母と子

 瞳と瞳が絡み合う。桃を母と呼んだ陵駕の瞳は、深く澄み切っている。まるで、深い深い湖面のように透明な輝き。

 どれくらい、そうやって見つめ合っていただろう。

「————……」

「————ぷっ」

 どちらからともなく、二人して同時に吹き出してしまった。一緒に、声を上げて笑う。

 何がおかしいのかと訊かれても、答えられそうにない。しかし、何かがとてもおかしかった。

「負けたわ」

「いーえ、こちらこそ。言い返されるとは思いませんでしたよ。それにたいへん聡明と来ている」

 それは心からの賛辞のようだった。

 だから、黙ってその言葉は受け取る。

 そういえば、夫の東雲もそう言ってくれていた。姫はとても聡明な方ですね、と。

「双子で瓜二つの桜姫とは、また随分とお違いだ」

 不意に出た桜の名前に驚く。

 彼女を知っている?

「え? 桜? 桜には会ったことあるの?」

「何度かお話もしましたよ。桜姫は恥じらう姿がかわいいお人でした」

 桜は、ほんとうに花開くようにふんわりと笑う。

 その顔は桃と瓜二つなのに、印象は全く違うものだ。それは、桃には到底真似の出来ない、愛らしさであふれている。

 いつもかわいい、愛らしいと褒められるのは桜だけだ。

「あーら、それは良かったわね」

 瓜二つの双子でこうも違うものなのか。そんな気分で陵駕から目をそらす。

「なんです、妬いているんですか?」

「な、なに言ってるのよっ」

 不意打ちのように発せられたその言葉に、慌てて首をふる。

「そ、そんなわけないでしょうっ」

 そもそも初対面の陵駕に褒められなかったことなど、なんでもないことだ。ましてや息子となる者に褒められてもなんにもならない。

 そう思いはするが、まるで心の中を見透かされたような気がして胸が早鐘を打った。

「母上は、愛らしいお人だ」

 不意打ちのように陵駕の口から飛び出した言葉に、一瞬頭の中が硬直する。その意味を遅れて理解し、ほおが熱くなるのを止められない。慌てて扇子で顔を隠したものの、陵駕のおかしそうな笑い声が降ってきてさらに顔が熱くなる。

 目の前の陵駕の顔がまっすぐ見られない。

「あなたの愛らしさは桜姫とはお違いだ。なんでもはっきりと顔に出るところなんて、大変に愛らしいと私は思いますよ」

 口元を上品に隠し笑みを浮かべた陵駕は、次にその手を伸ばし桃の頭をくしゃくしゃと撫でた。

 無骨で大きな男の手の感触に、背筋が震える。

「なっ……」

 なにするのと言おうとしたが声が詰まった。息子とはいえ馴れ馴れしすぎる。すでに亡いとはいえ、夫のいる桃に気安く触るなど。

 しかし、不思議と嫌な気はしなかった。それでも、胸の早鐘は収まらない。

(東雲殿とは違う……大きな手……)

