重力と甘噛み

「シュガーキューブ、今度は何個?」と夢見が前のめりに聞くから「5個。あ、やっぱ4個?」と雪見は控えめに答えた。


 シュガーキューブなんて言ったらどっかのファッションブランドになっちゃうよ。ハンドバッグを5個用意しようか? 相変わらずおかしな子だ。


 雪見は溢れそうになる笑いを噛み殺して、マグカップに角砂糖を三つ落とし、そして四つ目のキューブをそっと沈める。とぷっと、カップの液面はかすかに揺れた。


 今朝も特に冷える。今年の冬は、いや、今回の冬の嵐は例年を上回る勢いで発達している、とテレビで天候予測AIが言っていた。


 雪見の細い手のひらで包めないほどに大きなマグカップには、北欧のヴァイキングたちが纏ったノルディック・タトゥーのシンボルがデザインされていた。そのルーン文字が示す意味は、離れない愛。


 立て掛けたスマートフォンの中の夢見もお揃いのデザインのマグカップに手を添えて、スプーンで北欧の海をゆったりとかき回していた。マグカップの底に溜まった角砂糖のざらついた感触はすぐに溶けてなくなるだろう。


「コンソメキューブは何個?」


「1個」


「たった1個?」


 夢見が笑う。そう、たったの1個だ。雪見には作戦があった。だからコンソメキューブは1個で充分。


 雪見とスマートフォンの夢見と、同じタイミングでマグカップの海にコンソメキューブを落としてスプーンでコツコツと突いた。熱い液体の中でキューブは砕け割れて、ジャリジャリとした荒い手触りを残してすぐに溶けた。


「例のブツは準備オーケイ?」


 今度は雪見が仕切る番だ。そこから見えるはずもないのに、スマートフォンの夢見の手元を覗き込む。用意しておくようメールしていたのだ。準備オーケイに決まっている。夢見は前歯を見せるようににかっと笑い、アルミ箔の小袋を取り出して振って聞かせた。やたら細かく乾いた音がする。顆粒状のコーンスープだ。


「どれくらい入れる?」


 もう答えなんてわかっているくせに、夢見は悪戯を仕掛けた悪ガキのように笑って言った。雪見もそれにつられて笑った。


「全部いっちゃう?」


「全部いっちゃおう」


 そう、全部だ。すでに角砂糖とコンソメが投入されているが、まだコーンスープ一食分くらい溶ける余地はあるだろう。


 薄っぺらいアルミ箔の封を真っ直ぐに切り開き、顆粒を一気にマグカップへとぶちまける。乾燥しきったコーンの粒と小さな立方体のクルトンが熱い海に浮かぶ。いや、浮かんだのはコーンとクルトンだけじゃない。粉状のスープの大部分が液面に山を成して溶け残ってしまった。


「溶けない」


「溶けねー」


 夢見と雪見は作り方を間違えていた。顆粒状コーンスープは粉を先に容器に入れてそこへお湯を注ぐべきなのだ。カップには飽和しつつある液体がすでになみなみと注がれている。これに大量の粉を混ぜ溶かすのは容易ではなさそうだ。


「入れ過ぎたかな?」


「溶ける、溶けるって」


 それでも夢見と雪見はスプーンでコーンスープの粉を押し沈めるように溶かした。クスクスと、溢れ出る笑いをぐっと堪えながら。


 少女たちには少し大きめのマグカップになみなみと注がれたラードの海。電子レンジでしっかりと温めて、ゆったりと溶かしきっている。湯気が立ち昇るほど熱く、やや粘性を残すように揺れるラードの液面は、北欧の海を走り抜ける荒波のように何もかもを飲み込んだ。


 マグカップの底のざらついた感触はようやくなくなった。雪見はラードを掻き回していたスプーンを引き抜く。そのままたっぷりと絡みついた黄金色にきらめく液体を口に運んだ。


「んー」


「んー?」


 スマートフォンの中の夢見が雪見の声色を真似する。食い気味に前屈みになり、スマートフォンの画面いっぱいの顔でこちらを覗き込んでくる。


 そんなに寄ったって見えるわけないじゃない、と雪見はコーヒー用のミルクポーションを一つ、スマートフォンの夢見に見せびらかすように取り出した。マグカップのラードの海へ回転する一筋の白いラインを引く。


