鳴弦

「なんですって⁉︎」

 隣で、陵駕が鋭く息を飲む音が聞こえた。

 まさか。最初に思ったのはそれだった。それはなにかの間違いなのでは? そう思ったのに、桃は一気に身体が冷えるのを感じた。身震いが脳天へと駆け上がる。

 今は夏。なのになぜこんなに寒いの。

「なぜ、お亡くなりに?」

 陵駕の声も微かに震えている。それでも、蘭を焦らせないよう、刺激しないようにゆっくりと言葉を発したのが感じられた。

 それと同時に、陵駕の手が桃の肩に乗せられる。蘭と同時に、桃をも落ち着かせようとしてくれているのだとすぐに気が付いた。白くなりかけた頭が、すっと冷える。

 蘭がかぶりを振った。その表情に苦痛を浮かべ、発しようとした声はなかなか音を作れないでいる。

 かすれた音を何度が漏らす様は、まるで久方振りに口を開くかのようだ。

「貴子姫は、あ……あや、められ、てッ……」

「え……?」

 聞き間違いだろうか。殺められてと聞こえた気がして、桃は声を詰まらせる。いや、まさか、そんなことなど。

「蘭、お願いしっかり話して。貴子様がどうしたの⁉︎」

「ですからッ、貴子姫は何者かに殺められてお亡くなりに————」

「————ッ」

 聞き間違いでは、ない?

 絶句した。二の句が継げない。殺められた? 殺されても死なないようなあの人が?

