第40話 退職理由 結婚のため 後編

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 程なくして、平野指導員が園長室にやってきた。

 彼女は、一通の封筒を持っていた。

 「伊島先生、あ、申し訳ありません、園長先生、実は私、このたび、結婚することになりました」

 そう言って、彼女は一通の封筒を差し出した。その封筒には、ボールペンで「退職届」と書かれていた。文面もまた、その文字に呼応した内容であった。


 「まあ、そんな呼び方、どっちでもよろしいって。それより、平野先生、この年末にお聞きしたとおり、結婚されるのだな。旦那さんは今、A市の弁護士をされているとお聞きしていますが、あなたは、旦那さんと一緒に兵庫県で暮らされることになるね。もしこれが姫路あたりまでなら、何とか、勤務していただくこともできたろうが、いかんせん、ご自宅が神戸市内ではねぇ・・・」


 彼女は彼より若く、彼女が学生時代からの付合いだから、口調も、それなりに「くだけた」ものになる。年上の職員や卒園生各位を相手するように気を使う必要もない。


 「ええ、そうです。とてもではありませんが、通勤できる距離ではありませんし、申し訳ありませんが、退職させていただくより他、ないです・・・」

 「まあ、これが岡山駅周辺、例えば、よつ葉園が昔あった津島町に今もあれば、住込みをしつつ休みには戻ってとか、そういうこともできるかしれんけど、今のよつ葉園は、ご覧の通り郊外の丘の上で、岡山駅までクルマで優に30分はかかるからね。新幹線の定期もあるけど、月当たりの負担が大きすぎるし、仮に回数券で月当たり5回往復されるとしても、月5万円近くになるから、とてもではないが、お互い費用対効果が合わない、というか、それ以前の問題で無理筋じゃ。そうかと言って、あなたに結婚するなと言うわけにもいかないし、旦那さんに、岡山県に来てくださいとも言えんし・・・」

 

 伊島「園長」が職員の退職業務を扱うのは、実は、彼女が初めてであった。

それまで人事に関する案件は、大槻前園長が前面に立って行ってきた。しかし、昨年園長職を譲り受けてからこの方、その手の業務の最終責任は、すでに彼の手にある。

もちろん彼は、児童指導員時代にも、大槻園長に対して意見を述べたことは幾度もあったし、それ故に慰留に成功した事例もあれば、本来ならもっと厳しい形で退職を迫るべきところをある程度温厚な処置に留めたこともあった。

 しかし、その最終決定をしたのは、彼ではなく、大槻園長であった。

 今年からは、このような案件も、すべて自分自身が最終責任を負わなければならない。すでに採用に関しても、彼は何人かの求職者の面接を終えていた。大槻理事長も立会ってくれていて、いろいろと意見は述べてくれるが、最終決定までは面倒を見ないと、すでに明言されている。

 彼は今、他人の人生を左右する局面で、その審判をすべき立ち位置にいる。その重さをじっくりと心身ともに味わいながら、彼は、平野指導員に手渡された「退職届」という名の届出に対し、受理するか否かの決断を迫られているのである。

 

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 このまま慰留しても、彼女のためにもならないし、よつ葉園の経費も増大する。

 彼女はこれまで、自分の同僚として、後輩として、よく頑張ってくれた。決して、お引取り願わなければならないような職員ではなかった。

 昔なら、ここは「おめでとう」と言って送り出せばよかったところだが、今は、必ずしもそういう時代ではない。

 だが、そのような一般論など、どうでもいい。

 要はこの案件にどのような処置をとるべきかがすべてだ。自分の職責から考えて、それだけに絞って処置しなければならない。そもそも「退職願」ではなく、「退職届」と書かれてある時点で、彼女の意思は固いことは明らかである。

 

 少しの間逡巡した伊島吾一園長は、ようやく、重くなった口を開いた。

 「平野さん、6年間と、それから、実習生のときも含めて、長い間、お世話になりました。ありがとう。あなたの退職届、これをもって受理します」

 彼女は感極まりつつ、今や上司となった先輩に対し、お礼の言葉を述べた。

 「伊島先生、長い間、ありがとうございました。生れ故郷の岡山を去るのは辛いですが、これからは、陰に陽に夫を支えていきます。それから、もう一つ・・・」


 「もう一つ? 何かおありかな?」

 伊島園長は、彼女の思いを述べる勇気を、そっと後押しした。

 「児童福祉の世界には、このよつ葉園を退職してからも、何らかの形で関わっていきたいと思っています。どんな形でそれを実現するかについては、私なりに考えてやっていきます。夫も、児童がらみの人権問題には大いに興味を持っておりますので、彼とも力を合わせて、何かに取組むことができればと、二人で意見を出し合っているところです」

 彼女は、園長室を去っていった。彼は、園長となって初めての退職届の受理という業務をこなした。

自分の決定は、これで正しかった。

彼は、そう自分に言い聞かせた。


 「退職といっても、それでその人の人生が終わるわけでは、決して、ない・・・」


 伊島氏は、ようやく座り慣れた園長室のデスクの前の肘掛チェアーに深く腰掛けて、そうつぶやいた。

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