第18話 生身の愛へ11 兄の幸せの影にあるもの

 「愛美さん、情緒不安定になっていたのですね。やっぱり、お二人の結婚が、ショックだったのでしょうか?」

 「確かにそれも大きかったと思いますが、それ以上に、兄である私がくすのき学園を退所して外に出てしまったことで、見守ってくれる人間がいなくなったことによる寂しさが爆発してしまったことが、大きな理由だったと思います。頼りないのは元気な証拠とか、そんな無責任なことを思ってしばらく面会に行かないままだった私は、彼女のそれまでの数か月の話を聞いて、冷や汗をかきっぱなしでしたよ・・・」

 たまきちゃんの問いに、義男さんが淡々と答える。兄の来訪が少なくなり、しかもその兄が、担当だった元保母と結婚してしまう。確かに彼女の面倒を見る職員も、同じ部屋にいる子どもたちも、学校には友人も何人といたはずなのだが、一番肝心なつながりが失われたという喪失感が、彼女を一時期、横道へとそらせていたのだ。


 「私も、義男君に何なりと言ってあげればよかったのですが、あの年は4月から半年以上忙しくて、くすのき学園まで行けるほどの余裕がありませんでした。私も、その年は保育園内のいろいろな雑務に追われていましたし、くすのき学園を退職した事情もありましたから、愛美ちゃんのことに関わるわけにもいかないと思って、ずっと黙っていました。しかし、あの日の話を聞いたら、本当に、彼女は間一髪で救われたようでした」

 「愛美には、本当に申し訳なかった。愛美が苦しんでいる時期に、兄である私は、愛ちゃんといよいよ結婚して、「ラブラブ」とまではいいませんけれど、幸せ感に包まれていたのに、あの子はその陰で・・・。あの日稲田園長は、こんなことをおっしゃいました」


 私は、皆さんに謝らなければいけません。愛美さんの心に寄り添えず、道を外させかけてしまった。義男君は、確かに卒園後もたびたび面会に来てくれていて、それで愛美はずっと健やかに成長してきた。合田先生も、義男君の件については確かに、くすのき学園内では問題とせざるを得なかったが、愛美さんには、本当に、よくやってくださった。そのことには、感謝しています。愛子さんにまで無理は言えませんが、義男君がちょっと忙しくて手が離せなくなったとたん、とんでもないことに巻き込まれかけてしまった。

これはすべて、私の責任です。この度は、申し訳、ありませんでした。

 

 稲田園長がここまで神妙に謝る姿、私は初めて見ました。いったい何が起こっていたのか。私にも愛ちゃんにも、伯父にも、皆目わかりませんでした。頭をあげ、出されていたお茶を少しばかり口にされて、稲田先生は、愛美の状況を話し始めました。

 愛美は稲田園長の横に、黙って座っていました。この日は平日でしたが、学校を休まされていたのか、私服姿でした。


 義男君がこの4月初旬に面会に来てくれた頃までは、特に問題は、なかった。

 しかし、夏休みが終わったころを境に、彼女の素行が、少しずつ悪いほうに向かっていきました。

 まず、帰りが幾分遅くなった。

 それから、クラスは違うが、それまでなかった悪友との付合いが始まった。名前は伏せますが、O大附属中を退学してM中に転校してきたA君というのがいましてね。クラスは違うが、彼と出会って付合い始めた。

 最初は学校内で話すぐらいだったのだが、学校内外でよからぬ言動が目立ち始めました。いわゆる「エロ本」というのですか、そういう本をうちに持込んで、同級生の孝子たちと読んでいました。

 それは、合田さんもご存知の、あの各務さんが、彼女たちが学校に行っている間にその本を見つけて私のところに持ってきて、発覚しました。その日のうちに彼女たちを呼出して聞くと、愛美がA君からもらったものだと言いました。


 本音を言うと、私だって男ですから、そういう話が嫌いないわけじゃない。

 男の同僚とそんな話で盛り上がったことは、何度もあります。

 ですが、立場上、最低限の建前だけは守らないといけない。まして、うちは子どもたちを預かる養護施設ですからね。


 なぜまた、そんな子たちと愛美が付合うようになったのか?

