#04 ファースト・クライアント

「その子とは、今も付き合っているのかな?」


佳苗かなえ伯母さんに、一年以上前まで付き合っていたガールフレンドのことを不意にたずねられ、僕は返す言葉を失ってしまった。


その場に流れる、気まずい沈黙。


すると伯母さんは、何かに気づいたかのように目を丸くし、早口でこう言った。


「ああ、そうだね、ごめんごめん。


そういうプライベートなことって、本来はこの仕事とは何の関係もないことだとは思うよ。


わたしには無理に聞き出す権利などない。もしきみが言いたくないと言うのならば、引き下がるつもりだ。


でも、わたしとしてはとても大切な問題なので、知っておきたいんだ。


どうかな?」


そう言って伯母さんは、訴えかけるようなまなざしを僕に向けてきた。


ほかならぬあのゝゝ聡明な佳苗伯母さんが聞きたいと言うことは、興味本位とか冷やかしとかで聞いているのではないはずだ。


それなりの必然性があって、尋ねているのだろう。


そう考えた僕は、素直に彼女に話すことにした。


「わかりました。伯母さんになら話しても構いません。


この仕事を始めるにあたっても必要な情報ということでしょうし」


「ありがとう。助かるよ」


伯母さんは軽く頭を下げてこう言った。


安堵の表情がうかがえた。


僕は、目線を応接室の一隅にある、洋風の小窓の方にそらせながら、こう語った。


「結果から先に言いますと、彼女とはそのあとも数か月付き合ったのですが、結局、別れました」


そうして、口をつぐんだ。


伯母さんは先ほどの笑顔を曇らせて、ポツンとこう言った。


「そうか。それは残念なことだったね」


「はい。教え子のあの子の気持ちをムダにして、それに伯母さんのメンツも台無しにして彼女を選んだのに、結局別れてしまうなんて。


本当に僕の力が足りませんでした。申し訳ありません」


僕は伯母さんに対して深々と頭を下げた。


伯母さんは、面食らったような顔つきになった。


そしてあわててこう答えた。


「おいおい、そんなに気にすることはないよ、ヨシトくん。


男女の仲は、すんなりとうまく行くほうがレアケースだ。


それにどちらかが一方的に悪いということも、普通はない。


要は相性の問題だから、別れてしまったことを自分だけのせいにしちゃいけない。


それから、別れる結果になったからといって付き合った相手が間違っていたとも思えないし、彼女を振って中学生の方と付き合うべきだったともいえない。


わたしとしては、教え子とのケジメをきちんとつけたきみの判断はまったく正しかったと、今も思っているよ。


わたしのメンツなんて、どうでもいいことだ」


「そうですか。そう言っていただけると、少し気持ちが楽になります。


彼女とうまくいかなかったのは、つまるところ、ふたりとも考え方が子どもだったからだと思います。


ふたりとも大学生になって初めてちゃんとした彼氏、彼女が出来たはいいけれど、どう付き合ったらいいのか、お互いによくわかっていなかった。


彼女の気持ちをうまくつかんで、それをしっかりと受け止められていたら、今だって付き合っていたんじゃないかと思うと、悔やまれます」


僕は唇を噛んで、そう言った。


「だから、そんなに気にしない方がいいって。


恋愛って、みんな、間違いを繰り返しながら、正しい方向を見つけていくものだよ。


もちろんこのわたしだって、何度恋愛で失敗したか覚えていないくらいだ。


だから、大丈夫だよ、ヨシトくん」


伯母さんは、そう僕を慰めてくれた。


いつになく、柔和な微笑みを浮かべながら。


目尻が下がって、ふだんと違う人みたいだった。


「本当のこと、ちゃんと話してくれてありがとう。


古傷に触れてしまって、ごめんね」


「いえ、過ぎたことです。お気になさらないでください」


僕はなんとか笑顔を見せて、そう答えた。


伯母さんは僕のその様子を見てだろうか、またもや尋ねてきた。


「ところで、その次の彼女は出来たのぉ、ヨシトくん?」


そう言う彼女を見ると、いつものいたずらっぽい、何かたくらんでいるような表情に戻っている。やれやれ。


えー、それも言わなくちゃいけないのー?


