瀬戸内少女妄想ゴハン ③ レンチンリンゴ

 緑の草原は荒々しく切り取られた荒れ地を覆い尽くし、鋭くもみずみずしい葉先は太陽から吹き付ける熱波に焦がされるも新鮮さを失う事なく、凛々しく空を目指して突き立っていた。


 空には穏やかな風が巻いている。とても静かで、まるで一枚のガラス板のようでどこまでも透き通っている。


 鈴鹿は太い樹木に背中を預けるように寄り掛かり、くいと小さな顎を上げて、真っ直ぐに遥か前方を見つめていた。


 派手な黄色のヘアピン二つでピッタリと斜め45度にまとめた前髪が、暑さと緊張とがない交ぜになった汗で額にべたっと引っ付いてしまい少しむず痒い。


 まるでかまどで焼かれるピザの上のチーズだ。暑くて溶けてしまいそう。


 でも、だからと言って手で払う訳にもいかない。鈴鹿は今、身体を動かしてはいけないのだ。


 前方、遥か先。古都子が凛として立っている。細く、あまり日焼けしていない腕にクロスボウを持ちながら。切れ長の目を細めた古都子と荒々しく残虐な凶器、なんと不釣り合いで、かつ、その汚れのない無垢な手に似合う残酷でソリッドなフォルムなんだろうか。


 古都子が淡い生命力を滲ませる薄い胸にクロスボウを構え、小首を傾げるように狙いを定める。柔らかい黒髪が肩口にしなやかに流れ落ち、耳から頬へと黒い川の流れのように曲線を描き出す。


 それでも古都子は呼吸を乱す事なく、ピタリ、鋭い矢を鈴鹿に向ける。狙いは、鈴鹿が頭に乗せている一個のリンゴだ。


 スイス、アルトドルフへ配置されたオーストリア人代官は、その傍若無人で勝手極まりない行いに抵抗した古都子をひっ捕らえた。それでもなお代官への反抗を止めない古都子へ、オーストリア人代官は罰を下す。


 弓の名手である古都子に、彼女にとって大切な存在である鈴鹿の頭に乗せたリンゴを射落とさせると言う罰だ。見事にリンゴを射抜けば古都子も鈴鹿も自由の身に。しかし弓を外せば、鈴鹿にもたらされるものは頭を貫く矢か、役人の執行する死、そして古都子も処刑される。


 何て横暴で理不尽な罰か。しかし鈴鹿は自ら進んで頭にリンゴを乗せた。信じてるから、とさらりと言ってのけて。


 古都子はクロスボウの引き金にそっと指を置き、自分の真っ黒い瞳と、クロスボウの照準と、鈴鹿の頭の上のリンゴを一直線に線で結ぶ。そこからほんの少し、髪の毛数本分、重力に引かれる分だけ仰角を修正。


 後は風が止むその瞬間を待つだけだ。


 それなのに。


 身体中を血液の代わりに緊張と言う液体がどろりと流れて、その刺々しいくせに粘りつく特性で身体中の関節に絡みつき、まとわりつき、こびりつく。クロスボウを身体に押し付けて固定するだけで身体中の関節が痛みに悲鳴を上げる。


「はぁっ、はぁっ」


 ぴたりと狙いは定まっていると言うのに、どうして指の震えが止まらないんだろう。胸が波打つような鼓動の高鳴りを抑えられないんだろう。どうして、引き金を弾けないんだろう。


「はぁっ、はぁっ」


 指先の震えがクロスボウの銃身に伝染した。鋭い矢の先端が幾重にも滲んで見える程に小刻みに揺れだす。


 だめだ。このズレが、ほんの少しの縦軸の揺れのせいで、放たれた矢が貫くのはリンゴではなく鈴鹿の眉間だ。この世で最も愛おしく大切な鈴鹿が永遠に手の届かないところへ行ってしまう。


 古都子はついにクロスボウを下ろしてしまった。銃身の重みで腕が垂れるに任せてがっくりと肩を落とし、ふっと一つ息を吐いて天を仰ぎ見る。


 空は高く、透き通った青色が自分を覆い尽くしている。風が巻いて、黒髪が頬に触れる。古都子はその髪を払う事すら出来なかった。髪を整えてくれる誰かの手もない。この広過ぎる空の下、どうしようもないくらいにひとりぼっちだ。


 大丈夫だって。


 誰かの声が古都子の黒髪を撫でた。


 センパイにはあたしがいるじゃん。


 鈴鹿の声が古都子の心の中で鈴が転がるように鳴り響いていた。鈴鹿の声が、まるで耳のそばで謳っているみたいに、こんなにはっきりと聞こえるなんて。標的のリンゴを頭に乗せた彼女とは15メートルも離れているのに。


 古都子は空を仰ぎ見るのをやめて、鈴鹿と真っ直ぐに向き直った。鈴鹿は古都子と視線が合うと、ニコッと陽の光に負けないくらい明るい笑顔を見せ、唇をぱくぱくと動かして見せた。何か喋っているようだが、遠くて古都子の耳には届かない。


