変事

 曇天。それはまるで、沈んだ桃の心と同じように、どんよりとくすんでいる。重々しいその雲の厚みは、神からの拒絶のようにも感じられた。

 そんなよどんだ空の下、桃は陵駕に連れ出され庭へと出ていた。

 桜の一件から、桃の気持ちは晴れない。庭に出る気分でもなく、壺折って着付けなければならないからと一旦は断ったものの、陵駕は引き下がらなかった。部屋の中だと余計に日が差さず暗くなると引っ張り出された格好だ。

「見ていられないわ……」

 桜だ。先日、嫁ぎ先が決まったと聞かされてから、桜の落ち込みようは見ているこちらの体調が悪くなりそうなほどだった。

 あんなに憔悴しきった桜の姿を見るのは初めてだ。顔色は悪く、身体の線は明らかに一回り小さくなった。

 聞けば、嫁ぐ日のことを思うと、夜も眠れず食事も喉を通らないという。

 彼女が桜の宮を去らねばならない日は、冬に入る頃。まだ夏とはいえ、いずれ冬はやって来る。

「桜……あんなに痩せて……」

 桜のためにどうすれば良いのか。ただそれだけを考え続けて日々は過ぎ去っていく。答えなど見つからないまま。

 あれからすぐに貴子には考え直せないかと進言はした。しかし、結果が変わることはなかった。彼女の冷たい瞳に射抜かれて、何も言えなくなっただけだ。

 言える訳がない。桜は陵駕を恋うているのですなどと。

「母上も、痩せましたよ」

 ぽつりと、陵駕が遅れて返事を返してくる。彼も、何事か考え込んでいるようだった。

「ちゃんと食べてます?」

「そうね、一応は。情けないけれど、お腹は減るのよ」

 桜は食べ物も受け付けないほどだというのに。

「それでいいですよ、母上は。母上まで弱々しくなってどうするのですか」

「そうよね……」

 それはわかっている。わかっているけれど。

「桜は神に愛されて生まれてきたのだから、神が救って下さらないかしら。わたしじゃ、どうしようもないわ」

 風が吹いた。青々とした葉を揺らす桜の木を見上げながら、まるで独り言のように陵駕が口を開く。

「神はなにも、誰も救いはしませんよ」

「え……?」

「神は愛した子を、ただ見ているだけです。誰も救ったりしない。自分を救えるのは、自分だけです」

 桜を救えるのは、桜だけ……?

「それじゃ、あんまりよ」

「そうですか? 母上はどうなんです? 母上も苦しいのでは? だったら、自分を救ってやればいい」

 自分を救う? 桜ではなくて?

 桃が苦しいのは、桜が苦しいから。ならば、桃自身を救うためにはなにをすればいい?

(桜の力になる、そういうこと……?)

 桜の力になって、そうして桜が救われれば、桃だって一緒に救われる。

「あぁ……」

 そういうこと。そういうことなのだ。

「ありがとう、陵駕。わたしに出来ることを考えてみるわ。答えなんて出るか、何ができるかなんてまだわからないけれど」

「それでいいと思いますよ、私は」

 陵駕が微かに笑って頷く。

「母上の出来る最大限のことを」

「えぇ、ありがとう」

 陵駕。桃の養子むすことなる者。しかし、やはり歳の差を感じる。長く生きている者のほうが、冷静だ。

 桃は成人の証として裳着もぎはとうに終えたとはいえ、それはただの通過儀礼。内面などとは関係なく行われるただの儀式だ。

 自分はまだまだ子供なのだろう。それに比べて、陵駕はやはり大人なのだ。鈴鳴家の世継ぎに選ばれただけのことはある。

 そう思って、桃が素直に感心していると。

「ん?」

 何やら慌ただしい足音が近づいてくる。首を巡らせ宮の方に視線を向けると、複数の公達きんだちが回廊を駆けて来るのが見えた。

 その中に交じって、武官の姿もある。

 皆、焦ったような顔をし、ただ事ではない様子だ。

「どうしたのかしら……」

 そう桃が眉根を寄せている間にも、彼らは庭にいる二人に目もくれず走り去って行く。

 かと思えば、また足音が響き、次々と人々が走って行く。

 皆、向かう方向は同じだ。

「何事かあったようですね」

 次から次に急ぎ足で二人の横を通り過ぎていく人々。その緊張した空気感が伝わり、知らず身体がこわばる。陵駕を見上げると、彼も状況がわからないなりに気を引き締めているのが、その表情から伺えた。

 ただ事ではない。それは直感のようなもの。なにか、とてつもなく大変なことが起こったのだ。

「私はちょっと様子を伺ってきます。母上は部屋にお戻りを」

 真剣な眼差し。その眼差しに気圧されて桃は言葉を失う。

 こういうところは、やはり頼りになる。冷静だ。

「わかったわ」

 今なにが起こっているか知りたい。それが大変なことだというのなら、尚更。

 それでも、そこへ桃が駆けつけて役に立てるとは思えなかった。それならば、部屋でじっとしているのがおそらくは一番いい。

 大事ならば、じき耳に入るのだから。

 足早に廊下へと上がる。桃の手を取って上がるのを助けてくれた陵駕のそれは、暑さからか緊張からか汗ばんでいた。

 その間にも人が流れていく。

「————‼︎」

 その中に、白い狩衣かりぎぬが数名混ざった。白い狩衣をまとうのは、神に仕えて魔を祓う神官だけだ。その髪は金にも見えるほどはっきりと薄い神色。それは神子の証。

 神官が呼ばれるということは、魔が出たのだろうか。神職者である神子が集うこの桜の宮で、まさか。

 神官を目にして、桃と同じように一瞬動きを止めた陵駕が、握ったままだった桃の手を引く。その顔が一層険しくなった。

 人をよけるように桃を端へと導く。

「部屋まで送りましょう」

 明らかに神官を見て陵駕が警戒したのが伺えた。それは桃もそうだ。一人で戻るつもりだったが、神官が来たとなると話は別だ。

 陵駕も桃も神子ではない。もし魔が出ても太刀打ちは出来ないだろう。しかし、一人で戻る不安の方が一気に膨れ上がってしまい、黙って陵駕の手を握り返した。

 行きましょうと陵駕が促し、桃が一歩前へ足を踏み出した、その時。

「桃姫‼︎」

 突然の背後からの呼び声。よく知っているその声の主は、蘭だ。

 普段はおだやかで物腰やわらかな蘭が、着物の裾をひるがえして振り返った二人に駆け寄って来る。

「あぁ、お二人ともこちらにいらしたんですのね」

 よほど急いでいたのだろう、胸を押さえてうつむいた蘭は、荒い息を繰り返した。

 そんな彼女の姿を初めて目の当たりにし、嫌な予感ばかりが膨れ上がる。

「どうしたの蘭、今なにが起こっているの⁉︎」

「たっ……大変なんです……」

 大きく肩で息をしながら、蘭は顔を上げた。蘭の喉が震え、ごくりと生唾を飲む。その顔は上品な蘭らしくもなく、緊張で引きつっている。

「貴子姫が」

「貴子様?」

 意外な名前に虚を突かれる。なぜ、今彼女の名前が? 彼女がどうかしたのだろうか。

「貴子姫が、お亡くなりに————」

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