内心そうツッコミを入れながらも、僕はあえて逆らわず答えることにした。


「残念ながら、その後はひとりも彼女とよべる子はいません」


伯母さんは、うんうんそうかと、うなずきながら言った。


「わかった。今のところは、完全にフリーということだね。


まあ、それはそれで、この仕事をやっていく上では、都合のいい面もあると思うから」


そう言って、ハハッといつもの豪快な笑い方をした。


なんだか、含みのある言い方だなぁ。


何を言いたいのか気になるところではあるが、今の僕はそれを詮索できるような立場にはなかった。


好条件の家庭教師の口が見つかるまでは、ただただ、佳苗大明神の御威光におすがりするしかないのである。


余計なチャチャはこれ厳禁、なのだ。


伯母さんは、テーブルの上に用意していたファイルボックスから書類を取り出して、僕に渡した。


「これは、家庭教師の志望者に書いてもらう書類だ。


きみの在学する大学名をはじめとして、いくつもの記入欄がある。


たとえば志望動機や相手への要望、教えられる科目、就業希望の曜日や時間帯、報酬の受取り方法や期日などだ。


志望動機はすでに聞いているから簡単でいい。あとの項目はなるべく詳しく書いてくれ。


まあ、希望通りの条件になるとは限らないけどな」


そう言って、伯母さんはいたずらっぽく笑った。


僕がさっそくその書類の記入に取りかかったのを見て、伯母さんはスマホを取り出してチェックを始めた。


どうやら電話の着信履歴や、受信メールを見ているようだ。


「うーん」とか、「マジ?」とか小声で呟いている。


とはいえ、こちらも書類をちゃんと完成させないと話が始まらないから、耳をすまして聞くわけにもいかない。


しばらく僕は書類記入に没頭していた。


十分あまり経った頃、いきなり伯母さんのスマホが大きな着信音を発し始めた。


荘厳なオーケストラの響き。ワーグナーの「ワルキューレの騎行」だ。


いかにも男勝りな伯母さんっぽい。そう思ってしまった。


あわてて、電話に出る伯母さん。


「はい、三山みやまです。いつもお世話になっております」


そんな感じで通話は始まった。


しばらくは先方からの話が続いているようで、伯母さんはもっぱら聞き役だった。


「はあ」とか「そうなんですか」とか相づちを打っている。


僕は書類への記入を続けながらも、同時にチラ見でその様子をうかがっていた。


話し相手はおそらく、家庭教師の雇いクライアントのひとりだろう。


となれば僕にとっても、否が応でもその会話内容は気になるってもんだ。


話すうちに、伯母さんの最初の明るい笑顔は消え、だんだんと沈んだ表情に変わっていくのが分かった。


今受けているのが、少なくとものぞましい話でないことは、間違いなかった。


通話は意外と長く続いた。五分以上に及んだだろうか。


「承知しました。早急に対処いたしますので、連絡をお待ちください」


そう言って伯母さんは、スマホを切った。


僕は今の電話について尋ねていいものか、ためらいを感じてもじもじしていたが、そんな僕を見て伯母さんはこう口火を切った。


「わかっているよ。今の電話について聞きたいんだろ?


