#17 ともだちだから
そのついでに
僕は他のスタッフには気づかれにくいよう、カウンターの端のほうにそっと立って、追加オーダーを聞いているふうを
「お待たせいたしました。バーボンソーダ、ふたつです」
二人にそう声をかけると、深雪姉が顔を上げて答えた。
「ありがとう。さて、時間も限られてるから手短かに話すね。
けさ母に聞いたんだけどヨシト、久しぶりに家庭教師のアルバイト、再開するんだってね」
「はい、深雪姉。
「ああ、母の主義なんでね。でね、ヨシトが今度教えることになった高校生、
「そうなんですか」
「うん。もとをたどれば、母と詩乃ちゃんのお母さまとの付き合いから始まるんだけどね。
うち、今は世田谷に住んでいるけど、十年くらい前までは
「はい、少しだけ覚えています」
「
わたしの父と母が結婚して番町に住むようになって数年後、ご主人が結婚されて奥さまがあの家にいらっしゃった。
それ以来のお付き合いだという。
うちの母と詩乃ちゃんのお母さまは
お母さまが詩乃ちゃんの家庭教師の件を母に頼んだのも、そういう背景があってのことなのさ。
わたしも詩乃ちゃんが小学校低学年のころまで一緒に遊んでいたし、その後もときどき顔を合わせることがあった。
いわば幼なじみだな。六つも離れてるけど。
彼女が高校受験を控えたころは、わたしは大学生だったけど、少し文系科目の勉強を教えてあげたことがある。
あれも家庭教師だったといえば、そういうことになるのかな。
お金はとらなかったけど。
詩乃ちゃんとわたしはそういうご縁なんだ。
だから、わたしは彼女の人となりはよく知っている。
本当はとても繊細で優しい子なのに、それを素直にあらわすことが出来なくて、おかしな言動、不審な行動に走ってしまうことが多い子だということも。
わたしはだいぶん歳の離れた、お姉さんみたいな存在だったから、彼女と直接衝突することはあまりなかったけど、同世代の人たちとうまくやっていくのは相当難しいだろうね。
きみも昨日、彼女とじかに会ってみて、それは感じたんじゃない?」
僕は無言でうなずいた。
「加えてお母さまも『自分は常に正しい』と考えておられるような方だから、親子のコミュニケーションも大変みたいだ。
そんな面倒くさい
これからきみは、相当苦労することになると思う。
でも、めげずに最後までやり通してほしいと思っているんだ、深雪姉としては。
これまでどの大学生も詩乃ちゃんの相手を務め切れなかったけど、ヨシトなら彼女の本当の気持ちを理解してあげられるんじゃないかって期待しているよ」
そこまで一気に喋った深雪姉は、ひと息入れた。
そして、こう言った。
「ヨシトが見た通り、詩乃ちゃんはとてもきれいな子。
本当に、半端なくきれい。
大人のわたしも、会うたびにノーメイクの彼女に『負けた』と感じるくらい。
一緒に出歩くと、たいていの男性は詩乃ちゃんに注目する。
そして彼女を、自分の恋人にしたいと願うんだろうね。
ヨシトだって、たぶんそうなんじゃないかな。
だけど彼女、まだ男性との関わり方を知らないのは間違いないと思う。
ちょっと強がって、経験豊富なJKを演技するようなことがあると思うけど、それはあくまでも演技だから勘違いしないようにして。
『これはイケそう』みたいな
わたしは
ヨシトにすべての責任を取る覚悟があるのなら、詩乃ちゃんと教師生徒の枠を踏み越えた関係になっても構わないと思っているんだ。
でもそれは、家庭教師としてのすべての任務が終了してからにしてほしい。
勉強を教えながら一方で手も出すなんて、セクハラ、パワハラまがいのことは絶対やめてちょうだい」
僕はその時まで、ずっと深雪姉の目を見て話を聞いていたのだが、ここに来て彼女の表情がえらく
ちょとヤバい。
深雪姉は思いの
「そして何より、詩乃ちゃんの心を傷つけるようなことをしたら、わたしは絶対ヨシトを許さないから。
だって詩乃ちゃんは、わたしの大切なともだちなんだから」
その言葉を聞いて、僕は恐いとか威嚇されたとかとは思わなかった。
むしろ、深雪姉の悲痛な思いを知らされて、驚いたというべきだろう。
彼女の目は、心なしか潤んでいるように見えた。
「うん、わかった。大丈夫。それは誓うよ。
詩乃ちゃんがきれいな子なのは認めるけど、僕は彼女を自分のものにしたいなんて、大それた野望はこれっぽっちも持っていないよ。
彼女のような人には、僕みたいな平凡な人間よりもっとふさわしい大物が、世間にはいると思う。
まぁ、たぶん、詩乃ちゃんは僕なんか眼中にないさ。
昨日会った感じでよくわかった。安心して」
僕は軽く笑いながら言った。
深雪姉は、ようやく
「ごめんね、ヨシト。わたしが思っていることを一方的にまくしたてちゃって。
ついつい全部言ってしまうのって、社会人としてどうなのよって言われそう。
自分の妹でもないのに妙な心配しちゃってわたし、取り越し苦労もいいとこだよね。ハハッ」
そう言って、ようやくいつものサバサバした深雪姉に戻ったのだった。
そして、軽く頭を下げてこう言った。
「それでは、詩乃ちゃんのこと、よろしくお願いします」
「うん、任せてください」
そう答えて、僕は厨房に戻った。
腕時計を見ると、きっかり五分が経過していた。
⌘ ⌘ ⌘
その後、深雪姉と