 そうっとマグカップへ口を近付け、ふうふうと吐息のような息を吹きかけ、唇を濡らす程度に熱い液体を啜る。


「美味しい」


 はあ、と雪見は熱いため息を吐いた。それを聞いて夢見もすぐに追いかける。熱いラードが黄金色に揺れるマグカップへ唇を添える。ずるるっと音を立てて夢見の口へ滑り込むラードの海。コンソメのしょっぱさ、コーンスープのコク、砂糖の甘さ。


「うん、美味い」


 夢見もゆるりとしたため息を吐いた。今度こそ美味いラードスープが完成した。濃厚な甘みの底に蓄えたカロリーも申し分ない。この温かいスープと、ニンニク風味のオリーブオイルに浸したバゲットと溶かしバターで焼いた肉饅、そしてスプーン一杯のハチミツをかけた焦がしキャラメルの朝食。このカロリー量なら今朝の重力嵐にも耐え抜くことができるだろう。




 世界はぶっ壊れっぱなしだ。


 気圧差100hPaの重力嵐の中を通学するのはカロリーを消費し過ぎる。吹き荒れる暴風と激しい気温差に体力が維持できなくなるのだ。乱れた重力場を乗り越えるのにはとにかく高いカロリーが必要だった。


 そんな重力嵐が猛威を振るう世界でも、雪見は通学しなければならない。夢見に会うために。夢見もまた、雪見と会いたいがために学校へ通う。スマートフォンの小さな画面を通した逢瀬では何もかもが足りない。


 直接顔を合わせ、風に乗せた声を聞かせ合い、物理的に肌を接触させたい。そんなささやかな欲求を満たすためだけに、重力嵐に立ち向かう。


 世界はぶっ壊れっぱなしだった。




 雪見は出来る限りの重装備で玄関の扉を開けようとした。しかし思ってたよりも重い。肩を当てて身体全体で強引に押し開ける。


 早速重力嵐の脅威が雪見に襲いかかった。屋内とは異質の固く冷えた空気が脚の間をすり抜けていく。早く重い玄関を閉めなくては。部屋の重力まで乱れてしまう。


 雪見は慎重に一歩だけ外に進み出て、背中で寄りかかるようにして玄関扉を閉ざした。ずっしりと重たい。やはり、扉の重量が増しているように思えた。


 ぱっと見、外の空間に外観的異常は見られないように思える。まだ朝が早いせいか、空は重たそうな灰色の雲に覆われて薄暗い。街灯の電気が白い線のように歩道を照らしている。


「今日は行けそう、かな?」


 安堵感から思わず独り言が漏れた。吐く息が白い。外気温はさらに低くなるだろう。


 だからなんだ。それがどうした。雪見にはどうしても通学しなければならない理由がある。重力嵐による局所異常気象なんて関係ない。


 夢見に会いたい。ただそれだけだ。


 ただそれだけだが、このぶっ壊れた世界を、ダッフルコートにモフモフマフラーを巻いて冬用の黒タイツを装備して出歩くだけの価値がある。狂った世界だが、夢見がいる。それで十分だ。


 今のところ重力が安定している通学路へ、雪見は勇気を振り絞って歩みでた。コツコツと道路を叩くローファーの靴音が硬い。路面のアスファルトも雪見の脚をやや強く跳ね返し、跳ねるような歩行姿勢になってしまう。


 重力嵐のせいで人っ子ひとりいない道路を飛び跳ねて進むと、雪見はすぐに異常重力の洗礼を浴びせかけられた。


 道路の先、目に見えるすべての電信柱が風に揺れるススキの穂のように斜めに傾きなびいていた。


 強重力に切断された電線も斜めに垂れて路面に落ちている。まるで浜に糸を垂れる釣竿が何十本も立てかけられている海辺みたいな光景だった。そのすべての電信柱の釣竿が乱重力とシンクロしてゆったりと揺れて、魚をおびき寄せるようにしゃくり上げている。


「これは、この道は無理だわ」


 その狙いの魚は雪見か。この道を斜めに傾いて歩けば、すぐに揺れる電線の一本に絡まり、無様にも捕らえられてしまうだろう。途切れた電線にもう電気は流れていないだろうが、それでは夢見に会えなくなってしまう。この道は避けたい。


「なんか前と違うし、もう人も住んでないのかな」


 音までも異常重力に囚われてしまうのか、毎回歩く通学路は静まり返っていた。物音一つしない住宅地に電気の明かりは見られず、思わず呟いた雪見の声もすぐに地面に吸い込まれて消えてしまった。


