#37 歌姫のエキストラ・ワーク
大学の授業の合間にやって来た、元カノ
いったい何の用だろうかと胸をざわつかせながら、僕はそれを開いた。
「突然にごめんなさい。ちょっと相談させて欲しいことがあったので、メールさせてもらいました。
ヨシトくんも見てくれた『いもうとが僕の恋のジャマばかりするんですけど!』ですが、あの作者のハマダマハさんって、名前は女性っぽいですが、実は男性なんです。
彼とはまだ直接に顔を合わせたことはないのですが、イラストの細かい打ち合わせは、何か月も前からメールをやり取りしてやっていました。
きょう、ハマダさんからこんなメールが来たんです。
『編集の
《いもジャマ》の売れ行きですが、なんと2日間で9割がはけ、異例の緊急増刷が決まったそうです。これ以上に嬉しくありがたいことはありません。
この絶好調、僕の書いた話がウケたというよりは、みっこさんのイラストの魅力のおかげだと思っています。あの表紙なくしてヒットしたとは思えません。
ぜひ、近いうちにお礼として一席持たせてください。四谷さんも交えて。
みっこさんと僕って、同じ明応で学年も同じということでしたよね。お会いして、いろいろお話がしたいです』
わたしは担当編集者の四谷さんから、ハマダさんが明応経済の2年ということは以前から聞いていましたし、四谷さんを通じてわたしが同じく文学部2年ということは彼も知っていたのです。
経済学部2年といえば、ヨシトくんもそうですよね。
それを思い出して、もしかしたらヨシトくんはハマダさんのこと、直接知っているんじゃないかと思った次第です。
ヨシトくんが知っているようでしたら、ハマダさんってどんなひとなのか、教えてもらえませんか?
ハマダさんは『善は急げ』とばかり、今週中にでも席を持ちたいと言っていて、わたしにいつが都合がいいか、返答を求めているんです。
出来れば会う前に、事前に彼のことを知っておきたいのです。ご連絡、お待ちしてます。みつ子」
メールを読み終えると、僕はため息をひとつついた。
いましがた話題になったばかりの問題と、こんな形で再び関わることになろうとは。
「どんなひと」というと、ひとつはハマダマハこと
みつ子にどういう返事をしたものかと考えあぐねていると、西洋哲学の担当教授、
「学生の本文は学問」。この金科玉条を思い出し、メールの文面を考える作業は後回しにして、僕は授業に集中することにした。
さいわい、宮田教授の講義は細々とした用語や人名など、ノートを取らないといけない内容が盛りだくさんだったので、僕は雑念にふける余裕もなく、1時間半をあっという間に過ごすことが出来たのだった。
授業終了後は、すぐにアルバイト先の「
そこへ向かうまでの地下鉄の中で、とりあえずの返事を書くことにした。
「メール、拝読しました。
きみが推察したように、僕は濱田くんと一年の時から接点があります。
とは言っても、教養の語学クラスとか他のいくつかの科目で一緒になっただけですし、クラス内の懇親コンパも1回やったきりなので、正直言って彼とはあまり話したことがないのです。
彼がライトノベルに興味があるとか、ましてや自分で書いていたなんて、まったく予想外でした。ふだんはテニスサークルの中心的なメンバーとして活躍している濱田くんに『物書き』のイメージはまったくなかったですから。
見ためはまぁ、清潔感のある好男子です。僕より少し背が高くて、中肉タイプ。性格のほうは、そういう理由であまりよく分かりませんが、クセとか嫌味とかはないので女子ウケはいいみたいです。会ってみて、たぶん変な印象は持たないと思いますよ。
きみの仕事の相方としては、問題ないひとだと思います。これからもいい関係を築いてください」
そう書いて、僕は迷うことなく送信した。
濱田という男は僕の見るところ、ライトノベル書きとしては珍しく、自分にコンプレックスを抱いていないタイプのように思える。
スポーツをこなし、女の子とも自然に会話が出来る、いわゆるリア充でありながらも、非リア充の世界もきっちり理解しているとは、大別すれば非リア充サイドにいる僕の、出る幕などないぐらいだ。
メールではそんな羨望の眼差しも少し交えて、ごく当たり障りのない紹介をしてみた、そんなところだ。
本当はそんな彼の中にも、何かしらドロドロと渦巻く情念があるのかも知れない。わざわざ小説なんて面倒くさいものを書く以上は。
でもそんなこと、今の僕には知るよしもない。
そして、知ろうとしたところで判るとは限らない。
だから、このレベルの返答でいいのだ、うん。
そのうち濱田と直接話をする機会があったならば、新たな発見もあるだろう。
そうしたらまた、みつ子に伝えてやればいいのだ。
いまはみつ子にとって継妹の家庭教師である以外の何者でもない僕には、それ以上のことをしてあげる義務はないはずだ。
そういう結論を出して、僕はアルバイトの仕事に
⌘ ⌘ ⌘
開店時間の5時ギリギリ、僕は「赤兵衛」に飛び込んだ。
「おはようございます!」
僕がそう挨拶すると、すでに開店準備に入っていた
おや、見慣れない顔だ。誰?
