#30 兄の苦労、弟の苦労

わが兄茂部もぶ隼人はやととの久しぶりの会話は、いつになく立ち入ったものになっていた。


「今しがたお前、新しい家庭教師のアルバイトって超高給とか言ってだけどさ、教える子ってのはどんな感じなんだよ。


いくらペイが良くたって、素行不良、学業劣等の問題児とかじゃ割りに合わねーと思うけど」


「ふたりとも女子なんだけどね」


「女子?


しかもふたりともかよ?


そりゃまたうらやましいと言うか、なんと言うかなお話だな」


「ふたりとも、勉強はけっこう出来るほうだね。


教える側にとって、これ以上ありがたい話はないぐらいだ。


でも、ひとりはちょっと性格にクセがあって、およそ素直じゃない。


いわゆるツンデレなんで、一筋縄じゃいかない。


扱いには苦労しそうだ。


もうひとりは、逆にノリが良すぎて、時にこちらをからかってくるような小悪魔っぽいところもある。


その子も油断は出来ないタイプだな」


「こっちのほうは、どうなんだよ?」


兄はそう言いながら、指で自分の顔を指す。


「ルックスは、ふたりともけっこういい部類だと思うよ。


ひとりは典型的な清楚系お嬢って感じで、文句なしの美形。


ひとりはちょっとギャルが入ってるけど、顔だちもプロポーションも悪くない」


「いいじゃん、いいじゃん。


それだけで仕事へのモティベーションが上がるってものよ」


「どうなんだろ。


勘違いしないで欲しいけど、僕はその子たちを教えるために家庭教師になっただけであって、別に付き合う子を探しているわけじゃない」


「ふーん、そういうことを言い出すのが、ヨシトの融通のきかないところだと思うんだよな。


たしかに、教え子にすぐ手を出しちまうようなエロ教師にはなって欲しくないけどさ、その子たちも、教えている間はともかく、将来付き合う女性候補の中には入れておいていいんじゃないのか。


まったく、もったいない話だぜ。


つーかお前、そこまで身持ちが堅いってことはさ、新しい彼女でも出来たのか?」


「いや、それはないよ。


いまは彼女なしさ」


「そうなのか?


以前お前が話をしてくれた、別れたあの子とはそれっきりなのか?」


僕は一度、かつての恋人、川瀬かわせみつと別れたことを兄に話したことがあるのだ。


「うん、それきりさ。


1年以上、会っていない」


つい昨日再会したばかりという事実については、僕はウソをついた。


「みつ子ちゃんって言ったっけ?


その子と別れてから、もう1年経つんだ。


早いもんだな。


それからずっと彼女なしって、えらく情けなくないか?


二十歳はたちっていう、青春まっただなかのいい男がよ」


「そりゃそうかもしれないけど、出来ないものはどうしようもないんだよ。


まぁ、彼女がまったく欲しくないってわけじゃないけど、当分はアルバイトに全力投球しなきゃいけないから、彼女作りどころじゃないんだ」


「そういうものかねぇ。


ハードなアルバイトをしながら彼女を作るぐらいのこと、出来ると思うがな。


現に俺はどんなに仕事が忙しくても、彼女との付き合いは絶対後回しにはしない。


お前のそういうシングルタスクなところ、前と全然変わってないんじゃないかって気がしてきた。


さっきは『えらく成長したんだな』とか褒めたけど、悪りぃ、前言撤回だ。


もっと融通無碍ゆうずうむげにやれるようになんなきゃ」


その物言いに僕はちょっとムッとして、こう言い返した。


「兄さんはそれが出来るかもしれないけど、あいにく僕には無理なんだよ。


兄さんのようにいくつものことをマルチタスクで器用に出来る人間がいる一方、僕のようにひとつごとに集中するだけでアップアップな人間もいるのさ。


能力の差だよ」


兄は首を傾げながら、こう答えた。


「そうかねぇ……。


能力じゃなくて気の持ちよう、やろうとする心構え、その問題だけって気が俺にはするんだが」


これにはうまく反論できなかった。


そう言われると、「そう言うものかもしれない」と考えてしまうのだ、僕という男は。


兄は言葉を続けた。


「とにかく、彼女を作るなんてことは、頭の中であれこれ考えているうちは絶対出来るわけがない。


行動するしかない。


思うにお前の場合、『この子は彼女にする対象外』と判断するフィルターがえらく高性能過ぎるんだよな」


皮肉を言われてしまった。


「それは……たしかにそうだって自覚してるけど」


「だろ?


