人ならざるもの

(そういえば……)

 しとみに貼り付けられた退魔の呪符を見つめながら、桃の脳裏に浮かんだのは幼い日のはるかとの思い出。

 遼は桃に、魔の話をしてくれた。魔が怖い、そんな魔を祓う仕事をするために巫女となる桜が可哀想だと訴える桃に、彼は魔の話をした。

 魔は元は人なのだと、そう教えてくれたのだ。魔は苦しみ続ける人の心が生むもの。魔も可哀想な人なのだと。

 負の念が強ければ、人は魔を生む。そして、誰もが魔を生む可能性があるのだと。

 そう思うと、貴子がよりいっそう哀れに思えてきてしまう。強い負の念を持ったのは、直接的には貴子のせいではないのに、それによって貴子は苦しんでいるのだ。

 それは生前の冷徹さが招いたことだとしても、理不尽なことに違いはない。

 ————ウ……ウオオオォウゥゥア……。

 貴子の苦しみの声がこだまする。カタカタと閉じられた蔀が鳴った。

 強い。

 何度も何度も退魔の儀式を繰り返して、それでも魔を祓えないわけだ。おそらくこれは、神官の力不足ではなく、貴子の魔の力が強すぎるのだ。

 退魔の呪符で封じられているはずなのに、うめき声を上げ、蔀を鳴らすことができるほどなのだから。

 ————アアァァァ……アウオォォ……オオオゥ……。

 怖い。

 ふと我に返った。どうして自分は、わざわざここへと足を向けてしまったのだろう。そうだ、貴子は度重なる退魔の儀式でも祓えないほどの魔だ。

 いくら哀れと思えど、人々に害をなす異形なのだ。

 そう、哀れな————。

(待って……)

 神子ではないとはいえ、桃だって神子を生む血脈の一人。魔についてはちゃんと知っている。双子の妹である桜が神子であることも大きい。

 魔は人の強い負の念が生み出すもの。そして、その魔に向けられる人々の恐れもまた、負の念だ。その負の念は、魔にとっては力となる。

 どうして忘れていたのだろう。なぜここに来た⁉︎

 貴子を哀れに思って心を寄せてはいけなかったのに‼︎

 蔀が鳴り出したのは、桃が貴子を心底哀れだと、そう思った時ではなかったか。

 桃が貴子に負の念を与え、その力を増大させてしまったのだ。

 まだ蔀は鳴っている。

 このままでは貴子が外に————。

 これではまるで、貴子に呼ばれてここへ来たようなものではないか。あるいは、そうなのか。桜や陵駕のことで悩み、気力を弱らせ、付け入られてしまったのだろうか。

(どうしよう)

 助けを求めようにも、辺りには誰の姿もない。貴子が殺められた日以来、この近くを人々は避けて通るようになったのだ。

 それは、桃だって例外ではなかったはずだった。今この時までは。

 どうしよう、どうすればいい⁉︎

 カタカタと鳴り続ける蔀とともに呪符が揺れ動く。その上部は、蔀から剥がれかかっている。

(怖い————)

 体が硬直する。剥がれかかった呪符を、手を伸ばして貼り直さなければと思うのに動けない。

 ただただ恐ろしくて、その場から逃げ出すことすら出来ない。

 喉が干からびる。声を上げようとして、それすらもままならない。息がうまく吸えない。苦しい。

 呪符がゆっくりと剥がれていく————。

(いや‼︎)

 そう心で叫んで愕然とする。桃はまた、貴子に向かって恐怖という負の力を与えてしまっているではないか‼︎

 しかし、恐怖を抑えようと思っても抑えられない。怖いのだ。桃は神子ではない。貴子に襲われても、太刀打ち出来ないのだ。

 まだ死ねない。自分にだってまだ、やり残したことが————。

 ————アアアアァァァァ……

 地の底から湧き出てくるようなうなり声。ゆるゆると剥がれゆく呪符。

 ぐにゃりと蔀が波立つ。否、それは黒い影としてしか桃には認識できない、外へと出ようとするかつて貴子だった魔の一部だった。それは外へと出ようともがき、ずいっと真っ黒な腕が蔀から一本突き出す!