時刻は十時過ぎ。閉店までには、まだ一時間弱あったのだが。
僕がそう言うと、深雪姉は顔をほころばせてこう言った。
「なーんか、久しぶりにがっつり飲んだって感じ。
これ以上飲むと、家に帰り着けなくなりそうだから、きょうはここまでにしとくよ。
でも、楽しかったよねー、レイ」
「うん、深雪と飲むと本当に楽しいよ。
仕事抜きだから、気を使わなくていいし」
「こらこら、たまには気を使えー」
「フフフ。でも、深雪はわたしより気を使わないといけない人が多くて大変だよね。
わたしはアシスタント扱いだから権限はないけど、責任もほとんどないし。
職場ではある意味『お姫様』扱いしてもらえるけど、深雪はほぼ女性だけの職場で、周りは全員先輩、仕事は任される代わりに責任も全部自分で取らないといけないとなれば、気の抜きようがないよね。
同情するわぁ。
たまにはわたしのような仕事がらみでないともだちと、飲んだほうがいいよ。
たいしたアドバイスは出来ないけど、余計なチャチャを入れずにグチを聞いてあげるぐらいなら出来るから」
「ありがとう、レイ。ともだちって、ありがたいわぁ」
会計が終わっても、そんな立ち話を続ける二人だった。
ふと、深雪姉が何かに気づいたかのように、バッグの中を探り出した。
「あ、これ、少ないけどヨシトにチップね。
レイと二人で出し合ったの。
出来たら、店長にもおごってあげて」
そう言うと深雪姉は、いきなり僕の掌に小型の白封筒を握らせた。
ゴルフのキャディさんに渡す時に使う、アレだ。
これには僕も意表を突かれたが、しのごの言わず素直にチップをいただくことにした。
「ありがとう。こんなことアルバイトをやっていて初めてだよ。ゴチになります」
そう言って僕は頭を下げ、機嫌よく手を振る深雪姉と篠山嬢を見送ったのだった。
それからの一時間弱は、お客さんもあらかた帰り、のんびりとした雰囲気の時間帯になった。
そうして、閉店時刻の十一時になった。
店長は女性スタッフをみんな帰らせた。
店内は彼と僕の二人だけになった。
「店長、先ほどのお二人にチップをいただきましたよ」
僕は、小封筒を取り出して、店長に見せた。
中を見ると、千円札が二枚入っていた。
「これで僕たちにお疲れさまの一杯を飲んでってことみたいです」
「おお、そうか。そりゃありがたいな。
僕は赤ワインをいただくとするか」
「では僕は、バーボンのロックをダブルでいただくことにします」
勤務時間中は絶対に喫煙することのない店長が、タバコを取り出してくゆらしている。
店長の手元にワイングラスを渡し、赤ワインをなみなみと注いだ。
僕もロックグラスを手に取った。
「じゃあ、乾杯」
「お疲れさまです」
そして、ともに酒をグイッとあおった。
いやー、その
労働の後の一杯は、格別の味わいである。
店長がしみじみとした口調で、こう呟いた。
「モブくん、ともだちって本当、ありがたいよね。
先ほどのお二人さんがまた来てくれたのも、きみのことを大切なともだちだと思ってくれているからだと思うよ。
深雪さんって言ったっけ、きみの
ともだちであるきみのことを、常に気にかけてくれているんだよ。
きみの代役を引き受けてくれた、
単にクラスが同じというだけでは、普通そこまで協力はしてくれない。
だから、きみも彼女たちにちゃんと気持ちを返してほしい。
テイクアンドテイクじゃなくて、ギブアンドテイクでね」
僕はうなずきながら、こう返事をした。
「ああ、その通りです。
彼女たちのために何か出来ることがあれば、きちんとお返ししないと、ですね」
きょう一日で、僕はいくつもの「ともだち」としてのつながりを再確認した。
深雪姉と詩乃。
深雪姉と篠山嬢。
深雪姉・篠山嬢と僕。
そして
僕一人だけでは辛くても、「ともだち」がいればこのしんどい状況をなんとか乗り切れるんじゃないか。
そう思えてきたのだった。
⌘ ⌘ ⌘
その後、小一時間ほどで店内の片付け、残りの洗い物などを済ませて、僕は店長よりひと足お先に店を退出した。
十二時少し前だ。
帰り
「こんばんは、
名越さんに話をしたお店『
櫻井店長も、名越さんの代役の申し出をとてもありがたいと言ってくれました。
ぜひ、来週の金曜日から来てくださいとのことです。
事前の面接は不要です。ただ、オーナーさんが他にいるので、その方に了解を取るため、履歴書を持参してください。
そうだな、名越さんの実家のデータも書いてくれたほうがいいかな。お名前とか電話番号とか。
金曜日は、五時開店の三十分前には来てください。
ご面倒をおかけしますが、なにとぞよろしくお願いします」
そして末尾に「赤兵衛」の所在地、電話番号を書き添えてメールを発信した。
五分後には、レスが来た。
「こんばんは。お疲れさまです。
わたしが無事採用されたとのこと、よかったです。
これでモブくんも心おきなく新しいアルバイトに打ち込めるよね。
頑張ってください。
では、来週金曜の授業でお会いしましょう。彩美」
それを読んで、僕は感謝の気持ちでいっぱいになった。
「ありがとう、名越さん。本当に助かったよ」
その一行だけ、彼女のメールへの返事を送ったのだった。(続く)
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます