に憑かれたこの手で陵駕を!

 陵駕が追われて討たれるなんて耐えられない、真実そう思った。でも、こんな結末を望んでいるわけじゃない。こんな、自分の手で殺めてしまう結末など。

 陵駕には生きていて欲しいと、そう願っているのに。

 共にこの先の人生を歩みたいと!

(貴子様に負けちゃだめ)

 貴子は哀れだ。しかし、亡くなってしまった、そして魔と化してしまったのは事実。

 桃には助ける事が出来ない。

 でも陵駕は生きている。命がある!

(動いて、動くのよ————)

 魔が首を絞める力に抗う。両腕が震え、痛みが走る。その痛みは、抵抗の証。

 だから構わずに両腕に力を込める。首に食い込む指を逆方向へと。

 拮抗する力に震える指が、微かながらその力を削がれる。瞬間、桃の両手を陵駕の手が引き剥がした。

 もんどり打って倒れた陵駕に、自分の意思とは関係なくのしかかる。胴に馬乗りになり、さらに彼の首を絞めようと手が伸びる。

 その手を陵駕の腕が素早く阻んだ。大きく腕を払われ上体をのけぞらせた桃のそれぞれの手を、陵駕の手が掴む。そのまま自らの両手に力を込め封じた。

 手と手を握り合ってお互いに力をかけながら、拮抗した状態で留まる。

 見下ろす陵駕の首には、赤い指の跡がはっきりと浮かんでいるのが見て取れた。

 そのあとに胸が潰れる。

 青白い陵駕の顔。その顔が歪み、低く自嘲めいた笑みを漏らす。

 それは、生を諦めたような————。

「桃姫の手にかかるのなら、本望というものですかね……」

「なっ、なに言って……」

 この後に及んでまだ!

 まだそんなことを!

「私にここで生きて苦しめとあなたが望むから、そうしようと思った、けれど‼︎」

 陵駕の双眸が揺らめく。

 力を込められた手が、よりいっそう桃の手を握り締めた。

「耐えられるものか! 生きて地獄の業火に焼かれるくらいならば、いっそここであなたに殺められる方がいい‼︎」

 その方が楽になれる、楽にして下さい。最後の方は懇願するような細い声で吐き出された。

 その血を吐くような告白に、息が詰まる。嫌だと考えるのと同時に喉を熱いものが駆け上がった。涙があふれる。

 やはり陵駕は、討たれて死ぬ方が良いと、生きるのは苦痛だと思い続けていたのだ。

 桃が生きていて欲しいと望んだから、生きると言ってくれただけ。

「いや————……」

 陵駕が生きるのは辛いのと同じように、陵駕が死ぬのは桃にとって辛いことだ。

 それをなぜ、陵駕はわからない⁉︎

 生きていて欲しいというのは桃の我儘だ。けれど同時に、死にたいというのは陵駕の我儘でしかない。

「りょ、陵駕の方が子供だわッ……我儘言わないでよっ」

 ありったけの力で陵駕の手を振りほどこうと身体が暴れる。

 それを動かないよう抑える桃の力は本当に微かなもの。ほとんど功を奏していない。

 しかし抵抗をやめるわけにはいかないのだ。陵駕を生かすために。

「我儘、ですか……本当に、あなたという人は……」

 陵駕の瞳が桃を見つめる。その瞳の色だけが、桃の手を押さえる力と切り離されたように凪いでいる。

 その顔の上に、ぼたぼたと桃の涙が落ちた。

 どうしてわからないのか、わかってもらえないのか。

 これほど関わり、他愛ない日々を共有し、その時間は陵駕にとっては何だったのか。それは生きることを選ぶ理由にはならないほど瑣末さまつなことだったのだろうか。

 これから上手くやっていこうと、陵駕となら出来ると思っていたのに。

 陵駕の辛さは桃にはわからない。わからないからこそ言える。生きて欲しいと。

 生きてさえいれば、きっと————。

「もう、終わりにしましょう」

「陵駕だめッ」

 開かれる陵駕の手のひら。

 力が抜けていく両腕。

 桃の意に反する体。

 自由を得た桃の手は、床に押さえ込むようにして陵駕の首に掴みかかる。なんの障害もなく、桃の両手は陵駕の首に全体重をかけて捕らえた。

 桃を覆う魔の影が殺意を持ってゆらめく。

 ぐうっとひしゃげた音が陵駕の潰された喉から漏れ、その顔が歪んだ。しかし、桃の手を引き剥がそうとはしない。

「いや、やめて、陵駕抵抗して、いや……!」

 頭の中で響き続ける魔の呪詛の声。その声に呼応して、陵駕の命を摘み取ろうとする手。あらん限りの力で、大切な、大切な人の命を奪おうとしている。

「お願いッ……陵駕おねがい……」

 ぶるぶると震えながらも、確実に陵駕の首に指が食い込んでいく。

 陵駕の顔が腫れたように赤紫へと変じた。

 光が失われていく双眸。

 もう息を出来てない。

「いや……!」

 微かに瞬いた瞳が、桃を捉える。

「な……かな……で……ださ……」

 ゆるゆると陵駕の左腕が上がり、桃の頭を撫でた。大きく、骨ばった手のひら。その手を取りたいのに、出来ない。

 まだ温かい首に食い込む指の感触。

 桃の中に響く呪詛。

 消えゆく光。

 眩暈。

 嘔気。

 涙。

(いや……)

 最後の力をふり絞るように、陵駕の右腕が上がったのが視界の端に見えた。それはそのまま桃の背に回される。

 光を失いかけた陵駕の瞳が、それでも優しい色を浮かべ、桃を見つめた。

 そして————。

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