第26話 名前

 今、僕と冬知屋さんは第二被服室で隣り合うように椅子に腰かけていた。


 ここは鍵さえ先生から借りれば、だれでも自由に利用できる教室だが、中にあるのは古びた長机とパイプ椅子が数個あるのみ。


 授業で使われることもなく、生徒にとっては馴染みのない場所であるため、好んでここに来ようとするもの好きは僕らくらいだ。


 放課後二人で落ち着ける良い場所を見つけたと冬知屋さんから聞いて、テスト週間のみんなと勉強しない日はここで二人きりで過ごしていた。


 第二被服室は本当に静かで、学校から隔離されているのではないかと疑うほどだ。意識しなくても、隣の冬知屋さんの息遣いが耳に入ってくるほどに。


 おかげで、胸の高鳴りはしょっちゅうだったが、集中するにはうってつけの空間でもあったため、僕はテストの結果に確かな手ごたえを感じていた。


 そう。先ほどの授業ですべてのテストの返却が終了し、解答用紙は手元にそろっている。


 長机の上には採点がすでに済んでいるお互いのテストの解答用紙がズラっと並べられている。


「テスト終わったねー」


「ああ。大変だったな」


 大変だったのはテストだけではなかった。




 今村の件についてはあの後、職員室で先生たちにかなり追及された。暴力沙汰にまでなったしな。


 だが、僕がボコボコにした今村たちは骨折などの重傷はしていなかったので、僕が厳重注意だけで事が済んだのは幸いだった。


 むしろ今村たちは証拠動画だったり他の生徒の証言だったりで、一週間の謹慎処分を受けていた。


 なにやら今村は別人になったかのごとくシュンと大人しくなっていたので、もう悪事は働かないだろう。


 とはいえそれで終わるほど学生生活は甘くなかった。


 僕が次の日登校すると、今村やその仲間たちが謹慎中なのをいいことに、クラスメートが寄ってたかって、注目を浴びせてきた。


 クラスのグループチャットにすら入っていない僕が息つく間もなく話しかけられるのは大変珍しい光景だっただろう。


 実際、矢継ぎ早に迫ってくる質問攻めに応えるのはかなり骨が折れる作業だった。




 このように、テスト週間の出来事をじっくり回顧していると、隣から鈴が鳴るように清廉な声が耳に入ってきた。


「凌君強かったねー」


「え、ああ。昔父さんに鍛えられて……」


「あー違う違う。国語の点数の方」


「あ、そっちか」


「ま、確かに凌君はそっちを褒められた方が嬉しそうだもんねー。この前だって同じクラスの女の子に言い寄られて、鼻の下伸ばしてたもんねー」


「棒読みやめろ!あと褒められて嬉しくなるのは冬知屋さんだけだ」


「はいはいそうですかー」


 冬知屋さんはプイッと拗ねたように顔を背けた。ご機嫌を損なってしまった。話を逸らそう。


「ま、まあ国語は運が良かっただけだ。元々そういう教科だろ?」


 まさか、僕が国語学年二位の成績を修めることになるとは。冬知屋さんは学年三位。つまり、国語という教科においては僕が冬知屋さんに勝ったんだ。


 だが、他の教科では惨敗した。いや、前よりはいい成績だったんだ。特に数学は冬知屋さんや黒野たちに教えてもらったからか、学年でも上から数えた方が早いくらいにはのし上がってきている。


 でもそれだけなんだよな。一週間必死に勉強したからって、地頭の良い人にはそう簡単には勝てないか。


 ちなみに学年一位は黒野だった。いいよ。それだけなら。あ、こいつ一位なんだって、結構頭いいんだで終わらせてくれよ。


 なんだよ、全教科満点って。今時、進研〇ミの漫画でもこんな勝ち組ルート存在してないぞ。知らんけど。


 冬知屋さんも十分すごいんだよな。数学満点だし。


 でもどれだけ良い点と言っても、他は九十点台に留まっている。


 黒野の全教科満点という異次元の現実を突きつけられたときは、苦虫を嚙み潰したような顔をしていた。悔しかったんだろうな。


「だとしても運だけで百点はとれないよ」


 あ、やっぱり黒野に負けたこと気にしてるな。


「それでも冬知屋さんはさすがだな。黒野には負けたけど、十分良い点数だと思う」


「……………………」


「ま、まあテストはまだまだあるんだしさ。次勝てばいいよ。冬知屋さん」


「……………………」


 あれ。全然口きいてくれない。もしかして僕が思っている以上に冬知屋さんは黒野に負けたことを根に持っているのか。だから僕が軽口をたたいたばかりに……


「ごめん、冬知屋さん。すぐに切り替えられるわけないよな」


「……………………」


「僕に勉強教えるのに時間を取られたからだよな。次は自力で勉強するからさ。自分の勉強に集中しなよ、冬知屋さん。冬知屋さんなら黒野に勝てるよ。冬知屋さんなら絶対に!」


「……………………」


 返事がない。ただの冬知屋さんのようだ。あ、でも、ほんのり顔が赤く染まっているような……


 何か言いたげに、さっきから指をこねくり回している。


「どうしたの、冬知屋さん?」


「………………………名前」


「え?」


「私、冬知屋じゃない……」


 なんだ?哲学か?と思ったのも束の間、冬知屋さんと約束した勝負のことがプレイバックされた。


 あれかー。色々あったからすっかり忘れていたな。


 くっ。緊張するな。たかが女の子を下の名前で呼ぶだけだろ。


 僕はナーバスになっている心情を誤魔化すように、頬を掻く。


 やっぱり今日は……と僕は逃げの選択を取ろうとし、顔を上げると、そこにはおもちゃをねだる聞かん坊のようにじっと目で訴える冬知屋さんが。


 はあー。そんな顔されたら逃げるに逃げられないだろ。可愛いな。くそっ。


 逡巡し、重くなった口をやっとの思いで開き、その名前を紡ぎだす。


「さ、紗希」


 たったこれだけで全身を火照らせることができるのは思春期の特権なのだろうか。大人になったらなんともないのだろうか。


 というか、大人になってもこの調子なら上手くコミュニケーションを取れる自信がない。それくらい、心臓がバクバク鳴ってる。


 居た堪れなくなったので、固まった腰を上げ、椅子に座り直し、頬杖をついて、ふゆ、紗希とは逆方向に視線を向ける。


 今、紗希がどんな表情を浮かべているかは知る由もない。ただ、僕の取った行動が間違いではなかったということだけはわかった。なぜなら、


「………………もう一回」


「今なんて?」


「もう一回呼んで……」


「あ、ああ。紗希」


「ふふふ。もう一回」


「紗希」


「えへへ~もう一回」


「もうよくないか?」


「ヤダ。もう一回」


「……わかったよ。紗希」


「へへへ~」


 もうやめて。僕のライフポイントはゼロよ。反則級の可愛さだ、ちくしょう。


 そのとろっとろにとろけた笑顔を向けるな。近づけるな。心の臓がえぐれる。


 ホント誰だよ、この可愛い生き物作ったの。


 まるで犬が尻尾をフリフリ振って懐いているかような雰囲気を紗希は醸し出している。僕に向ける瞳には従順さが窺える。


 結局この後も、めちゃくちゃ呼ばされた。

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