僕が口を開けてボーッとした表情をしているのに気付いたのか、店長はこう言った。
「あぁ、彼女ね。僕の
名前は
穂花、こちら
そういうと女性は僕の方を向いて、ペコリと挨拶をした。僕もおずおずと頭を下げた。
バンダナを巻きエプロンをした穂花は、化粧っ気もほとんどなく、見ため
「きょうはいつものスタッフさんの中で4時から来れる人がどうしても
「そうだったんですか。僕の授業時間の関係で、いろいろお手を
「いやぁ、ドンマイドンマイ。もともと分かっていることだし。
学生さんが学業をおろそかにすることになったら、そっちの方がよほど問題だ。気にしないでいいよ」
「ありがとうございます。助かります」
そして、僕は穂花にも再び頭を下げた。
「穂花さん、きょうはよろしくね」
「いえ、こちらこそ不慣れですので、よろしくお願いします」
ニコッと笑った穂花の
「店長、お若いとばかり思っていたのに、こんな大きい
僕が店長を冷やかすと、彼は鼻をかきながら照れくさげにこう返事する。
「いやもちろん、うんと年の離れた姉の子だ。穂花には『叔父さん』呼びはしないでくれと頼んでいる」
「はい、叔父さま」
「そういうことじゃなくって」
3人から自然と笑い声が湧き起こった。
「じゃあモブくん、これからはバトンタッチで仕事のあらましを穂花に教えてやってくれ。今から1時間くらいはたぶんヒマだろうし」
「分かりました」
僕は穂花をお店のテーブルに座らせ、その向かいに座った。
「では穂花さん、説明するね」
「はい、お願いします。で……」
穂花は、一瞬口
「ん、何かな?」
「先ほど、叔父さんからモブさんのお年をうかがっているのでお願いしたいのですが、呼び方は『さん』ではない方がいいです。わたしの方が年下なので。
勝手言ってすみませんがどうにも居心地がよくないんですよ、年長のかたから丁寧に呼ばれると」
「ずいぶんと礼儀正しいことを言うね。今どき奇特なひとだな。
かと言って呼び捨てってわけにもいかないし、ちゃん付けじゃお店の品位にもかかわるし……。
じゃあ、これでどう? 穂花隊員」
穂花は含み笑いをしながら、両手を掲げてマルを作って見せた。
「ラジャーです、モブ隊長」
僕と穂花隊員は、比較的お客の少ない6時頃まではマンツーマンでアルバイト業務のガイダンスを続けた。
穂花の飲み込みはとても早く、すぐにお店全体の構造、すべてのワークフローを理解してくれた。
きょう一日の教習だけでそのまま正式スタッフになれそうだった。さすが店長の姪御さんである。
6時前になると、ふたりの女性スタッフが出勤して来たので、彼女たちにも穂花を紹介した。そして、穂花にはふたりの担当業務の手伝いをしてもらうことにして、僕は厨房に入った。
調理中の店長が、僕に声をかけて来た。
「モブくん、どうだい、穂花は使えそうかい?」
「もちろんです。彼女、ものすごく優秀ですよ。
姪御さんに、お店にこのまま入ってもらえるとありがたくないですか?」
「あぁ、それはそうなんだけどね。
でも、それは実際は難しいだろうな、残念ながら」
店長は、眉を曇らせてそう言った。
「それは、どうしてなんですか?」
「穂花が学校にも行かず、就職もせず、短期雇いのフリーターばかり続けているのは、事情があるんだ。
あの子は、シンガーソングライターのはしくれでね。高校生の頃から曲を作ってデビューを目指しているんだ。
でも、今どき、ロックバンドでもダンスユニットでもなく、正統派のフォークソングを歌ってメジャーレーベルから曲を出すなんてのは至難の技なんだよな。
マーケットが無いわけじゃないが、それを必要としている層に存在を知ってもらって支持をかちとることは簡単じゃないようだ。
ユーチューブにも曲をアップしているけど、メジャーからまずお声はかからないって本人は言ってた」
「そうなんですか。ライブとかはやっているんですか?」
「いつもはこれからの時間帯にはストリートライブをやっているんだよ。きょうもその予定だったんだが、ライブよりは実入りがいいからと説き伏せて来てもらったのさ」
「なるほど。いつもはどこかの街角で歌っているんですね、彼女」
「そう。このまま続けても、何者になれるか分からないけど、彼女としては『あと1年はチャンスにかけてみたい』と言っている。
その1年間で目が出なかったら、ふつうに就職して、音楽はアマチュアで細々とやっていくつもりのようだね」
店長の話を聞きながら、僕は昨日の
詩乃はだいぶん早い時期、中学生のうちに音楽との折り合いをつけてその道を降りてしまった。本当は何かしらの才能があったかもしれないのに。
穂花はどうなのだろう。まだ彼女の歌声を聴いたことのない以上、なんとも言いようがなかったが、もしかしたら、本物の才能を持っているのかもしれない。
僕は、穂花の歌声をむしょうに聴いてみたくなったのだった。(続く)
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