 前回この道は普通に通れたのに、この状況じゃダメか。雪見はそう思って迂回することにした。通学路としては遠回りになるが、バスも走る幹線道路の道だ。ここよりは安全だろう。


「どっちかな?」


 重力の十字路に雪見の声は降り積もり、かすかなドップラー効果を残して消えた。雪舞う真冬の風の音のようだ。


 十字路を右に折れれば川沿いの道だ。風が吹き抜ける土手状の歩道は、夏場は川の音が涼しげで歩いていてとても心地がいい。晴れ渡った日によく使う通学路だが、今はもう違う。


 異常重力による気圧差で川の水がもうもうと蒸発し、土手を吹き上げる湿った強風が身体を持ち上げてしまう。アスファルトまででこぼこに歪んだ白く煙る低重力下の道はとにかく歩きにくい。


 左に折れれば交通量も多く空気が悪いバス通り。普通ならバス通学の同級生もちらほら見られ、やたらうるさい子に捕まると通学の間ずっと知らないアイドルの話を聞かされる面倒な道。でももうその子もいない。うるさく走る車も汚い空気を撒き散らすバスもどこかに消えた。


「こっちだね」


 雪見は自分に言い聞かせるように呟いて、斜めに傾いた十字路を左に曲がった。


 ここ何回かはこっちを選んでないし。何よりもこっちの通学路には夢見と初めて出会ったコンビニがある。


 待ち合わせしていなくても何となくお互い待ってみたり、一冊の可愛い雑誌を二人で立ち読みして、一個のあったかい肉まんを二人で半分こして、一緒に帰ったりした思い出のコンビニ。


 そんなコンビニももう営業はしていないだろう。それに学校に向かうには結構な遠回りになる。でも、前を通るくらいなら。


「あ、雪だ」


 雪見と夢見。名前が似てるから。二人が惹かれ合ったのはそんなシンプルな理由だった。どっちから自己紹介したんだっけ。そんなことを思い出しながら、雪見は手のひらから舞い上がる雪を見上げた。


 こっちの通学路は重力交差が起きていた。地球がもたらす本来の重力と異常発達した重力嵐による超低重力。二つの現象が同時に発生し、お互いに干渉することなく、雪見の小さな身体に作用した。


 足にずっしりと47キログラム重の重さを感じながらも、雪見のミディアムお団子ヘアの髪、赤いモフモフマフラーの端、チェック柄のプリーツスカートの裾が微重力に誘われて空へ向かって跳ね上がる。


 足元には雪が積もっていた。水蒸気が地球の重力に引かれて地面に溜まり、低重力下の気圧差で急激に冷やされて雪の結晶となる。そうやって空気をたっぷり含んだ軽い雪は微重力に乗ってふわりと浮かび、地球の遠心力にやんわりと飛ばされてゆらゆら空へと舞い上がっていく。


 雪見の周囲には雪が舞っていた。地面から空中へ、白い雪溜まりから空へと音もなく昇っていく。まるで逆再生映像のような光景に目眩がする。雪とともに跳ね上がろうとするスカートを押さえながらふらりふらりとよろめき歩く。雪見の三半規管までも重力交差の影響を受けているのかもしれない。


 雪の通学路を歩けば歩くほど雪の結晶は大きくなっていった。フラクタルな多角形が目に見えるほどに存在感を増して、ゆっくりと時計回りに回転しながら空を埋め尽くす灰色の雲に吸い込まれていく。


「夢見、寒くないかな」


 細身でスタイルのいい夢見は、新しくおろしたネイビーのピーコートがすごく可愛いから、そんな些細な理由で防寒性よりも機能美を優先させる女の子だ。可愛いピーコート姿の夢見を見られるのは素直に嬉しく思うが、この朝は重力変異が特に酷い。局所的に気圧も下がって底冷えする。


 異常重力下での通学にはエネルギーがいる。視覚的、感覚的な歩きにくさから激しい運動にも等しいカロリーが必要だ。兎にも角にも身体が異常重力の変化に耐えるためにカロリーを消費し過ぎるのだ。カロリー切れであまりの寒さに動けなくなってしまったら残念だ。夢見に会いたいがために、こんなぶっ壊れた世界でも通学しているのだから。


