#21 姫子の部屋

辰巳たつみ家のだだっ広いリビングルームで、ご主人の秀一しゅういち氏、そして僕がこれから勉強を教える(ことになるであろう)姫子ひめこ嬢と僕がもろもろの話をしている間、奥さま(たしかキヨノさんといったよな)は特に口をさし挟むことなく、じっと僕たちの話を聞いていた。


そのうちにすっと立ち上がった彼女は、しばらく中座していたが、まもなくティーポットやカップを黒いトレーに載せて運んで来た。


「お茶をお持ちしました。どうぞ召し上がってください」


手元に置かれ、紅茶が注がれたティーカップを見ると、日本を代表する服飾デザイナー、シンゾー・ハヤシのデザインのものだった。


その丸みを排した鋭角的なデザイン、そして小さなSHのロゴマークは、さほどデザインの分野に詳しくはない僕にも、ひと目でシンゾーの「作品」だと分かった。


そう感づくと僕はいま一度、周囲の風景を見回してみた。


このリビングルームには上質のソファ、大型テレビ、ライトスタンド、観葉植物の鉢、そういったものは置かれているが、所帯じみた匂いのするものは、何ひとつない。


ゆえに、空間の広さを否が応でも感じざるを得ない。


むしろ、もののない空間こそが、この部屋のあるじといってよかった。


家屋といいインテリアといい生活用品といい、どれひとつとっても、その隅々に辰巳氏のセンスが貫かれているのだ。


社会的に成功し、富を勝ち得たひとは世の中に多数いるだろうが、ここまで徹底的な美意識を持って自分の暮らしを妥協なくプロデュースしているひとは、そういないんじゃないか。


モノで暮らしを埋め尽くす、そういう足し算思考のお金持ちは数多あまたいても、無駄なものを一切排する引き算思考の成功者は、なかなかいないように僕はいつも感じていた。


富と地位を得ながらも、いわゆる成金的なお金の使い方をせず、センスある生き方の出来るひと。


そしてその身体からだからも、一切の余分なものを削ぎ落として生きているようなひと。


身の回りで初めてそういうひとに、僕は遭遇してしまった。


ホントにいたんだな、そういうひと。


要するに僕は、辰巳氏のセンスに心酔してしまったのだった。


紅茶を飲み終えたあたりで、辰巳氏がこう切り出した。


「それでは、さっそくですが、姫子の勉強部屋のほうに移動して、彼女と一緒に今後の具体的な勉強計画を立てていただければと思います。よろしいでしょうか?」


いかにも意志の強さを感じさせる眼差しを向けて、彼はそう僕に確認して来た。


「もちろんです。よろしくお願いします!」


食い気味に、僕は即答した。


既に言ったことではあるが、辰巳邸は周囲の豪邸群のなかでも、ひときわ大きい。


というか広い。


百五十坪はあると思われるその敷地の広さを生かして、今どきの家には普通ありえない「平屋ひらや」、つまり一階建てなのだった。


部屋へ案内される途中、そのことを辰巳氏に話すと、こういう答えが返って来た。


「わたしがアメリカに住んでいた頃は、こういう作りの家が一般的だったんです。


それに慣れているということもあって、日本で家を建てる時も、すべて一階に収まるように設計してもらったんですよ。


二階建てにすると、何というのかな、オープンな感じじゃなくなりますよね。


二階にいるひとのやっていることは、一階にいるひとには分かりにくくなる。


ああいう感じは、好きじゃなくてね。


あと、自分が歳をとって、身体がいうことをきかなくなった時のことも考えてあるんです。


二階への上がり下りをしない作りのほうが、どう考えても高齢者にはいいでしょ」


日本の住宅事情から言えば相当贅沢な話かもしれないが、どれもなるほど正論だなと僕は思った。


誰でも真似が出来ることではないけどね。


そういう、日本的な「ふつう」や「あたりまえ」を軽々と飛び越えてしまうところが、辰巳秀一が辰巳秀一たるゆえんなのだろう。


       ⌘ ⌘ ⌘


姫子の勉強部屋は窓が北側に向いた、辰巳家の中ではかなり小ぶりの(とはいっても八畳くらいあるのだが)洋室だった。


そこに置いてあったのは、パソコン一式を置いてあるデスクと椅子、そして隣りには小さな本棚。参考書類が並んでいる。


僕は姫子にお客用らしき肘掛け付きの椅子をすすめられ、着席する。


「ここはね、もともとお納戸なんどとして使っていたの。


実際まだお洋服の一部は、そこのクローゼットに入っていたりするわ。


で、パパに『今度家庭教師の先生がいらっしゃるから、デスクをここに移動して勉強部屋としなさい』って昨日の夜言われたのね。


けさ、急いでここに動かしてきたってわけ。出来立てのホヤホヤよ」


そう言ってニコリと笑った。


おにしま家のときもそうだったけれど、この家も独立した勉強部屋をわざわざ作ったわけだ。


家の間取りに余裕がないと、絶対に不可能な話。


さすがだな、お金持ちって。


若い女性のベッドルームを兼ねた勉強部屋に、血気盛んな男性を招んでしまうというのは、常識的に考えてかなりリスクの高いことだと思う。


いろいろと、ヤバい事態が起こりうる。


あ、いや、僕がそういうリスキーなひとだと言うことじゃないよ。


あくまでも一般論、一般論(苦笑)。


そういう意味で、この施策は極めて正しいリスク管理だろう。


年頃の娘さんを持つ親御さん、ここ試験に出ます、覚えといて(笑)。


というか、つらつら考えてみるに、親御さん自身がそういうことを考えついて指示したというより、佳苗かなえ伯母おばさんの差し金なんじゃないかって気がして来た。


うん、こういう深謀遠慮しんぼうえんりょっていかにも伯母さんがやりそうだ。そうに違いない。


さすが、家庭教師界最強のラスボス(?)である。


万事、抜かりがない。


納得がいったところで、いよいよ姫子とサシで話を始めることにした。


部屋のドアは、先ほど辰巳氏が「オープンな感じでないと」と言ったこともあってだろう、開けっぱなしだ。


僕としても、それがむしろありがたい。


密室で可愛い女子と何時間もふたりきりなんてシチュエーション、メンタルが保つかどうか分からんからね!


「さて、姫子くん。まずはさっき話したように、これまでの定期試験や模試の答案を見せてほしいんだが」


僕がそう言うと、姫子はちょっとうろたえた表情になり、こう答えた。


「えっ? やっぱり、それってどうしても見せなくちゃダメですか、先生?」


「もちろんだ。


大丈夫、どんな結果でも僕は絶対馬鹿にしたり冷やかしたりしはないから。


安心して見せてほしい」


僕は穏やかに、しかし決然としてそう言い渡した。


しばらくモジモジとしていた姫子だったが、意を決したかのように口を開いた。


「分かりました。いま準備します」


そう言って、デスクの引き出しの中から、いくつかの紙袋を取り出して、中身をデスクの上に並べた。


姫子の実力、果たしていかほどのものか?


検査官インスペクターモブの仕事が始まったのだった。(続く)

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