憧れと葛藤
自室へ向かう廊下を歩きながら、陵駕の顔には自然と笑みがこぼれた。
なんて愉快なことだろう。桃の性格は昔とちっとも変わっていない。陵駕を後ろから大声で驚かせた、あの頃のまま。
あの頃から彼女は、負けん気の強いおてんばな小姫だった。それは一重にも二重にも、彼女が慕っていた遼の影響だろう。
あの桃の性格は嫌いではない。皆が皆、お上品な者たちばかりの宮中で、彼女は新鮮にさえ映る。
それが陵駕の義母。鈴鳴東雲の正妻、桃だ。
(それにしても、まだ子供だな……)
どうにも実感がわかない。何度母上と呼んでもしっくり来るどころか、違和感が増す。それは、幼い頃の桃を知っているからなのだろうか。
自分の方がずっと歳上なのにという思いも、少なからずあることは否めないだろう。
幼かった桃を抱き上げていたことを思い出し、そっと自分の両手を見下ろす。この手の中に納まっていた小さな姫は、自分の母となるのだ。
幼かった桃の姿を思い出す。懐かしくてつい気安く触れてしまったのは失態だった。桃は陵駕のことを全く覚えていないようだったから、ずいぶん無礼に思っただろう。
幼かったのだから仕方がない。そう思うものの、ほんの少しだけ残念な気もした。
「母上、か」
そんなものではないと思う。桃をまだ母として見ることは出来ていない。桃は鈴鳴家の姫であり、母というよりは友と言ったほうが心情的には近い。
いや、それよりも……。
先が思いやられてしまう。きちんと桃を母として見ることが出来るようになるのだろうか。
ギシギシと古びた廊下が音を立てる。
その音のように、陵駕の中の何かも、軋んだ音を立てている。
幼い頃から育った場所。陵駕も桃も、きっと他の誰も、この宮で暮らす貴族達は外での生活を知らない。外では生きて行けない。
時に街へと行くことはあっても、そこで生活するわけではない。人々は、桜の宮の貴族というだけで自然と頭を垂れる。同じ場所に立っていても、違う世界で生きている。
閉じた世界だ。もちろん、ここでしか出来ない仕事もある。大勢の貴族でない人々の生活を守るために、ここですべきこともある。
それでも、外へのあこがれは捨てられない。
だからこそ。だからこそせめて、宮中で何のわだかまりもなく生きて行きたいのに。
雨はまだ降り続いている。咲き誇る桜の花びらが雨に濡れて流れていく。
と、遠くの曲がり角から女人が現れたのが見えた。遠目からもわかる質良く艷めく
二人の距離が近づく。
近づくにつれて増す存在感。他を威圧する眼差し。
「貴子姫……」
陵駕の目の前で立ち止まって彼を見上げた女人。それは、桃の実の祖母である貴子であった。先だって五十の賀が催されたばかりだ。陵駕の父である
陵駕が秋に正式な養子となれば、彼女は曾祖母に当たることになる。
彼女は、先代の鈴鳴家家主の後妻で、桃の父・代赭の母親だ。
後妻とはいえ、立派な正室。元来から気が強く聡明であった彼女は、以前はかなりの政治的発言権を持っていた。
夫の死後は表からは身を引いたが、いまだに彼女の発言権は強い。それは、正室だからというよりは、彼女の有能さからくるものであることは明白だった。
陵駕を桃の養子にという案を提案したのは、家主の柑子だ。しかし、その背を強く押し、帝に許可をいただくために進言したのは貴子だ。
柑子は前妻の息子だが、貴子は彼の後ろ盾となっていると言っても過言ではない。彼女が鈴鳴家の存続を何よりも優先しているのは、誰の目にも明らかだ。
彼女の目には、自分の息子よりも柑子の方が家主として相応しかった。だから、政治的発言権が強かったにも関わらず、家主には柑子を推薦したのだ。
そんな貴子に、誰が逆らえよう。鈴鳴家を誰よりも守っている彼女に。
「久しいな、陵駕よ」
「ええ、本当に。あなたから養子の話をお聞きして以来ですね」
陵駕が貴子と父から養子の話を聞かされたのは、まだ寒い盛りのことだった。
その時には、もうこの話は決定事項であり、陵駕には否定することすら出来なかった。
たとえ反対の意を述べることが出来るとしても、こうなることは避けられなかっただろうが。
下のものは上の者に従う。そうして生きて行かねばならないから。
それに背くことは、許されない。場合によっては罪人になることもある。
「お元気そうでなによりです」
そう言って笑った陵駕に、貴子は冷たい笑みを向けた。
お前がこの話を受け入れ切れていないのはわかっている、そんな笑みだった。そして、おそらくそれは事実だろう。
「先程、母上にお会いして来たところです。母上も、私を息子として認めて下さったようですし、上手くやって行けそうです」
「そう」
手に持った扇子を品よく広げて、貴子は口元を隠した。冷たい輝きを放つその瞳だけで笑う。
細められた両の瞳はより一層澄み渡り、冷たく光っている。
「それは、よろしいこと。鈴鳴の家を継ぐ者として、その名に恥じることなきよう、期待していますよ」
「はい」
頷き、陵駕は脇へよけて貴子への道をゆずる。
これ以上、彼女とは話をしていたくない。
貴子のことは、幼い頃から苦手だった。特に、その何でも見透かしているような冷え切った瞳が。
まるで、蛇に睨まれたように動けなくなってしまうから。
「貴子姫、どうぞ」
道を開けた陵駕を彼女は一度見あげ、くすりと笑った。そのまま、何事もなかったかのように歩き去ってしまう。
彼女の背が曲がり角にさしかかり、見えなくなるまで陵駕は貴子を見送った。そうして、どっと息を吐く。疲れた。
貴子の前では緊張してしまう。なにか、心の底をえぐり取られてもう元に戻れなくなりそうな、そんな空恐ろしさがある。
そう、陵駕が幼かった頃から、ずっと。
ため息を付いて、貴子を見送ったままの身体の向きを、ようやっと進行方向に向ける。
そして、先ほど貴子が曲がってきた角を曲がるとまたしても女人がいた。
雨に流れる桜を見ているのだろう、廊下の途中で立ち止まっている。その双眸は庭へ向けられていた。
陵駕の知っている顔だ。
足音が雨に消されたのか、まだ陵駕に気がついていない様子の彼女に近づく。
そしてつとめて明るい声で、声をかけた。
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