 一瞬めまいを感じ、身体が傾ぐ。その桃の肩を、陵駕が両腕で支えた。

 蒼白になっている蘭の顔が、より一層引きつり自分を案じて名を呼ぶ。しかし、頭の中がしびれてしまったかのように、その声に答えられない。見上げた陵駕の顔は険しい。

「殺められたとは、どういうことです……?」

 それは、蘭に問うているというよりは、独り言のような呻きだった。それが逆に、事の真実味を物語るようだ。

 殺められた。そして、それが誰の手によるものかわからないのだ。

「先ほど、柑子こうし殿の随身ずいじんが神殿に駆け込んで来られたそうで……」

 話はその場でぱっと広がり、とにかく貴子の元へと急がなければと皆駆けて行ったのだと。

 そう言われてみれば、人の流れの方向は貴子の居住に向かうものだ。

「貴子姫付きの侍女が見つけたそうです」

「うそ……」

「嘘でこんな事が言えるのなら、わたし、侍女なんてやっておりませんわ……!」

 確かにそうだ、蘭は嘘など付かない。

「わかりました。蘭、を頼みます」

 陵駕がさっと踵を返して背を向ける。貴子の元へ駆けつけるつもりなのだ。

「待って! わたしも行くわ!」

 好きかと言われればそうではなかったが、それでも貴子は自分の祖母。行って確かめねばならないだろう。

 とはいえ、大股でずんずん歩いて行く陵駕には追いつけない。たちまち二人の間が開いて行く。

「陵駕⁉︎」

「私は先に行っています、後から来られて下さい」

 彼は振り返りもしなかった。そう言ったかと思うと、脱兎のごとく駆け出して行く。その姿は、すぐに回廊を曲がり見えなくなった。

 置いて行かれてしまった。それが、急に桃の不安を煽る。心細さが増す。その不安感は、なんと形容したら良いのかわからないが、蘭では埋められない性質のもののようだった。

 やはり、殿方というのはそれだけで存在感があるものなのかもしれない。

「さあ、わたし達も」

「ええ」

 頷く。置いて行かれたならば、追いかければいい。

 行って確かめるのが怖い。それでも貴子は間違いなく桃を形作る要素。彼女がいなければ、また桃や桜もこの世に生まれてはいなかった。

 決して好きではなかった。けれど、彼女の強い生き方や誇り高さは尊敬していた。その彼女の強さに、桃は反発してばかりだったけれど。

 だからこの目で確かめなくては。こんな結末など想像すら出来ないほどの、怜悧れいりさの化身だった自分の祖母を。

 間違いであって欲しい、ただそれだけの微かな願いを求めて。

「行きましょう」

 蘭に手を取られ、促される。それに大きく頷き、歩き出す。

 後方から数名の弓を持った神官が追い越して行く。それを横目で見ながら、焦る気持ちを落ち着ける。

 おそらく、先に行った陵駕が確かめてくれているはず。ならば、自分は自分の出来る精一杯で急げばいい。

 貴子の居住に近づくにつれ、弓の弦を引き鳴らす鳴弦めいげんの音が聞こえてくる。その神聖な音で、魔を払うのだ。

 桃にとっては聞きなれた物悲しい音。幾度も夫の病気快癒のために神殿に通った日々。苦しむ東雲の側で何もできないまま、ただ神官が鳴らす鳴弦の音を聴いていた。

 そして今も、その音は物悲しい。

 どんどん人が増える。途中で足を止めている人々が目立つのは、皆、魔を恐れているからだ。

 ただでさえ、誰かが死ぬということは恐ろしいことだ。それが、こんな形ならなおのこと。

 貴子が魔に憑かれたか、殺めた人物が魔に魅入られたのか。どちらにしても、こんな形の死は魔の影があるに違いない。

 人波をくぐるように進む。その先で、香炉を持った神官が部屋の中へと入っていくのが見えた。その背を追おうとするものの、すぐに人波に押し返される。近づけない。

 香炉を持った神官と入れ替わりに、中から二人の神官が出て来てそのまま妻戸つまどを閉じた。見れば、どの妻戸もしとみも閉じられている。

 そのまま、神官はその場に留まる。どうやら、勝手に中に入られないように目を光らせている様子だ。

「ごめんなさい、わたしを通して」

 人をかき分けながら声を上げるが、半ば恐慌状態にある人々に、桃の声は届いていない。

「桃姫、がんばって下さいまし」

「ちょっと、わたしを通して」

 貴子は桃の実の祖母なのに!

「陵駕⁉︎ 陵駕はどこなの⁉︎」

 陵駕はどこなのだろう、中に入っているのだろうか。

 確かめ……た……?

「陵駕‼︎」

‼︎」

 思いがけず、返事が聞こえた。

「どこですか⁉︎」

「ここよ!」

 声と同時に、腕を上げる。小柄な桃では、人波に隠れて陵駕からは見つけにくい。あまり褒められた格好ではないが、この場でそれは些細なことだ。

 それでも、桃の姿は人にまぎれてしまっていると自覚できた。陵駕の姿も見えない。人の壁に囲まれているよう。

「あぁ、母上」

 それでも陵駕は声を頼りに捜したのか、間もなく桃の前に姿をあらわした。その顔は、ひと目見てわかるほどに酷く青ざめている。

 鳴弦の音が耳朶を弄び、より一層、苦痛に満ちた陵駕の表情を際立たせた。

「陵駕、中に入ったの? 本当に貴子様だったの⁉︎」

 返事は返って来ない。なんと言おうか逡巡しているかのように口をわななかせ、それを真一文字に結ぶ。

 いつもとは違う、その陵駕の重苦しさに、桃の目の前も暗くなる。

 やはり。いや、それでも。

「わたしも行くわ」

 ぐっと拳を握り、気力を搾り出すように足を一歩踏み出そうとして、それは陵駕に阻まれた。桃の両肩を押さえ、首を横に振って留めてくる。

「母上、あなたは————」

 そこで彼は言葉を詰まらせ、俯いた。

「見ないほうがいい」

 再度、首をゆるゆると力なく横に振って、陵駕がそう告げてくる。苦渋に顔を歪ませて。

 言葉が出てこない。見ない方がいいと押し留められるのは、それだけ貴子の状態が酷いということ。酷い殺され方だったということだ。

(本当に、殺められた、の……?)

 実感がわかない。貴子が、あの人が?

 殺められた?

 今にも部屋から出て来て、「たわけたことを」と言い出しそうなのに。

「実感がわかないの」

 まるで、東雲の時のように。まだまだ長い時間を共に過ごすのだと思っていたのに、それは突然に終わった。短い時間だった。

 貴子だって同じだ。ずっと彼女は鈴鳴すずなり家の頂点に君臨しているものだと疑ったことすらないのに。それが、こんなにあっけなく終わるなんてことがあり得るなんて。

 信じられない。

「本当に、見るのだけはやめてください」

 そう言う陵駕は苦しそうだ。彼は桃の知らない、貴子の最期の姿を見たのだ。殺められたという貴子の、絶えた命を。

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