「さっきの声、やっぱり鈴鹿だな」


 鈴鹿は笑顔のまま頭の上のリンゴを手に取り、それを肩に置いて小首を傾げるようにして頬と肩とで挟んで固定した。


 古都子は思わず吹き出してしまった。


「自分から難易度を上げてどうする。とっくに覚悟は決めていたって訳か」


 あとは私が覚悟するだけか。そう思うだけで、不思議と心を覆っていたモヤは消え去り、指の震えは止まった。


 古都子は迷いの消えた自然な仕草でクロスボウを構え直し、深呼吸を一つ、そして鈴鹿の頬と肩に挟まれたリンゴに狙いを定め、即、撃った。


 金属を指で弾いたような硬い音が空気を切り裂き、撃ち出された矢は一直線に鈴鹿に向かって突き進んだ。


 ぐんぐん迫る矢が、古都子の驚いた顔に変わり、前に突き出された古都子の細い右腕が鈴鹿の頬と肩をかすめるようにして壁にドンッと叩きつけられた。


「古都子センパイの壁ドン、いただきましたー」


 鈴鹿がぽーっとした表情でとろんと言った。


 古都子の部室に差し入れを持って行った鈴鹿は、出迎えてくれた古都子が蹴躓いて、転ぶまいととっさに出した右腕がちょうど鈴鹿の頬と肩のすぐ側の壁に止まったのだった。


 まさに壁ドン。壁に身体を預けた鈴鹿と、前傾姿勢で背が低めの鈴鹿を上から見下ろすような格好の古都子と。


 部室には他に誰もいない。これはっ、チャンス! とばかりに、そうっと目を閉じる鈴鹿。


「こら。目を閉じるな」


 古都子はすぐさま体制を立て直して鈴鹿の頭をぺちんと軽く叩いてやった。


「ちぇーっ。センパイのウルトラケチ」


「そう言う問題じゃない。私は着替え中だ。外で待て」


「いいじゃないですかー。ウィリアム・テルごっこをした仲じゃないですかー」


 一瞬間を置いて首を傾げる古都子。さすがに鈴鹿の妄想も古都子まで伝染したりはしない。すべて彼女の脳内で完結する。


「……何の事だ?」


「ほら、頭にリンゴを乗っけて、矢で撃つってアレですよ。何だったらあたし、頭にリンゴ乗っけて的のところに立ってもいいですよ」


「ヴィルヘルム・テルはクロスボウの名手だろ。私のはアーチェリーだ」


「知ってますよ。モンハンに出てくる武器みたいでかっこいいじゃないですか」


「モンハン言うな」


 古都子は鈴鹿に背中を向け、ブラウスの前ボタンを閉じて赤いリボンタイをキュッと結んだ。


「で、何の用だったっけ?」


「差し入れでーす。レンチンリンゴ冷やしときましたー」


 鈴鹿は足元に落ちたボディバッグを拾い上げ、中から保冷剤で包まれた小さなタッパを取り出した。


「今日はウルトラ暑かったからちょっと塩を効かせて、凍るギリギリまで冷やしました。どうぞ、召し上がっちゃって」


 可愛らしい持ち手の小さなフォークを添えて、さあどうぞ、と古都子に差し出す。古都子はチラッと自分の足元を見て、まあいいか、と鈴鹿からフォークを受け取り、タッパの中のリンゴの一切れにプツリ。


 半分透き通ったような一切れのリンゴはとろっとしたカラメルになりかけの液体に漬かっていて、口に運ぶとシャキシャキした歯ごたえが美味しさを呼び込み、染みる程の冷たい甘酸っぱさが一気に古都子の火照った胸を冷やしてくれる。喉を下り落ちるリンゴの果汁をふわっとシナモンの香りが追いかけて行く。そして、口の中でカリッと砕ける塩の結晶。後味がきりりと引き締まる。


「うん、美味しい」


「でしょー。レモンのハチミツ漬けなんかにゃ負けませんよ。果物の王様はリンゴです。レモンなんて酸っぱいだけだし」


「どうやって作るんだっけ。みんなにも食べさせてあげたい」


 鈴鹿が鼻の穴を膨らませて自慢気に答える。


「リンゴをいい感じでカットして、グラニュー糖とレモン汁をかけるんです。今回はそこにシナモンパウダーと岩塩をさらっと一振りして、グラニュー糖がリンゴ果汁で溶けてカラメルになるギリギリまでレンジでチン」


 鈴鹿もタッパから一切れ口に放り込む。


「リンゴのシャクシャク感と溶けたグラニュー糖とリンゴ果汁がとろっといい感じで、レモンの酸味が味を引き締めて、まさにパーフェクトって奴ですよ」


「果物の王様はリンゴとか言って、レモンも入ってるじゃないか」


 古都子はプリーツスカートを引き上げて言った。さっきはスカートを着けてる途中に鈴鹿が乱入してきたから蹴躓いたんだ。さすがにもうスカートを上げたいと思ってて、なかなかチャンスが巡ってこなかったのだ。


「しまったーっ! レモン入ってるじゃん!」


 鈴鹿が頭を抱える。それを余所目に、古都子はよく冷えたレンチンリンゴをもう一口。

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