この話、もしかしたらこれからのきみにも関わりがあるかもしれないな。


この際、きちんと話しておこう」


そう言って、伯母さんは語り始めたのだった。


       ⌘ ⌘ ⌘


伯母さんに電話をかけてきたのは、おにしまさんという女性だった。


伯母さんの紹介した家庭教師を雇っているご家庭の奥さまだ。


つまり生徒さんのお母さま。


その家庭教師は、二か月ほど前に採用された帝都大学の男子学生なんだが、彼が出勤日のきょうになって、急にこんな電話をかけてきたというのだ。


「今後、お暇をいただきとうございます。わけは聞かないでください」


それも、いたって思い詰めたような調子だったという。


鬼ヶ島夫人からは、伯母さんからその学生に家庭教師を降りる事情を聞いてもらえないか、可能ならまた家庭教師を再開してもらえないかという頼みがあったという。


その学生は、あの帝都大の入試でトップクラスの成績だったという超絶優秀な人なので、このまま逃げられたくはないと言うのだ。


伯母さんはその依頼に対して、出来る限りのことはやってみますが、自分の息子でもない以上、彼に復帰を強制することは無理かもしれませんと言ったそうだ。


それよりは、もっと適性のある別の学生を紹介するほうが現実的には可能な策だと思いますと夫人に提案したところ、夫人は藁にもすがる思いで、それでも構わないから早く新人を紹介して欲しいと懇願したと言う。


「ちなみに鬼ヶ島さんは、新人を早急に見つけてくれるのなら、その人への報酬はこれまでの彼より、さらに二割アップしても構わないと言ってくれた」


その言葉を聞いて、僕の耳はウサギのようにピコン!と伸びた。


そして、少々不躾ぶしつけかなと思いながらも、さっそく疑問をぶつけることにした。


ただし、声のトーンを大幅に落として。


ここは伯母さんの勤務先、そういう話を大声でする訳にはいかないからな。


「伯母さん、そのアップした報酬って、時給でどのくらいになるんですか?」


伯母さんは、こう答えた。


「まあ、こんな感じだ」


彼女が差し出した右手を見ると、親指のみが折られて四本の指が伸びていた。


「ええっ、そんなに?」


家庭教師は他の学生アルバイトと比べると、相場でもかなり時給が高めなのであるが、それにしても時給で指四本とは!


相場のさらに二倍と言っていい。


俄然、テンションが上がってきた!


