#28 休日にだって仕事はある

辰巳たつみみつのメールへの返事を送信し終えた僕は、佳苗かなえ伯母おばさんへのお礼の電話がまだだったことを思い出した。


さっそくかけようと思ったのだが、ひとつだけ、辰巳家でかつての恋人と偶然再会したことも報告すべきかどうか、心に引っかかってしまった。


普通に考えれば、今回のことは偶然の一致以外の何ものでもないと思えた。


しかし、その一方でこうも考えることができた。


伯母さんは、実は以前から川瀬かわせ母子おやことも知り合いで、僕とみつ子が付き合っていたことまでも把握していた。


今回も、川瀬夫人の再婚によりみつ子が辰巳家の一員となったことも全部知った上で、あえて僕に姫子ひめこの家庭教師役を世話したのではないかと。


我ながらちょっと穿うがち過ぎな考え、というかほとんど妄想かな、とも思う。


だが、伯母さんの人脈のとんでもない広さを考えると、絶対にありえない話とは言えないような気がする。


伯母さんはすべてを知った上で、あえて僕を試しているのかも知れなかった。


さあ、どうする?


佳苗伯母さんに、ことの真相を尋ねるべきか?


僕はしばらく自問自答した結果、次のような結論にいたった。


「仮に伯母さんがすべてを知った上でやったことだったとしても、僕の問いかけに素直にイエスと言うだろうか。


おそらく『わたしはそんなこと、知らないよ』と、すっとぼけるんじゃなかろうか。


百戦錬磨の彼女相手に、うまく誘導尋問して自白させるなんて、僕には百年早い所業だ。


それにこの話題を出すこと自体が、下手をすると彼女と僕の信頼関係を損なうことにもつながりかねない。


『ヨシトくんはそんなことが理由で尻込みをするのか』


実際には尻込みするつもりはまるでないのに、そう思われるだろう。


僕の度量そのものを疑われる。


そうなれば一文の得にもならないどころか、デメリットしかない。


そう、家庭教師を新たに始める家庭に、元恋人が家族として存在していたところで、その仕事を降りる理由にはならない。


いや、してはならない。


僕自身も、そしてもみつ子も過去をきっぱりと清算し、それぞれが新しい目標を持って生きている以上、過去が現在の足かせにはなることはない。


そう思える以上は、元カノとの遭遇など話題にする必要などない」


僕はこのことについて「言わぬが花」というのがベストな解決策なのだという考えに至った。


ようやく気持ちに整理がついて、僕はスマホを手に取った。


「あ、佳苗伯母さんですか。ヨシトです。


今、よろしいですか?


「ああ。おつかれさま。


結果はどうだったかね?」


「おかげさまで、姫子さん本人にはすぐ了解をもらえました。


彼女はいかにもいまどきの女子って雰囲気ですが、意外と理解力があってそれに素直なので、教えやすい生徒さんだと思います。


ご両親や義理のお姉さんも、とても気さくで優しいかたばかりで、申し分のないご家庭です。


こんないいお話を紹介していただき、伯母さんには本当に感謝しています」


「そうか。それはよかった。


明日はおにしまさん、辰巳さん宅の次は火曜日だったな。


どちらもせいぜい、頑張ってくれたまえ」


伯母さんとの会話は、あっさりと終わった。


拍子抜けするほどに。


そう、これでいいのだ。


気に懸かる問題も自分の中でまず処理して、他の人を出来る限りわずらわせないようにする。


そういうのが大人のやり方なのだろうと、大人一年生の僕は思った。


その日の夜、僕は家庭教師のことはいったん忘れて、読みさしだったミステリ小説を久しぶりにひもといて夜更かしをしたのだった。


      ⌘ ⌘ ⌘


明けて日曜日。


僕は昨夜小説を読んで3時前まで起きていた割りには早く、9時前には起床した。


きょうのスケジュールをスマホで確認する。


アルバイトは、もちろん入れてない。


週1日くらいはインターバルがないと、肉体的にはもちろんだけれど、精神的に疲弊するからね。


とはいえ、差し迫った用事がないからといって、1日ウダウダと過ごすわけにはいかない。


これまでのように、ヒマにあかせて高校時代の友人に連絡して昼間っから酒を酌み交わす、みたいなことはしている場合じゃない。


あるいは、クルマを持っている大学のクラスメート(ちなみに明応では自分専用の自家用車を持っているヤツが4割くらいいる)にスリスリして、湾岸ドライブに行くとかも、当分お預けだ。