 ついに歩道は真っ白く雪に埋まった。細かい砂粒を踏みつけるような音を立てて歩けば、凍えた粉雪が散り散りに舞って上空へ昇っていく。一歩、また一歩、雪を空へ舞い散らせながら雪見は足を進める。雪や髪にかかる重力は低いのに、身体が重い。それに暑い。熱い。身体がカロリーを燃やしている。


 夢見に会いたい。馬鹿げているか。こんな荒れ果てた異常重力地帯を歩いて会いに行くだなんて。


 やがて、白いもやの向こう側、薄ぼんやりとした視界に青いラインの看板が見えた。いつものコンビニだ。ようやくここまでたどり着いた。学校まであと少し。夢見はもう学校に着いているだろうか。


 家からこのコンビニまでの遠回りの通学路、誰一人として歩いている人間はいなかった。通学通勤時間帯だというのに車もバイクも見かけなかった。


 重力の檻に囚われた人間は雪見一人きり。誰もいない通学路を、夢見の姿を求めて歩く。


 誰かいないか。ふとコンビニに寄ってみようと雪見は思った。車なんて来るはずもないのに左右を確認して道路を渡る。


 薄っすらとアスファルトを覆う程度に湧く雪を巻き上げて、ひっそりと佇むコンビニの駐車場に近付くと、雪見は小さな足跡を見つけた。


 吹き荒ぶ重力嵐の中で、ようやく見つけた人間の痕跡。誰かがここにいた。それだけで雪見の胸が弾む。この靴跡の形、そして小ささからすると、雪見と同じ女子高生のものか。だとすれば。


 雪見は雪に残る足跡を目で追った。雪は自然と地面に湧き、一旦足跡を覆い隠す。それでも表面の雪は下から押し上げられるように舞い昇り、ここに誰かがいたという小さな証拠はしっかりと刻まれていた。


 足跡の行く先、薄っすらと白く色付いたコンビニの駐車場に、雪見は雪に埋もれた濃紺色の布地を見つけた。


 そこだけ重力が強くなっているのか、雪は昇らずにネイビーのピーコートの上に降り積もっている。夢見だ。夢見が倒れていて、人間が持つ自身の重力で周りの雪を集めている。


「夢見!」


 思わず雪見は金切り声をあげて雪を掻き分けた。雪はすぐに空へと昇り、真っ白い顔をした夢見の愛しい顔が現れた。


「そんな……」


 異常重力による気圧差と低温の中を長時間歩いてきたため、夢見はカロリー切れを起こしていた。ハンガーノック状態に陥っている。


「夢見! ねえ、夢見!」


 雪見は何度も夢見の名を叫び、彼女の細く軽い身体を抱き起こした。やっと会えたというのに、雪見が会いたかった夢見はこんな白く色艶を失った夢見じゃない。


「……雪、見?」


 かすかに口を動かし、夢見は目を開けた。しかしすぐにまぶたは閉ざされ、紫色の唇も動かなくなる。


「喋っちゃダメ。これ、食べて」


 雪見はコートのポケットからキャラメルを取り出した。万が一の時にとポケットに忍ばせていた非常食だ。震える手で一粒の包み紙を開ける。


「夢見、起きて。眠っちゃダメ」


 かじかんだ指で夢見の冷たい唇にキャラメルを押し当てる。それでも、夢見は雪見の指を甘噛みすらしてくれなかった。


 しんしんと空へと舞い昇る雪。重力嵐は静かに吹き荒れていた。夢見の後を追うように、雪見の身体からも命の雫が急激に奪われていく。雪見ももう動けそうにない。


「また、ダメだった」


 まただ。絶対的にカロリーが足りない。


 せめて夢見がどこかに昇ってしまわぬように。雪見は夢見に覆いかぶさった。地面に落ちる過重力と空へと昇る微重力がとても冷たく感じられた。




 重力嵐は空間だけでなく、時間さえも強く掻き乱した。


 雪見に結び付けられた時間は作用を乱されてマイナス座標へと進んだ。時が巻き戻る。


 気が付けば、いつもの朝だ。




「シュガーキューブ、今度は何個?」と夢見が前のめりに聞くから「10個いける?」と雪見は思い切って言った。


 スマートフォンの中にはいつもと変わらない夢見と大きめのマグカップ。夢見と雪見、お揃いのマグカップに刻まれたノルディック・タトゥーのシンボル。そのルーン文字の示す意味は、離れない愛。


「コンソメキューブは何個?」


 異常発達した重力嵐の中で、少女たちは叶わぬ逢瀬を繰り返していた。

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