例えば、俺たちのいとこに深雪みゆきちゃんっているじゃん」


「あぁ、深雪ねぇね」


「彼女だって、お前はそうとは思っていないだろうけど、立派な彼女候補のひとりなんだぜ」


深雪姉が僕の彼女候補?


そんなこと、一度も考えたことがなかった。


「なんか、意外そうな顔をしてるけどさ、いとこ同士っていうのは法律でも結婚が許されているんだぜ」


「そりゃ知ってるけど……」


「それに、深雪ちゃんがお前より3歳年上ということも、お前の意識が深雪ちゃんを彼女候補から外してしまう原因じゃないかと思う。


お前が自分の恋人や伴侶として、自分より年下の女性を選ばないといけない、そうしてその子を守ってやらないと、リードしていかないといけないと思っているとしたら、それはあまりに型にはまった先入観だと思うよ。


これまで俺が見てきたところ、お前と深雪ちゃん、わりといい感じのふたりに思えるんだが。


俺などよりはずっと」


「えっ、そんなこと思ってたの、兄さん?」


「あぁ、深雪ちゃんって弟のような男性を育てて、見守りたい性格なんだよ。


俺のような年上の男にはあまり興味がないようで、いつも彼女の視線は俺よりもお前のほうを向いていた」


「そんなこと、今兄さんに言われるまで意識したこともなかったよ」


「だろうな。


お前は常日頃、自分のことを敏感な人間だと思っているような節があるけど、単に自分の感情に敏感なだけで他人の感情を敏感に察知しているわけじゃない。


そう考え直したほうが、いいかもな」


僕はその言葉にイエスともノーとも言えず、黙りこくってしまった。


「深雪ちゃんのことは、あくまでも一例として上げたまでで、別に気にするほどのことでもない。


お前自身に彼女を想う気持ちがさほどなければ、この先もただのいとこ同士で通せばいい。


まぁ、彼女なんてものは義務感で作るものでもないし、無理をしてでも作るべきものでもない。


欲しいという気持ちが極限まで高まるまでは彼女作りを待つというのも、ひとつの手ではある。


だがよ」


兄はそこで一瞬のめを作った。


「ヨシト、お前がその子を彼女にしたいと思う時まで、その子がお前のことをずっと好きでいつづけてくれる保証なんて、まったくないんだからな。


いや、明日だって好きな気持ちが続いているかどうかさえ、分からない。


男と女の関係で、一番大切なのはタイミングだ。


それぞれの気持ちが同時に盛り上がって、初めて愛が成立するんだ。


これは過去にいくつもの苦い経験を味わってきた俺からのアドバイスだ」


そう言って、兄はニヤリと笑った。


この口八丁手八丁の兄にしても、恋愛関係ではそれなりに苦労はしてきたんだな。


それを聞かされて、これまでは自分よりずっと高い所にいたと思っていた兄が、少しだけ身近な存在に思えてきた。


「分かった。いや、よくは分からないけど。


これからは、自分の気持ちだけで動くんじゃなくて、相手の気持ちをよく知るよう、心がけるさ」


「そして、時にはダイナミックに仕掛ける」


「えっ、それってつまり?」


「相手の気持ちを忖度そんたくしているだけでは、単なる腹の探り合い、相撲でいう『お見合い』状態になっちまうことも多い。


時には、失敗も覚悟して、相手の懐に飛び込んでいく賭けが必要だ」


そう言われてもなぁ。


それは僕にとっては、一番苦手とすることだった。


「うーん、それが簡単に出来れば、苦労がないんだけど」


「そのへんがまだまだ成長出来てないな、やはり。


今のヨシトには、根本的な意識改革が必要だ。


常識とか世間体とか、そんなありきたりの物をいったん忘れて、人生において何が本質的で重要であるかを見極めることさ。


大学にいるうち、あと2年で。


そうすれば、お前がまだ見つけられないと言っていた『本当に自分がやりたいこと』が見つけられるはずだ」