「ひっ————」

 目の前に突き出た腕に肝が潰れる。腰から力が抜け、その場に崩れた。逃げようにも腰が立たない。駄目だ。

 魔の腕はぐいぐいと外へ向けて伸びてくる。それは時折形を維持できずに崩れながらも、呪符に抗って外へ外へと伸びてくる。

 蔀が再び波打つ。それと同時に、もう一本の腕が突き出す。そして、真っ黒で何もない頭部も。

 その真っ黒なかつて貴子だった魔は、外へ出ようと蔀を、正確にはそこに貼り付けられた呪符を内側から押している。首を仰け反らせ、獣のような咆哮を上げた。

 半分以上剥がれた呪符は、さらにゆっくりと折れ曲がっていく。止められない。

「い……いや……」

 歯がカチカチと鳴った。

 魔を見るのは初めてのことではない。臣民よりも魔を視ることはできるし、その回数も多いだろう。

 しかしそれは、近くに神官のいる儀式での体験がほとんどだ。こうして、一人で魔と遭遇したことはないし、桃には神子の神通力はない。魔は祓えない!

 ずずっと魔の真っ黒な上半身が外へ出る。それは人ならざるもの。

 その真っ黒な顔が、桃を捉える。目などどこにあるかわからない、それでも魔の瞳が桃を捉えたのがわかった。

 魔のやり場のない殺意が桃に向かって突き刺さる。

 全身に冷や汗が吹き出した。駄目だ、逃げられない。

 呪符が————。

 ひらりと剥がれ落ちた呪符が、下に落ちるのを見届ける時間はなかった。

 呪符が完全に剥がれた瞬間、魔がその形を崩して一斉に桃へと押し寄せて来たからだ。

 声を上げることも出来なかった。身を反らせて逃げようとしたものの間に合わない。

 桃の体を覆うように魔が取り付き、自由を奪っていく。

「アアァァァ————」

 桃の喉から漏れた声はどちらのものだったのか。

 手足が小刻みに震えた。

 激しい悪寒、眩暈、嘔気が体を貫く。

 自分の意思に反して、両腕が持ち上がる。それは貴子の、かつて貴子だった魔の意思。

 渦巻く声にならない憎しみと恨みの声が桃の中でこだまする。

 殺意。

(——やめて、やめて貴子様)

 両腕が桃の首へと伸び、掴む。そのまま、指に力がこもった。意に反し、ぎりぎりと絞めてくる。

 抗おうにも、体が言うことを聞かない。

 酷く歪んだ呪詛の声が桃の頭の中に響く。

(苦しい、息が————)

 喉が絞め上げられる。

 これが貴子が最期に受けた苦しみなのか。それと同じ死を、ここで迎えなければならないのか。

 ほおを一粒の雫がすべり落ちた。それは、涙だったのか汗だったのか。

 なんとか手を離そうともがくが、その力はゆるまらない。

(いや……)

 誰か助けて。

「助けて……誰か、お願い……ッ」

 まだ死にたくはない。まだやりたいこと、やらなければならないことがたくさんある。

 桜のことだって、陵駕のことだって、まだこれからだというのに。

 徐々に桃の生きるすべが失われていく。

 ひゅうひゅうと音を立てた喉がさらに絞まった。

「助けて……」

 声がかすれる。

 涙がこぼれ落ちた。

 ぎりぎりと喉を絞め上げてくる力に、頭の中が真っ白になり意識が遠くなりかける。

 その真っ白な空間に、桃は人影を見つけていた。

 それはすぐに色を持って、桃の脳裏にはっきりと姿を結ぶ。

 見間違えるはずなんてない。

 誰かじゃない。桃を助けてくれるのは、きっと————。

 最後のひと息、桃はありったけの力を喉に込めて息を押し出す。

「りょうがッ、陵駕助けて————‼︎」

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