鼻の穴を膨らませた(に違いない)僕は、伯母さんに頭を深く下げ、こう頼み込んだ。


「伯母さん、その一件、他の学生に回さずに僕にやらせてもらえませんか!!」


伯母さんは僕の豹変ぶりを見て、呆れたような表情になった。


「おやおや、ずいぶんと乗り気じゃないか。


気が早過ぎないかい? 話は最後まで聞かなきゃ、ダメだろ」


そう言って、伯母さんは話の続きをしてくれた。


「きょう、帝都の学生さんが鬼ヶ島家の家庭教師を降りてしまったわけだが、実はこんなこと、その家では初めてって訳じゃないんだ。


きょう辞めた彼で、三人目。

以前の家庭教師も、だいたい二か月か三か月ぐらいで辞めてしまっている。


ひとり辞めるたびに、今度こそは辞めて欲しくないものだから、少しずつ時給も上がっていって、ついに相場の倍にまで上がってしまった、そういうことなんだよ。


次々と学生が降りていく原因、それは実はおおよそわかっている。


以前に辞めた学生に、ほとぼりが覚めたころ事情を聴いたからね」


「そうなんですか。辞めた原因って、いったい……?」


僕がたずねると、伯母さんは僕をしっかと見据えてこう答えた。


「ズバリ言うと、生徒である鬼ヶ島家のお嬢さんだ」


「ということは、お嬢さんが相当性格のわ…、じゃなかった、性格に問題のある人なんですか?」


おっと、言葉遣いは気を付けないとな。今後のことを考えるならば。


伯母さんは、首を横に振った。


「うーん、そこは微妙に違うと思われるのだよ。


普段はとても礼儀正しく、慎み深いお嬢さんなんだが、勉強部屋で家庭教師の学生とふたりきりになると、性格が豹変するらしいのだよ。


辞めた学生さんは、その状態が数か月続いていわゆるノイローゼ、言葉としてはもう死語っぽいけど、そんな精神状態に追い詰められてしまった。


普段の学業も手につかず、もう辞めるしかないと思い詰めたそうなのだ。


でも一番肝心な、お嬢さんの具体的な言動については、ろくに教えてくれなかった。


彼女の名誉のためとか、自分にとっても口に出すのが恥ずかしいから、とか言ってな。


だから、ことはまったく要領を得なかったのだけど、鬼ヶ島家のお嬢さんが相当な曲者くせものであることは間違いないだろう。


帝都大や西北大の超秀才たちでさえ、このありさまだ。


並の男では到底太刀打ちできない難物といっても、いい過ぎではないだろう。


いまわたしの扱っている案件の中でも、最も重大なケースとして、常に心を悩ましているのだ。


それを、きみは引き受けてくれるのかい?」


伯母さんは、僕の瞳の奥を覗き込むように、こう尋ねた。


だが、伯母さんの話をひと通り聞き終えたあとでも、僕の一度決まった気持ちはまったくゆるがなかった。


僕は、きっぱりとこう答えた。


「ひと月半の短期間で目標金額を稼ぐためには、なんだってやる覚悟は出来ています。


お願いです。ひとまず、僕にやらせてください。


それで、どうしても鬼ヶ島さんが僕を気に入ってくれないようでしたら、いさぎよく降ります」


伯母さんはしばらく僕のマジな表情を見ていたが、「了解」の印として右手の親指を上げて見せた。


「そうか。きみのやる気は、よくわかったよ。


そうだな、鬼ヶ島さんの家庭教師役は、能力や適性というよりも、不屈の精神、闘志があるかどうかで選ぶべきなのかもしれないな。


まずは、きみにこの件を預けることにしよう。


当然のことだが、ことの特殊性ゆえに就業日など諸々の条件は、きみの希望より相手の希望のほうを優先させざるをえない。


他のアルバイトも並行してやっているのなら、そちらのほうでスケジュール調整をしてくれ。


さらに言えば、教える科目でさえ、得意不得意とか言ってはいられない。


それこそ、きみが事前に勉強して臨むぐらいの覚悟がほしい。


そういったことは、わかっているね?」


「もちろんです。万障繰り合わせて、臨むつもりです」


「よろしい。じゃあ、さっそく先方に連絡するとしよう」


そう言って、伯母さんはスマホを手に取って、鬼ヶ島夫人にかけ始めた。


「三山です。さっそく、有望新人が見つかりました。


きょう、ご挨拶に伺わせたいと存じますが、いかがでしょうか?」


えっ、いきなりきょうの今日、行くんすか?!


予想してなくはなかったが、僕に確認もしないでいきなり話を進められるとは、ちと心臓によくない展開だな。


だが、ここは伯母さんの指揮に従うしかない身、多少の無茶ぶりには耐えるしかあるまい。


「はあ、新人のスペックですか? 明応大学の二年生ですが……。


えっ、そっちじゃないって? えー、まあ悪くはないほうだと思いますが……」


伯母さんと夫人、いったい何の話をしているんだろ?


今回はかなり手短かに通話を終わらせた伯母さんは、僕のほうに向き直って、こう言った。


「お聞きの通りだ。善は急げで、さっそくきょうから任務について欲しい。


一応、きょうは初回の挨拶ということになってはいるが、ことと次第によってはいきなり教える仕事に入る可能性もあるので、心して臨んでいただきたい」


そして、ジャケットの懐からメモ用紙を取り出すと、鬼ヶ島家の住所や電話番号などをささっと走り書きして、僕に渡してくれた。


「今回、きみが初めて対峙するクライアントは、いろいろと訳ありだ。


一方、その報酬もとびきりの高額となっている。家庭教師の時給としては最も高いはずだ。


二重の意味で、ファースト・クライアントと言えるだろう。


きょう、いや今後しばらくも含めて、きみにとっては相当厳しい『オーディション』になるとは思う。


奮励努力して見事突破するよう、健闘を祈る」


伯母さんはそう言って立ち上がり、僕の肩に手をかけてにっこりと微笑んだ。


指揮官はもちろん、僕に同行してくれない。


僕はひとりで、ファースト・クライアントの厚い壁を突破しないといけない。


今後起きるであろうさまざまな難事を想像して、武者震いを禁じ得ない僕だった。(続く)

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