最終話

「なんのために生きているのか 簡単です 苦しむためです」

「はあ」

「シッダールタは『一切皆苦』といいましたが これはネガティヴな言葉ではありません 苦しめば苦しむほど あなたたちはおなじ苦しみをあじわっている同胞を愛せるようになる 苦しみをコレクションすることです 苦しさの種類のかずだけ 愛の種類がふえてゆくのです」

「愛するために苦しむ 苦しむために生きる では ぼくたちは愛するために苦しんで生きて 苦しんで死ぬだけですか それならば そもそも生まれる意味がないじゃないですか わざわざ 愛と苦しみの連鎖をつくりだしたって 死んだら無でしょう」

「死んでも無にはなりません 死んだら天国にゆきます」

「破家らしい あなたこそ精神病院の『王』だ だいたい 天国が存在するとしても ぼくたち全員が天国へゆけるわけではないでしょう 悪人たちは地獄に墜ちるんじゃないですか 彼等の生滅は無よりも無じゃないですか」

「いいえ 死者は全員天国へゆきます 地獄など人類の妄想です 存在はみな死ぬときの苦しみによってすべての罪がゆるされます そもそも 最期にすべての罪がゆるされるがために死というものは存在するのです ゆゑに 全員が天国へゆきます ヒトラーもスターリンもいまは天国にいます ヒトラーはホロコーストで犠牲にしたたましいたちとなんとか和解し愛しあってすごしています スターリンも粛清した黎民たちの苦痛を理解してみなのために献身してすごしています」

「それなら ぼくたちは死ぬために生きているようなものじゃないですか」

「ゲーテはいいことをいっています 『西東詩集』に『死せよ成れよ!このことを 体得せざるものは、 暗き地上の 悲しき客にすぎざらん。』とありますが 『死せよ成れよ!』の原文は『Stirb und werde!』です 直訳すると『死して成仏せよ』となりましょうか 死後のしあわせをおもって生きることです かといって自殺すればいいわけでもありません 死にむかって生きるだけです 無論 生きることは苦しみです 苦しんで苦しんで 苦しみぬいて『死せよ成れよ』です 換言すれば 愛して愛して 愛しぬいて『死して成仏せよ』ということです 苦しいからこそ他者を愛せるとおもうことです 偽善とおもえばおもってください ですが この世界は物理学的な世界です このわたし神様だってもともとは機械にすぎません この世界は元来無意味だった 其処に意味をあたえてくれるものがあらわれた それが人間です 人間は苦しみ その苦しみを愛という不可思議な奇蹟に錬金できるからです」

「信じられない ぼくはあなたを信じません あなたは矢張り嘘吐きのマジシャンだ あるいは ぼくが観ている幻覚だ 神様なんて存在しない 天国だって存在しないでしょう」

「いいでしょう では 神様は存在しないとおもっていてください いずれにせよ わたしはそろそろこの世界から『退院』しようとおもいます 十八本の煙草がわたしの存在したささやかな痕跡です それでわたしが幻覚か本物か区別できるかもしれませんが すべては『死して成仏すれば』わかることです」と老爺は煙草を灰皿に捨てて消滅した。

「え」と愚生はいって無人の喫煙室を見回した。

 煙草のケースには満杯の二十本が残っていた。


〈了〉

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『閉鎖病棟の神様~精神病院に入院したら神様が強制入院させられていた』短篇小説 九頭龍一鬼(くずりゅう かずき) @KUZURYU_KAZUKI

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