 髪に残るその感触が、陵駕の存在を際立たせるようだ。東雲とも、柑子とも違う、まっすぐで明るい眼差し。かといって、遼のような天真爛漫さとも違う。

 そっと扇子から陵駕の顔を覗く。それは桃が今まで知らなかった人物のはずなのに、なぜだかそんな感じがちっともしない。

 桃が忘れているだけで、やはり幼い頃に接点があったのだろう。その記憶を手繰ろうと無意識に陵駕の顔を見つめ、目が合った。

「おや、美丈夫な私に見惚れておられますか?」

「な、そんなわけっ————」

 否定しようとして口がもつれた。そんな桃に、陵駕の双眸が細められる。

「ははは。私は、母上のような変わった方も大好きです」

「あ、あのねぇっ」

 しかし二の句が継げない。完全にからかわれている。そう思うのに、陵駕の存在を意識せざるを得ない。

「それにしても、こうなるとは夢にも思いませんでしたよ。あのお小さかった桃姫の養子になる日が来るなんて」

 陵駕は一人でうんうんと頷いて、実に感慨深げな表情だ。どれくらい幼かった頃なのだろう、桃は陵駕のことを、今の今まで知らなかった。

「そういえば、母上はあの頃、ずいぶんおてんばでしたねえ。母上は覚えておられないでしょうけど、私は覚えていますよ。私の背後から忍び寄って来てわぁっ、って」

 そう言った陵駕が、さもおかしそうに笑う。それは、遠い昔を懐かしむ目で、嘘を言ったりからかったりしている様子はない。

 桃の方は、そんな覚えは全くない。しかし、おてんばだったことは事実だ。

 本当に知っているのだ。

「それ、わたしが?」

 つい扇子を下ろして訊き返す。

「ええ。私の寿命を縮めてくれましたね。ですから、その桃姫が私の母上になるなんて不思議なこともあるものだなぁと」

 たしかに、そう言われれば不思議な感じがする。きっと、その頃の陵駕にしてみれば、桃はただの女童だった。

 それが、自分の母になるなんて。

「よーく覚えていますよ。それはもう、楽しそうに手当たりしだいにわあっ、と」

「う、うそ……」

 先ほどとは違う理由で、急激に顔に血が昇るのがわかった。顔が熱い。恥ずかしい。

 だとすれば、実は桃のことを知る人物は、桃が自分で思うよりもずっと多いのかもしれない。

 桃自身は全く記憶にない陵駕が、覚えているくらいなのだから。

「あと、廊下をいつもどたどた、ばたばた走り回ってはべたんと転んでおられましたね。その度に、常盤姫に叱られていらっしゃった」

「————……」

 それは覚えている。あまりにもはしたなく走り回るものだから、桃は母親である常盤にいつも叱られてばかりだった。

 叱られた記憶というのもは忘れないらしい。

 それにしても。

(七って、結構ちがう……)

 桃の記憶に陵駕はいない。それなのに、陵駕の中には幼い頃の桃がしっかりといる。

 桃が幼かった頃。陵駕はすでに、桃のことを忘れないくらいの年齢だった。

 桃が走り回って常盤に叱られてばかりだったのは、六つか七つ頃までだったと思う。とすると、その頃にはもう、陵駕はいつ妻を娶ってもおかしくない歳だったのだ。

 桃が東雲のところに嫁いだ歳と、あまり変わらないくらいで。

 すごい、と思う。これからどうなっていくのかなんて誰にもわからない。桃だって、もちろん陵駕だって、こうなるなんて思ってもいなかった。

「あのお小さくておてんばだった桃姫が、こんなにご立派な奥方になられて。私にご縁がなかったのが残念な気持ちになります」

「な、なに言ってるのよっ」

 無礼とも取れる内容だが、さらりと言われたせいでまともに反論ができない。もし陵駕の妻になっていたならと一瞬考え、慌ててその妄想を頭から追い出す。

 そんなことを考えたところで、意味がない。なにを馬鹿なことを。

「それどころか私の母上になられるのですから、不思議な巡り合わせだと思いませんか?」

「そ、そうね。たしかに不思議ね」

「そうでしょう、そうでしょう。人生おかしなことばかりです」

 うんうんと頷いた陵駕は一度ほほ笑むと、ぱっと立ち上がった。

「さて、そろそろお暇しましょうかね」

 そう言って軽く首を傾げて見せる。その陵駕の表情はまるで少年のそれで、つい、おかしくてくすくすと笑ってしまう。

 変わっているのはどちらなのか。陵駕だって相当変わり者だ。

「そう。わかったわ」

 思えば、初対面なのにずいぶんと気安いやり取りしかしていない気がする。しかし、それでも好印象だったのは、彼が爽やかすぎるからだろう。それと、深い瞳の色と。

「また伺いますので、楽しみにお待ちしていてくださいね」

 最後に陵駕は極上の笑顔でそう言い残して、さっさと部屋から出ていってしまった。

 雨に溶け込んだ、桜の香りを残して。

「変なひと」

 考えるより先にそう口から出て、それに一人で笑ってしまう。

「わたしに、子供が出来たのね」


     ◆ ◇ ◆


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