#25 好機は二度来ない

時間ときは一瞬、その歩みを止めた。


そこにはまぎれもなく僕がかつて付き合っていた女性、川瀬かわせみつ、その人が立っていたからだった。


僕は大きく息を飲んだ。


顔じゅうの筋肉が強張こわばっていくのが、自分でも分かった。


一方、みつ子の大きめの両眼は、さらに見開かれていた。唇には笑みはない。


明らかに驚愕の感情を示していた。


わずかなののち、僕は正気を取り戻して彼女にこう挨拶した。


「はじめまして、茂部もぶ凡人よしとと申します。よろしく」


僕が頭を下げると、彼女もあわてて僕にこう返した。


「は、はじめまして。かゎ…辰巳たつみみつ子です。


よろしくお願いします、茂部先生」


みつ子の後ろで、辰巳姫子ひめこが軽く笑った。


「お姉ちゃん、ここに来て半年は経ったのにまだ前の苗字で名乗っちゃう癖が抜けないよね、フフ。


でも、そういうドジっ子なところもお姉ちゃんの萌えポイントだと妹は思うぞっと」


さすが「姉萌え」なリトル・シスターの発言だった。


「先生、どうですか。姫子が話した通りの、抜群にキレイ可愛いなお姉ちゃんでしょ。


今ならフリーだから、まだ間に合いますよー、お婿さん候補に立候補してみては?」


これを聞いて、みつ子は即座に抗議した。


「やめてよ姫子ちゃん。わたしのこと、そんなふうに変に持ち上げるのは。


茂部先生だって、答えに困っているでしょ」


姫子は微笑みながら、継姉ままあねにこう答えた。


「はいはい、ごめんね、お姉ちゃん。


でも、プンスカするお姉ちゃんもまたよしでしょ、先生」


「また、そういうこと言うんだから!」


このやり取りには、僕も苦笑いするしかなかった。



本当に、みつ子は出会った2年近く前からちっとも変わっていないな。そう感じた。見た目も、中身も。


先ほど、そして今も姫子が言ったように、新しい彼氏はまだいないのかもしれない、そうも思った。


だが、たとえそうだったとしても、今の僕にとってはまったく関係のない話だった。


みつ子との仲は、きちんと終わっていた。


過去完了形になっていた。


約一年前に。


いまさら、リスタートなどありえない話だった。


みつ子と予期せぬ再会をして、一瞬たじろいだものの、すぐに平静を取り戻し、初対面のふりをすることが出来たのは、そういう理由からであった。


10分ほど前から感じていたイヤな予感、あの姫子を描いたイラストの書き手がもしかしたらみつ子ではないかという危惧、それがズバリ的中してしまったからといって、僕は姫子の家庭教師役を降りようなどという気にはさらさらならなかった。


かつて、女子中学生を教えていた頃の僕ならば、そういう「敵前逃亡」の愚挙に出たかもしれない。


だが、今の僕は違う。


何をすべきか。何をしてはならないか。明確に判断出来る、と思う。


自分で自分の学費をちゃんと稼ぎ切るまでは、この仕事を身勝手な理由で降りるわけにはいかない。


さらにいえば、特別の計らいによって上客を紹介してくれた佳苗かなえ伯母おばさんのメンツを潰すことも許されないのだ。


教え子の継姉が偶然にも元カノだった、なんてどこかの小説の設定みたいな話だが、それが僕にとって耐え難い「葛藤」になるわけがないじゃないか。


教え子本人ではないんだから、アルバイト先の家で、その女性と毎回のように顔を合わせるとは限らない。


むしろ向こうだって、出来るだけ僕と顔を合わさないようにするものじゃなかろうか。


結論として、何の問題もない。そう思った。


思い切った。


「そういえば」


いきなり、姫子が話題を変えてきた。


「モブ先生って、漫画とかイラストとかに興味がけっこうおありなんですって、お姉ちゃん」


「そ、そうなの?」


みつ子は戸惑いの表情を見せている。


「はい。子供の頃は漫画家志望だったけど、今は読み専だそうです。


お姉ちゃんがイラストが得意だってこと、投稿サイトでも人気上昇中ってこともお話ししましたよ」


「そんなことまで?」


「今度、イラストをお見せして、感想をお聞きしたらいいんじゃない?」


ずっと黙ったままなのもどうかと思ったので、僕もひとこと付け加えた。


「お姉さんが姫子くんを描かれたイラストがありましたよね。


あれがとてもよかったですよ、姫子くんの特徴をよくつかんでいて」


「そう、ですか…。それはどうもありがとうございます。


好きで描いているだけの素人芸ですけど」


「いやいや、それでも姫子はお姉ちゃんのこと、『美人過ぎるイラストレーター』で十分売り出せると踏んでいるからね。


今度、サイトに顔出し…は無理にしても、セルフポートレートをアップしてみたらどう?」


「もう、やめてよ姫子ちゃん。恥ずかしいから」


そうやって、わちゃわちゃイチャついている美人姉妹であった。


これもまた眼福といえば、眼福か。


「まぁ、モブ先生の本格的な授業は次回の火曜日からになると思うので、新作とか描いているようだったら、それまでに仕上げといてね」


みつ子のイラストを僕に見てもらうこと、姫子の頭の中では確定事項になっちまってるじゃん。やれやれ。


「は、はい……」


いかにも気乗りのしない返事を妹に返した後、みつ子はこう僕に言った。


「それではこんな妹ですが、くれぐれもよろしくお願いしますね、茂部先生」


そうして頭を深々と下げて来たので、僕もあわてて頭を下げる。


「こちらこそ。大切な妹さんのため、誠心誠意を持ってつとめさせていただきます」


みつ子が部屋から去ってしばらくした頃、姫子は椅子に後ろ前に座り、僕のことを見上げてこう言った。


「ふっふーん。どうでしたか、先生。


おメガネにかないましたでしょうか、うちの姉は?」


僕も椅子に座りながら、丸めたこぶしで姫子の額を軽くこづいた。


「こら、大人をからかうなって言っただろ」


「そうはおっしゃいますけど先生、恋愛はいたるところにチャンスがあるものなんです。


そのひとつひとつのチャンスを大切にしていって、初めていいご縁にめぐり会えるものなんですから、もう少し自分に素直になりましょうよ。


どうだったんです、実際の話、うちのお姉ちゃんは?」


いた風なことをいうよな、まったく。


たしかにお姉さんは綺麗なひとだと思ったけど、ただそれだけのことだ。


僕は特に興味はない」


「はいはい、そうですか。


あれだけの上玉を見て、何とも思わないなんて、先生は本当にボクネンジンですねー。


わたしなんか、いつも友だちのお兄さんあたりから『姫子のお姉ちゃんを紹介しろ』ってしつこい依頼が来るので、それを断ってばかりですよ、まったく」


「別に僕とはまるで関係のない話だな」


「分かりました。そこまでおっしゃるのでしたら。


じゃあ、いいことわざを教えてあげましょう。


『いい女との縁に、またの機会はない』ってね。


次、火曜日にお姉ちゃんに会った時には、すでに別の男と婚約しているかもしれませんよ」


「まさか。さすがにそれはないだろう。


ところで、そのことわざ、誰の言葉なんだ?」


「たった今、姫子が作りました。オリジナルです」


「自作かよ!」(続く)

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