いや、ごくたまにはいいんだろうけど。


家庭教師2本という、結構大変な仕事を抱えてしまった以上、休日だからと言って完全オフと洒落込むわけにはいかない。


生徒の側にも課題を与えたように、教える僕のほうも事前に「予習」をする必要があるのだ。


とりあえず僕は、高校時代にさんざん使い倒した、山下出版やら文秀館やら成文堂やらの歴史参考書を本棚から引っ張り出してきた。


「世界史便覧」「日本史事典」「世界史地図」、そんなタイトルの本が並んだ。


「これをまた、読み返すことになるとはねぇ……」


そう呟きながら、ざっと目を通していく。


でも、今回それらの参考書を読む視点は、2、3年ほど前とはだいぶん違う。


当時はただひたすら、歴史上の人物名や事件名をを頭の中に叩き込む、みたいな作業で手一杯だったが、今回はそれら個々の事象よりも、歴史全体の流れをたどることに力点が置かれるのだ。


僕は過去の参考書群に、最近読んだばかりの文庫本、「マクニール世界史講義」、そしてハードカバーの「1日1ページ、読むだけで身につく世界の教養365」の2冊を加えた。


カナダ出身の歴史学者、ウィリアム・ハーディ・マクニールは16世紀以降、西洋文明が他の文明に与えてきた劇的な影響を「フロンティア」「感染症」「マクロ寄生」というキーワードにより読み解いている。


キダーとオッペンハイムのプロデュースによる2冊目の本は、学術書というよりは教養コラムというべき内容で、宗教や哲学、文学や美術、音楽といったわれわれが普段何気なく親しんでいる「文化」のバックグラウンドを分かりやすく解説している。


こういう本を子供の頃から読んでいれば、僕も早くから学問に目覚めて、そして学者になる道を選んでいたんじゃないかと思う、そんな内容だ。


昨日、辰巳姫子に火曜日までの課題として「かつて『帝国』と呼ばれたことのある国々をリストアップし、そのおのおのの崩壊の原因について述べよ」というのを与えたこともあり、僕はそれにまつわるいくつかの項目を拾い読みしていた。


たとえば、「アレクサンドロス大王」。


紀元前4世紀、ギリシア北部のマケドニア王国の王子だった彼は、父王フィリッポス2世がギリシアの都市国家ポリスを支配下に置いたのを20歳で継いで、死ぬまでのわずか13年間で一大帝国を築き上げた。


シリア、エジプト、メソポタミアを制し、ペルシア、インドにまでその版図を広げたが、大王の死と共にその強大な支配力は失われる。


大帝国は部下の将軍たちにより分割され、ローマ人に征服されるまでは数百年その状態が続いたという。


「戦争」のエキスパートによる、領土の拡大。


ただひたすら勝ち進むことで、獲得した大帝国。


日本で言えば織田信長に通ずるものがあるその短い生涯には、波乱万丈のロマンが満ちている。


凡人の僕などには、どうあがいても、逆立ちしても出来っこない「人生」ではあるな。


とはいえ、僕だけではなく、今の日本人全体にとっても、こういう「拡大指向」は夢のまた夢になっている。


75年前、戦争に負け、無一物状態となった日本。


しかしその後、奇跡とも呼ばれる経済復興を遂げた。


国民全員が「高度成長」のムードに酔いしれていた。


だがその繁栄が、アメリカが自国の労務費の節約のために「世界の工場」の役目を日本に振ってくれたおかげであることに十分気がついていなかった。


だから、日本は今度は自国の労務費を節約するために「世界の工場」役を中国に振ってしまった。


国内生産でなく、中国をはじめとする海外での生産にシフトしてしまった。


それも、基幹産業と呼ばれる業種ほど。


それがあだとなり、日本は製造のノウハウまでただ同然で他国に取られて、「世界の工場」の座を降りることとなってしまった。


後悔先に立たず、である。


今後、日本経済に起死回生の道はあるのか?


労務費の高い日本で、製造業復活は可能なのか?


はなはだ、疑問である。


……などと、取り止めもないことを考えていると、いきなり、携帯が着信音を発し始めた。ウォッ!!


マイケル・ジャクソンの「スリラー」だ。


こいつぁ、心臓に良くない。


実際に鳴ってみて、初めてよく分かった。


発信元は「茂部もぶ隼人はやと」。


数年前からひとり暮らしをしている、僕の兄だ。


ふだんはほとんど没交渉の兄貴が、急になんの用なんだろ。


取るものもとりあえず、僕はスマホの応答ボタンを押していた。(続く)

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