 M中学の校長に会って、話をしました。

 A君は中学受験をしてO大附属中に合格した。確かに勉強はよくできていたのだが、あの中学校は、親同士の付合いが大変でしてな。腰の座った例外的な人たちはともかく、親、特に母親同士の見栄や嫉妬で子どもたちが振り回されるところがある。A君はそんな雰囲気に嫌気がさして、M中学に転校してきた。彼はもともと街中のX中学の学区に住んでいたが、母親がそんな不良中学の学区に息子を通わせるわけにはいかないと言って、結局、郊外で父方の祖父母の住んでいるM中に転校させた。

 ただねえ、中学に入る前からのX中をはじめとした悪友との付合い、ずっと続いております。

 彼は、勉強は並以上にできるが、それに比例して悪智恵もついている。言い方は悪いが、マセガキですなと、校長はおっしゃった。

 賢いが、それ故に性質の悪い子だとね。

 そんな子ですから、何人か、女の子との関係も持ったこともあるらしい。持ち物を調べたら、避妊具を持っていたとの情報もありましたからね。

 

 確かにそんな子どもたちでも、真剣によき方向に導くのが、教育者の務めです。

 だが、私は元小学校教諭で、現在は養護施設の園長です。

 入所児童でない中学生の彼のことまでは関知できない。しかし、愛美さんは私どもが預かっている児童ですから、関知する気もありません、では済まされません。

 実は今日、愛美を連れてきたのは、他でもない。義男君と愛子さんのところか、叔母さんご夫妻のところか、もしくは、伯父さんのご家庭か、この3つのうちのどこかで、愛美さんを引取っていただきたいのです。

 伯父さんのところはまだ子どもさんもおられるから難しいでしょうし、義男君のところも、年頃の妹さんの面倒をというのも難でしょう。

 叔母さんのご夫婦のところは、幸い子どもさんもおられないし、それなりに広いお家ですから、そこがベストの選択肢かとは思われますが、おいかがでしょうか?


 「園長の話を聞いて、伯父が早速、妹である夫婦に電話でそのことを打診したところ、うちは百姓の家じゃから一人や二人寝られる場所はあるから大丈夫、むしろ大歓迎じゃ、と言って、愛美の引受先は、すぐ決まりました。それはよかった。私たちも、いくばくかの養育費を出すことにしました。しかし、愛美のその数か月の様子を聞いていて、私は、唖然としました。あの時ばかりは、本当に、申し訳ない思いで一杯でした・・・」


 稲田園長の話を、義男さんが続けて紹介してくれた。


 とりあえず、叔母さんご夫妻が愛美さんを引受けてくださり、兄夫婦となる義男君と愛子さん御夫妻が、養育費の一部を負担してくださるという話もまとまりましたので、私としては、本当にありがたい。皆さんに感謝してもしきれません。

 ついては、大変お聞き苦しい話になるかもしれんが、聞いていただきたい。

 まず、このたびの中間テストですけど、5教科とも、平均点を割っています。

 特に数学と国語がひどかった。どちらも、40点がやっと。一番よかった社会も、覚えることを覚えきれていなかったために、60点。平均点をわずかながら下回っています。もちろんこの程度の成績でも、高校と名の付く場所でよければ、どこかには進学はできますよ。定時制、通信制まで選択肢を広げなくても、この程度の点数があれば、今からなら十分間に合います。

 とはいえ、中1の頃には、どの教科も80点近くはあったのですが、2年生になって、1学期の中間テストを境に、ずるずると点数が下がっていますからねぇ。

 まあしかし、テストの点数だけならそれほど問題にすることもないかもしれません。勉強しさえすれば、次の期末テストでも、数十点ぐらい上げることは十分可能です。

 ただしそれは、くすのき学園を出てM中から転校することが最低限の条件となります。

 幸いにも叔母様ご夫妻の家は倉敷市内ですから、岡山市内で知合った悪友諸君との交際も、これを機会にキッパリと断てるでしょう。

 早速にも、児童相談所に措置解除手続をして、転校手続も致します。

 もちろん明日も、学校は休ませます。

 これ以上通わせても、決してよいことにはなりません。

 本来ならA君らも含めて、学校のみんなにお別れの挨拶をさせてやるのが筋かもしれませんが、現在の状況を見ますと、それをすることによるリスクのほうが大きいですから、これ以上、M中学には通わせられません。

 問題は何より、このところのこの子の交友関係と、日頃の素行です。

 そこを加味すれば、実は、愛美さんが今回の中間テストで、これだけの点数がとれていることさえ、奇跡かもしれませんな。

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