ここで兄は、ふと思い出したかのようにこう言った。


「そう言えば、俺の今の彼女、ヨシトにはまだ紹介してなかったよな?」


今カノとは誰のことを指すのかよく分からないけど、ここ1、2年兄から恋人の話さえ聞いていなかったから、『会っていない』で間違いないだろう。


「あぁ、そのはずだよ」


「そうか。じゃあ、近いうちに紹介するわ。


以前付き合っていた子とは婚約寸前まで行ったんだけど、俺がこういう自営業で普通のサラリーマンじゃないことがネックになり、親御さんから断られちまった。


でも今の彼女は、そういう頭の固い家庭の子女ではないし、何より彼女自身、IT業界に身をおいて日々フロンティアとしての役割を果たしているようなひとだ。


俺の一番の理解者でもある。


見栄えがいいばかりで、IT業界のカネの匂いにだけ敏感なグルーピーにはもううんざりしていたんで、結局そういう『同志』みたいなひとに落ち着いたってことさ」


「そうか、それはよかった。


今度会えるのを、楽しみにしてる」


「オーケー。


30目前の俺と違って、若いお前はまだまだひとつところに落ち着く必要はないさ。


その家庭教師として教える子たちもそうだし、深雪ちゃんもそうだが、いきなりひとりに絞り込むな。


出来れば、その中のひとりと付き合っている時も、他の子も本命の子と上手くいかなかったときのことを考えて、保険として手元に引き付けておけ。


それは別に倫理的に許されないことじゃない。


処世術だ。


お前の性格だと、特定のひとりにのめり込み過ぎてしまい、それが破局となった時に精神的ダメージが大きくてしばらく立ち直れない、そんな風になりがちだ。


実際、みつ子ちゃんとの失恋以来、ずっとそんな感じなんだろ?」


僕はその指摘を、さすがに否定出来なかった。


「俺の意見だと、お前はもしまた縁があるようなら、みつ子ちゃんともう一度付き合ってもいいんじゃないかと思ってる」


そう言われて、僕は思わず息を呑んだ。


「それどころか、彼女と別れる原因となった、お前に思いを寄せていたが、お前自身は何とも思っていなかった中学生、今は高校生かもしれんが、その子だって選択肢としてありだとさえ思っている」


「そりゃまた、極端というか無茶な……」


「そうかな。


一見、ありえない話に思えるかもしれないが、人生、どこで再び運命の糸がつながるかもしれない。


1、2年会っていなければ、お互いの状況も気持ちも変わる。


細胞が全部入れ替わるように、別人になる。


人間って、そう言うものさ。


そうして、お互い新たな自分になって、新しい恋を始めることも出来る。


一度気まずい別れをしたぐらいで、二度とよりを戻しちゃいけないなんて決まりはないさ。


リズ・テイラーとリチャード・バートンの例を見ろよ。


何回、破局と復縁を繰り返してるんだか、分かりゃしない。


だから、先入観を捨てて、すべての縁を大切にするべきなのさ」


そう言って、兄は自分の腕時計で時間を確認した。


約1時間が経過していた。


「本当はこの後もヨシトと、とことん飲み明かしたいところなんだが、あいにくまた会社に戻って明日のプレゼンの準備を続けなきゃならない。


でも、次回はもう少し時間をとって、じっくり話そうぜ。


じゃあな、いろいろと健闘を祈る」


そう言って、兄は勘定書を片手に、僕の前からあっという間に去って言った。


「身体、大切に」


僕は彼に、その一言だけかけるのがやっとだった。


短い時間だったが、兄は僕の心にいくつもの小波さざなみを立てて去って言った。


それが僕のこれからにどのような大波を起こすことになるのかは、その時点ではまったく予想もつかなかったが。(続く)

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